わたしが知っているシンガポールは、1976年の暮れから1977年の暮れまでの1年間と、その後、何度か訪問したときに見たシンガポールです。
1976年のシンガポールは、まさに近代化が進み始めているときで、まだピープルズパークあたりの旧中華街なども残っていました。
飛行場は、パヤレバ国際空港で、今のチャンギと比べたら、オモチャのような空港でした。
セントウサ島へのケーブルカーはすでにありましたが、セントウサ島は、まだ開発されていなくて、南の国の島という感じでした。
中国武漢から世界に広がっている中国肺炎ですが、いろいろな国で、いろいろなドラマが起きています。
日本には、すぐに日本と外国とを比べて、日本はダメだと言いふらす輩もいますが、どこの国もこの疫病と真剣に闘っています。
とにかく、中国以外の国は、ほとんど未知のウィルスなわけで、いくら真剣に頑張っても、いい結果に結びつかないこともあるわけです。
はっきり言って、今までの所、日本は世界に誇れる疫病対策をしてきているし、いい結果も出てきていると思います。
医療従事者や研究者などの命をかけた努力の結果だと、感謝しかないわけです。
さて、一時は、世界の感染症対策モデルともいわれたシンガポールですが、4月に入ってから、驚くようなことが起きてしまって、もう少しで感染者が1万人というレベルです。
人口が550万人の国で、感染者が1万人は多いですが、実は、シンガポールという国は、シンガポール人以外の外国人がとてつもなく多く住んでいるのです。
一説には140万人くらい外国人がいるといわれています。もちろん、欧米の一流企業の人たちもいれば、日本の学者や駐在員もいますが、とにかく、数からいったら、シンガポールの建設業で働くインド人やバングラデシュ人が多いわけです。
他にも工場労働者たちや、シンガポール人や欧米人などの家庭で働くお手伝いさんやナニーたちもかなりいます。
今回の集団感染は、その中のバングラデシュ人たちの暮らす寮で起きたようです。
最初は4人だった感染者たちでしたが、あっという間に数千人規模になってしまいました。
一部屋に大勢が寝泊まりするようなスタイルらしいので、感染が広まったようです。
そんな記事を読んでいたら、寮の一部は、Punggolといわれる地域にあることがわかりました。
Punggolは、シンガポールの北北東にある地区で、対岸はマレーシアです。
私がいた頃は、まだ未開発で、どこか田舎の漁村といったイメージもまだ残っていました。
当時仲良しだった潮州系シンガポール人の女性に連れて行ってもらい、海の見える小さなレストランで、彼女のお薦めのシンガポール・チリクラブを食べました。
当時は、バンコクの有名なプーパッポンカリーも知りませんでしたが、まあ、美味しくてびっくりでした。
私がいた頃のシンガポールでは、チキンライスとかバクテーとかナシレマなどが、日常的に食べられていました。
私は、屋台で売られている真っ黒けの赤貝入りのチャークイティオが好物でした。
当時、シンガポール1~2ドルの庶民の食事が好きだった私にとっては、シンガポール・チリクラブはとんでもないご馳走で、女性とのデートだから奮発したんでしょう。
それから、シンガポールもいろいろな料理が増えてきて、料金も高くなりました。
シンガポールは、表の顔もあるし、裏の顔もあると思いますが、昔の面影のある頃のシンガポールを経験できてとても幸運だと思っています。
なんといっても、シンガポールも英国の東インド会社が作った港町ですから、密輸とかマフィアとか売春とか、まあ、裏社会もあるわけです。
シンガポールやペナンは、福建人の多い港町ですが、潮州人や広東人もけっこう多くて、潮州人は、美人で働き者でその上に安い(結納金)と中国の人たちが言っていたのを覚えています。