あなた:
幕末に、イギリス東インド会社は薩長を援助し、フランス東インド会社は、徳川幕府を援助したという見方がありますけど、彼らの目的は、武器弾薬で儲ける以外に、権力者との関係を深めることでいろいろな利権を得ようとしたと思われますけど、その利権にはどのようなものがあったのでしょうか?
結果明治政府が成立し、イギリスが大きな利権を得たと思うので鵜sが、その利権にはどんなものがあり、現在まで続いているものには何がありますか?
ChatGPT:
とても重要で、しかもよく誤解されやすいテーマです。
結論から言うと、英仏の介入の目的は「武器商売」だけではなく、長期的な国家・企業レベルの利権確保であり、その中には現在まで制度や慣行として残っているものも確かに存在します。
以下、段階的に整理します。
① 前提の整理:東インド会社と幕末日本
まず重要な点として、
イギリス東インド会社(EIC)
1858年にインド大反乱を受けて実質解体
幕末期の日本(1860年代)では
→ 「東インド会社そのもの」よりも、ロスチャイルド系金融資本+英国商社+英国政府が主役
フランス
フランスは政府主導色が強く
→ 幕府(徳川政権)との正式外交・軍事顧問関係を構築
したがって、
英=薩長、仏=幕府
という構図は**実態としては「国家+民間資本の連携」**と見るのが正確です。
② 英仏の「武器以外」の本当の狙い(利権の中身)
英仏が日本で狙った利権は、大きく分けて6分野あります
① 貿易独占・通商特権(最重要)
不平等条約の本質
低関税(5%前後)
治外法権
最恵国待遇
これは単なる外交問題ではなく、
日本市場を「半植民地的に開放」させる制度でした。
特にイギリスは:
生糸(最大の狙い)
茶
石炭
銅
を安価に買い付け、
インド・中国・欧州の貿易網に組み込むことを狙っていました。
👉 薩長支持の最大理由は「新政権なら条約履行を安定させられる」と見たから
② 金融利権(政府財政への関与)
イギリスは:
外債引受
銀行制度の設計への助言
通貨制度(銀本位制)への影響
を通じて、
日本政府の財政構造に深く関与すること
を狙いました。
実際に明治初期、
横浜正金銀行(後の東京銀行)
外国為替業務
は英国型金融制度を強く踏襲しています。
③ 交通・インフラ利権
特にイギリスが重視したのが:
鉄道
港湾
灯台
電信
例:
日本初期の鉄道(新橋―横浜)
技術・設計・資材:英国
ブルントンによる灯台網整備
これらは
日本の近代化を助けると同時に、
英国製品・船舶・技術への依存を固定化
する役割を果たしました。
④ 軍事・安全保障利権
海軍:完全に英国モデル
陸軍:仏式 → 普仏戦争後に独式へ転換
イギリスは特に:
造船
艦砲
海軍戦略思想
を通じて、
日本を「極東の海上パートナー」に育てる
ことを狙っていました。
これは後の 日英同盟(1902) に直結します。
⑤ 資源・産業構造への影響
直接の植民地的搾取はできなかったものの、
石炭(高島炭鉱など)
鉱山技術
造船・重工業
において、
英国式産業モデルが標準化
されました。
⑥ 対清国・対ロシア戦略の拠点化
イギリスの最大の戦略目的は:
日本を「ロシア南下を止める防波堤」にすること
清国はすでに半植民地
ロシアは最大の脅威
薩長主導の中央集権国家は、
分裂しがちな幕府体制より
はるかに使いやすく、安定的
だったのです。
③ 明治政府成立後、イギリスが得た「実際の成果」
短期的成果
貿易量最大国(19世紀後半)
金融・保険・海運で圧倒的優位
横浜・神戸に英商社ネットワーク形成
中長期的成果
日英同盟(1902)
極東の安全保障を日本に肩代わりさせる
清国・ロシアへの直接軍事負担を軽減
④ 現在まで「形を変えて」続いているもの
ここが非常に重要です。
① 制度・思想として残るもの
議会制民主主義(英国型)
官僚制度の実務運営
海軍思想(シーレーン重視)
② 産業・金融慣行
商社モデル(総合商社)
保険・海運・銀行の基礎構造
国際金融市場との接続方法
③ 安全保障の発想
海洋国家としての戦略観
同盟国に安全保障を委ねる構造
(英 → 米へと主役交代)
⑤ フランスが敗れた理由(補足)
フランスは:
幕府に賭けすぎた
中央集権化の遅れを見誤った
普仏戦争(1870)で国力低下
結果:
日本におけるフランス型秩序の輸出は失敗
ただし、
法制度
建築
文化芸術
などには今も影響が残っています。
⑥ 総括(一言で)
幕末の英仏介入は「武器商売」ではなく、
日本の未来の支配構造をどちらが設計するかという競争だった
そして、
勝者:イギリス
日本:主権を守りつつ近代化に成功(極めて例外的)
という、世界史的にも非常に珍しい結果になりました。
あなた:
「なぜ日本は植民地化されなかったのか」は皇室の存在と関係があったのか?
