アジアでは、インドやマレー半島、そしてミャンマーがイギリスの植民地で、ラオス・カンボジア・ベトナムがフランスの植民地、インドネシアがオランダの植民地で、フィリピンがアメリカの植民地だった時代がありました。
一般的に元イギリスの植民地やイギリスの影響を強く受けていた国は、日本を含めて車は左側通行で、右ハンドルです。
インドもシンガポールも香港もタイも左側通行なんですが、ミャンマーだけは、戦後、右側通行に変わっています。
戦前の日本は、本音と建て前の部分はあったかもしれませんが、アジアからイギリスやフランスなどを追い払い、アジアの独立を夢見ていたわけです。
植民地政策によってアジアは欧米に搾取されていましたら、植民地各国からも日本への賛同者は出ました。
ミャンマーの独立の父といわれているアウンサン将軍もそんな一人でした。
そして、ビルマをイギリスから独立させ、ビルマから雲南を通って中国の国民軍へ物資を運ぶ援蒋ルートを遮断しようと日本が考えたそうです。
そのために南機関と言われる秘密機関が発足し、その機関長が鈴木敬司大佐だったわけです。
鈴木敬司機関長は、最終的には少将の階級だったそうですが、一般的には鈴木大佐といわれていて、出身は、静岡県浜松市で、現在の南区恩地町だそうです。
鈴木大佐の墓は、恩地町にあるそうです。
スーチー女史が、京都大学に留学中に1986年には、父親の伝記を書くために鈴木大佐のお墓にお参りをしたそうです。
浜松一中(静岡県立浜松北高等学校)から陸軍士官学校を卒業しているそうです。
そして南機関を作り、そこでビルマ独立のために戦う30人の志士たちを集め、日本や海南島で猛訓練をしたそうです。
その最初の二人として、アウンサンとラミャインを選んで日本に連れて行ったそうで、その時に、鈴木大佐の奥さんの実家や浜名湖近くの旅館にかくまっていたそうです。
結局、日本はイギリスをビルマやマレー半島から追い払ったわけですが、その後のインパール作戦などでの劣勢から、敗戦の可能性が高まり、アウンサンは、日本を裏切ってイギリス側に寝返ったそうです。
日本の敗戦後、アウンサン将軍は、独立の日を見ることなく暗殺されています。
戦争ですから、いろいろな見方があって、鈴木大佐にもアウンサン将軍にも毀誉褒貶はあるわけで、どんな歴史上の人物でも、評価は、難しいですね。
日本の敗戦後鈴木大佐はビルマに送られて裁判にかけられたそうですが、アウンサン将軍が、イギリスに掛け合って、釈放してもらうことに成功したそうですし、ビルマ独立に尽力したことが認められ、その後、ビルマ政府から勲章を贈られたそうです。
日本も理想だけではなく、日本の国益もあったでしょうし、士官たちのエゴとかもあったでしょうし、敵の銃弾で亡くなられた兵隊さんたちよりも、空腹や風土病で亡くなられた人たちのことを思うと胸が痛みます。
いつの世の中にも部下を裏切る上官もいるし、上官に背く部下もいるわけです。
とにかく、みんな理想と現実の狭間で、時には裏切ったりもするわけです。
アウンサンスーチー女史に関しても、いろいろな意見があります。
こちらの人の評価は興味深いですね。
イギリスは、今でもビルマと呼び続けているそうです。
とにかく、戦争でも革命でも右でも左でも、暴力や流血の暴動はやめて欲しいです。