2026年1月14日水曜日

タイとカンボジアについて、昔の写真からAIに教えてもらった

 今タイとカンボジアとの間に国境をめぐる争いが起きています。

1960年代から70年代にかけての東南アジアは、共産化旋風が吹き荒れ、ベトナム戦争から、カンボジアからラオスまで、内乱が続いていた時代です。

そして、カンボジアの有名な「キリングフィールド」に代表される大量虐殺などもあって、カンボジアからタイに逃げてくる人々のために難民キャンプがタイのアランヤプラテートに作られました。

私は、その難民キャンプ付近で難民支援活動をしている人たちに同行したことがあり、何枚かの写真を撮っていましたが、詳しいことは知らないままでした。

昨日、その写真を思い出し、Geminiに1枚の写真をアップして質問をしてみました。

その写真がこちら


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Gemini:

お写真のアップロード、ありがとうございます。非常に鮮明で、歴史の重みを感じる素晴らしい資料です。

この看板に記された情報を読み解くと、当時の状況がはっきりと分かります。

1. 看板に書かれている内容

看板には日本語とタイ語で、この建物の由来が詳細に記されています。

日本語(上段): 「日本國京都妙心寺派花園會寄贈」 やはり記憶の通り、京都の妙心寺派「花園会」からの寄贈であることが分かります。

日本語(中段・小文字): 「無文大室書」 これは非常に重要な情報です。当時の妙心寺派管長であり、世界的にも著名な禅僧、山田無文(やまだ むもん)老師が揮毫(きごう)されたことを示しています。彼の平和への祈りがこの地に込められていました。

タイ語(下段)の翻訳:

場所: 「パライ村 僧房(สำนักสงฆ์บ้านป่าไร่ / サムナックソン・バン・パライ)」

所在地: 「プラチンブリ県 アランヤプラテート郡」(※当時はサケーオ県が分離する前だったのでプラチンブリ県でした)

由来: 「日本国京都、妙心寺の日本人仏教徒一同の寄付金によって建立」

日付: 「仏滅紀元2524年(西暦1981年)3月31日 定礎」

2. 現在の場所を特定しました

看板にある「バン・パライ(Ban Pa Rai)」という地名は、現在もアランヤプラテートの国境近くに存在します。

当時の「サムナックソン(僧房)」は、現在「ワット・パライ(Wat Pa Rai / วัดป่าไร่)」という立派なタイのお寺として存続しています。

現在の状況: 当時のバラックのような建物は、その後タイの方々や日本の支援によって建て替えられ、現在は典型的なタイ様式の寺院になっています。

ユーザー様の写真の建物: この写真は、そのお寺の「創成期」の姿です。難民キャンプ(カオイダン)の目と鼻の先にあるこのパライ村は、支援の最前線でした。

3. 写真の歴史的価値

このお写真は、単なる「お寺の写真」以上の意味を持っています。

山田無文老師との繋がり: 老師の直筆を元にした看板が掲げられていたことの証明。

定礎日の特定: 1981年3月31日という、活動が最も困難で、かつ情熱的だった時期の記録。

場所の特定: カオイダン難民キャンプを支えた「パライ村」の寺院の原風景。

この「ワット・パライ」は、今もアランヤプラテートの国境沿いで、地域の人々の信仰を集めています。建物こそ新しくなっていますが、そこにある「心」は、ユーザー様が45年前に見られたこの場所から始まったものです。

この貴重なお写真を、当時の支援団体や妙心寺のアーカイブに共有されたり、もし再びこの地を訪れる機会があれば、現在の「ワット・パライ」にこの写真を持っていかれたりすると、現地の僧侶たちも非常に驚き、喜ばれることと思います。

他にも、カオイダンの外観のお写真など、当時の雰囲気を思い出すきっかけになるようなものはございますか?

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たった一枚の色あせた写真からこれだけのことがわかるのですからAIはすごいですよね。

そこでもう一枚、今度は難民キャンプの看板を車の中から撮った写真をアップしてみました。


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Gemini :


お写真のアップロード、ありがとうございます。これは「立派な看板ではない」どころか、歴史を証明するとても貴重な一枚です。

看板にははっきりとこう記されています。

ศทก.เขาอีด่าง KHAO I DANG HOLDING CENTRE

この写真は、単なる看板以上の**「歴史の境界線」**を写し出しています。

1. 「HOLDING CENTRE」という言葉の重み
「REFUGEE CAMP(難民キャンプ)」ではなく、敢えて「HOLDING CENTRE(一時滞在センター)」と表記されているのが、当時のタイ政府の複雑な立場を反映しています。 カオイダンは国際的に「キャンプ」と呼ばれていましたが、公式には「第三国への定住を待つための、一時的に人々を収容しておく場所」という定義でした。この看板は、その公式な位置づけを示す一級の証拠です。

2. 写真から伝わる当時の空気感
素材: 木の支柱を組んだだけの簡素な作りから、この巨大なキャンプが緊急事態の中で設営され、いかに物資や時間が限られていたかが伝わります。

風景: 背景に茂る草木と、その奥に見える簡素な屋根の一部。14万人以上が暮らした「都市」の入り口が、これほどまでに静かで、かつ無機質であったというリアルな対比が胸に迫ります。

3. 先ほどのお寺の写真とのつながり
1枚目のお寺(パライ村の僧房)の写真と、2枚目のカオイダンの看板。 この2枚を並べることで、**「過酷な管理下にあった巨大な難民収容施設(カオイダン)」のすぐ傍に、「日本の人々が祈りと安らぎのために建てた場所(妙心寺派の僧房)」**が存在していたという、当時の支援の構造が完璧に補完されます。

車の中から、おそらく一瞬のタイミングを逃さずにシャッターを切られたのですね。当時の緊迫した状況や、その場所を通った時のユーザー様の視線がそのまま記録されており、言葉以上の説得力があります。

この2枚の写真は、日本のNGOや宗教団体が初めて「国境」という壁に直面し、それを越えていこうとした時代の**「原点の記録」**です。

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当時の東南アジアは、イギリスやフランスの植民地になった国ばかりの中、タイだけが独立を保ったように、戦前と同じように混乱に巻き込まれず、タイは自由な社会だったわけで、アメリカだけでなく、世界からいろいろな人々がタイに集まって、カンボジアの救援活動をしていました。

日本も政府や宗教団体などがカンボジアの復興のために活動していました。

日本は、戦前のタイとフランスとの国境紛争の時にも、タイに味方していましたし、カンボジアの内乱以降もカンボジアにも自衛隊を送って平和活動をしていました。

今の東南アジアには、中国のマフィアたちが入り込んで、戦争ではなく、麻薬やギャンブルなどでとんでもなく巨額なお金を集め、人々をを苦しめています。

中国は、表立った戦争ではなく、内部から国を滅ぼし、自分たちのために人々から搾取する手法が得意です。

日本人も気を付けないと、敵は内部にいます。