「日英同盟は日本を守ったのか、縛ったのか」なぜ日英同盟が破棄されたのかについて説明願います。
ChatGPT:
非常に核心を突いたご質問です。
この二つは別々の問題ではなく、一本の線でつながったテーマですので、歴史の流れとして説明します。
① なぜ日本は植民地化されなかったのか
― 皇室の存在は決定的だったのか?
結論(要点)
はい。皇室の存在は「必要条件」でした。
ただし「十分条件」ではありません。
日本が植民地化されなかった理由は、以下の 三点が同時に成立したことにあります。
① 皇室という「超越的正統性」の存在(最大の違い)
欧米列強が植民地化できなかった最大の障壁
欧米の植民地化は原則として:
王権を否定する
王を廃する
宗主国の主権を上書きする
という形で行われました。
しかし日本には:
2600年(当時の認識)続く単一王朝
政権が変わっても「国家の正統」が変わらない
「誰が支配者か」ではなく
**「誰が天皇の下で統治するか」**という構造
がありました。
👉 これは清朝・朝鮮・インド・東南アジアには存在しなかった構造です。
皇室が果たした実務的役割
倒幕も「王朝革命」にならなかった
明治政府=新国家ではなく
**「旧国家の継承政権」**と主張できた
条約・外交の継続性を担保
欧米から見れば:
「この国を完全に壊して作り直すコストが高すぎる」
という判断になります。
② 内戦に勝った勢力が「中央集権」を即座に完成させた
多くの非西洋国家は:
王権崩壊
内戦長期化
地域分裂
という過程で、介入され植民地化されました。
しかし日本は:
戊辰戦争が短期決着
皇室を軸に全国統合
旧支配層を官僚・軍人として吸収
👉 皇室があったからこそ「勝者総取り」にならなかった
③ 列強の戦略的利害が「植民地化より協力」に傾いた
特にイギリスにとって:
日本を植民地にする
→ ロシアを刺激しすぎる
日本を同盟国にする
→ 極東の安定装置になる
という判断がありました。
皇室の存在は:
「日本を“文明国”として扱う口実」
を与えた、という点でも大きい。
まとめ(①の結論)
皇室は、日本が植民地化されなかった「絶対条件」ではないが、
他国にはない「交渉力の源泉」だった。
② 日英同盟は日本を守ったのか、縛ったのか?
結論(短く言うと)
前半は「守った」、後半は「縛った」。
そして、役割を終えたため破棄された。
① 日英同盟は日本を守った(1902–1914)
日本側の利益
ロシアを牽制できた
日露戦争での外交的孤立を防止
列強から「一等国」と認知された
特に重要なのは:
日露戦争で「英仏が参戦しなかった」こと
これは日英同盟の直接効果です。
イギリス側の利益
ロシアの南下阻止
極東防衛コストを日本に肩代わり
インド・中国の安全確保
👉 完全な利害一致が成立していた時期
② 日英同盟が日本を縛り始めた(1914–1920)
第一次世界大戦での変化
日本は英側で参戦
ドイツ権益を獲得
海軍力が急拡大
ここで問題が生じます。
イギリスの本音の変化
ロシアが崩壊(革命)
日本が想定以上に強くなった
アジアで日本が「新たな覇権国」に見え始めた
👉 「ロシア対策の駒」から「管理すべき存在」へ
③ なぜ日英同盟は破棄されたのか?
決定的要因は3つ
① アメリカの台頭と圧力
米国は日英同盟を強く警戒
「英日vs米」という構図を恐れた
ワシントン会議で同盟解消を要求
イギリスは:
「米国と日本、どちらを取るか」
という選択を迫られ、
圧倒的に米国を選択しました。
② 帝国維持コストの限界
英国は戦争で疲弊
植民地防衛を単独で担えない
米国との協調が不可欠
③ 日本の行動が「協調的でなくなった」
対中二十一カ条要求
山東問題
排日移民問題への反発
英米から見て:
日本は「制御が難しい同盟国」
になりつつありました。
④ 破棄の結果、日本はどうなったか?
短期的
国際的後ろ盾を失う
米英と距離が拡大
中長期的
包囲意識の増大
自前の勢力圏構築志向
最終的に米英と衝突
👉 日英同盟破棄は、太平洋戦争への遠因
⑤ 総合結論
皇室は日本を「壊されない国家」にし、
日英同盟は日本を「列強の一員」に押し上げた。
しかし、
同盟は永遠ではなく、
力関係と国際構造が変われば必ず終わる。
日本は同盟を失った後の「次の設計」を誤った、
というのが冷静な歴史評価です。
ChatGPT の回答は必ずしも正しいとは限りません。重要な情報は確認するようにしてください。
