それまでは、マレーシアのひとつの州でした。
地理的な利点から、大航海時代から港町として開け、貿易港となって経済発展を続けてきています。
古くから海上貿易はアラブ人やインド人が得意とするところでしたが、その後、ヨーロッパ人や中国人も海上貿易に参加してきて、シンガポールに集まってきたわけです。
イギリス人は、どこの植民地でも、港の近くに市庁舎を作り、少し小高い丘に病院や学校や教会を作り、もっと上の方には自分達の住む高級住宅街を作るようです。
この病院や教会や学校というのが、なかなか優れたシステムで、病人や怪我人を治し、学校では簿記などを教え、宣教師や牧師などが、医師だったり看護師だったり教員だったりも兼ねます。
市民に愛されないと植民地経営は出来ないってことなんでしょうね。
シンガポールは多国籍の人たちが仲良く暮らしているイメージですが、でも、やっぱり中国系やマレー系やインド系などの間には、トラブルがないわけではないようです。
そして、明るい北朝鮮と揶揄されるような独裁国家ですが、経済が好調だし、ある程度の自由もあるわけで、多くの国民は満足しているようですし、満足できない人たちは、とっととオーストラリアとかニュージーランドとかカナダなどに移住しているようです。
今回の新型コロナでも、表に出てきましたが、シンガポールは外国人労働者たちを大量に受け入れていますが、厳しく区別していて、外国人労働者問題を大きくしないような法律の整備をしてきています。
日本は、そのへんウヤムヤにしているから差別とか批判されますが、最初から区別して法律を作らないのが間違いだと思います。
シンガポールやマレーシアやイスラム教の国には、鞭打ち刑があります。
シンガポールの法律は、なかなか厳しくて、有名なチューイングガムやゴミのポイ捨てとか、蚊の発生とか、ビシビシ罰せられます。
私は、1976年の暮れから、1年ほどシンガポールに滞在していましたし、その後も、10回以上訪れていると思いますが、この20年くらいは、ご無沙汰です。
私が暮らしていた頃のシンガポールは、今まさに大経済発展を遂げるといった時代の変わり目で、古いシンガポールも、まだ少しは残っていました。
オーチャード通りには、オーチャードカーパークの屋台もまだあったし、Keong Saik Roadやピープルズ パークで有名な中華街も、まだ、昔ながらの古びた建物が多い一帯でした。
港町ですから、世界各国からの船乗りや港湾労働者たちが多く、彼らのための赤線地帯とか、安宿とか、安い飲食店などもあったわけです。
私が住んでいた頃のシンガポールでは、朝食を屋台の福建焼きそばとかチャークイティオ をバナナの葉っぱで包んだモノをオフィスに持ってきて食べるとか、通勤の途中で、ニュートンサーカスの大きな屋台村にある醸豆腐 Yong Tau Fooとか、今はなきオベロイ・インペリアルホテル近くのRiver Valley Rdにあったバクテー(排骨茶)専門店でアッツアツのバクテーと白飯を食べるわけです。
バクテーにも色々とあるようですし、マレーシアのも有名ですが、私の原点はシンガポールのバクテーです。タイで言うところのパートンコーと一緒に食べるのも美味しいです。
海南鶏飯なんかも有名ですが、基本鶏肉は食べない私です。
魚の頭のカレーとかも有名でしたが、朝食ではないです。
赤線地帯は、朱い提灯が目印だそうで、恭锡路やゲイランが有名でした。
今から思えば、写真を撮ったり、いろいろと調べておけばよかったと大反省です。シンガポールの写真がほとんどないです。
一度現地の友人と一緒に、アヤシイ現地のバーに入ってビールを注文すると、女性が隣に座って下半身に手を伸ばしてくるという話が本当かどうかを探検に行ったことがありました。
本当でしたが、あまりに京劇の登場人物の女性のような厚化粧の高齢女性だったので、恐怖におののき逃げ出しました。
オカマさんたちが夜な夜な出没するというブギス・ストリートBugis Streetにも探検に出かけたことがありました。
こんな映像を見つけました。古いKeong Saik Roadの街並みや、赤線時代の話などがありますが、中国語がわからないから非常に残念です。
中国人の目線ですから、日本が昭南島を占領していた時代のことなどは、かなり、反日的なことを言っているようなことを感じました。
シンガポールは、もう完全に裏の顔を消し去っているようですが、港町と言えば、売春や麻薬や密輸や暴力団の存在が世界中、標準なわけです。
タイもドンドン、清潔な街に変わっているわけですが、私は、裏町とか路地裏とか、中華街の写真を撮るのが好きです。
タイでも、もっと写真を撮っておけばよかったと思うところがいっぱいですが、冒険をするには歳をとりすぎました。