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2026年3月2日月曜日

Grokと振り返る1980年代のビルマ旅行記

1980年代のビルマ旅行記

私: StrandホテルはシンガポールのRafflesホテルと同じようにイギリスの植民地時代を想像させてくれる素敵なホテルでした。鉄格子のようなエレベーターは確か手動でドアを開け閉めするタイプで、部屋にあった足がついた湯舟とまるでバケツの底のようなシャワーが思い出です。InyaLakeはロシアの資本でできたそうで、味気ないホテルと記憶します。


Grok:

そうですね、Strand Hotel(ストランドホテル)は本当に**Raffles Hotel(シンガポール)**と同じSarkies兄弟が手がけた「グランド・オールド・レディ」の系譜で、英国植民地時代の優雅さと少しの退廃的な魅力が混ざった、まさにタイムスリップしたような場所でしたよね。

1980年頃のStrandはまだ大改装前(1990年代に本格リノベーション)だったので、手動の鉄格子(cage)エレベーターがぴったり合います。あの時代のアジアの老舗コロニアルホテルではよく見られたタイプで、オペレーターが鉄の格子ドアを手で開け閉めして、ガタガタ揺れながら上がっていく感覚が懐かしいというか、ちょっとスリリングでした。

そしてお風呂! **足つきのクラシックなclawfoot tub(爪足浴槽)**と、バケツの底みたいな簡素なシャワーヘッド(水圧弱めで雨みたいに降ってくるやつ)は、当時のStrandの部屋の典型的な設備です。贅沢だけどどこか素朴で、植民地時代の「英国紳士のバスタイム」を想像させてくれますよね。Rafflesも似たようなクラシックバスルームが残っていますが、Strandの方が当時はもっと「生のまま」の味わいがあった気がします。一方、**Inya Lake Hotel(インヤレイクホテル)**はまさにご記憶の通り、ソ連(USSR)からの贈り物として建てられたホテルです。

1958年にフルシチョフ書記長の訪緬(ビルマ訪問)時に「友情の証」として3つの贈り物の一つ(他に病院や技術援助)で、ソ連の建築家ヴィクトル・アンドレエフとカレリア・キスロヴァが設計。1958年から建設が始まり、1962年にオープンしました。

典型的なソ連時代の「サナトリウム(療養所)スタイル」のモダニズム建築で、船のような形の建物や広大な庭園、自由曲線のプール(フルシチョフ本人がデザインに関わったという逸話も)があり、当時は東南アジアで最もモダンなホテルと国際的に評価されたそうです。

でも1980年頃になると、味気ないコンクリートブロックのような印象が強くなり、設備の古さやメンテナンスの甘さで「ソ連風の無機質さ」が際立っていたのかもしれませんね。Strandの温かみのあるコロニアル調と対照的で、冷戦時代の「もう一つの顔」を感じさせるホテルでした。2つのホテルを同時に体験できたなんて、1980年頃のビルマ旅行の醍醐味そのものですね。

Strandで英国植民地ロマンを味わい、Inya Lakeでソ連のモダニズムを感じる——まさに歴史の交差点に立っていたような気分だったのではないでしょうか。


私: 当時のラングーンは、18:00頃になると真っ暗になり、ホテルから出るのが少し怖かったですが、街を散歩すると、電線からぶら下がった白熱電球が所々にあって、映画館の前だけには人だかりがありました。タバコのばら売りをしている人がいた記憶があります。

街をぶらついていて、少し人通りのないところに入ってしまったら、突然兵士のようなビルマ人から銃剣のついた鳥獣のようなものを胸元に突き付けられて凍り付きましたが、胃にを追い払うようにして追い払われただけでした。その時は、何も観になかったけど、ホテルに戻ってから体が震えたのが思い出です。


Grok:

そうですね…あなたの体験談を読んでいて、当時のラングーン(今のヤンゴン)の夜の空気感がすごくリアルに伝わってきました。

1980年頃のビルマは、まだ軍事政権下で外国人観光客も限定的で、街全体がどこか緊張感と静けさをまとった時代だったと思います。夕方18時頃になると本当に真っ暗になる、というのは当時の電力事情がまさにそれを物語っています。

夕暮れ後の暗さと街の雰囲気当時のラングーンでは、慢性的な電力不足が日常で、特に夕方以降は頻繁に停電(blackout)や計画停電が発生していました。街灯がまばらで、電線からぶら下がった白熱電球(裸電球)がポツポツと灯るだけ、という光景は多くの旅行記や当時の写真でもよく語られています。

映画館の前だけ人だかりができる、というのもぴったり合います。

1980年代のラングーンには、映画館が150軒以上あり、特にダウンタウンのAung San Road(現在のAung San Stadium近く)やSule Pagoda Road周辺の「シネマ・ロウ(Cinema Row)」が賑わっていました。

外国映画の上映がある日は特に長蛇の列ができ、娯楽が少ない時代に映画館は貴重な「夜の社交場」だったんです。

政府運営の劇場が多く、たまにインド映画や古いハリウッド映画が上映されると、観客が押し寄せて明るいネオンや電球の光が周囲を照らし、人だかりができていたそうです。

あなたが見た「映画館の前だけの人だかり」は、まさにその象徴的な光景ですね。タバコのばら売り街角でタバコのばら売り(loose cigarettes)をしている人々も、当時の典型的な光景です。

ビルマでは、555やJohnnie Walkerなどの輸入品が闇市で人気でしたが、一般庶民は1本単位で売る露天商が多かったです。

外国人観光客が歩くと声をかけられたり、物々交換を提案されたりした記憶がある人も多いです。

暗い路地でそんな小さな商いがポツポツと灯る中を歩くのは、なんだか不思議な魅力と同時に緊張感がありましたよね。兵士のような人物との遭遇そして、あの**銃剣付きの銃(おそらくライフルにbayonet装着)**を胸元に突き付けられた瞬間…本当に凍りついた気持ち、よくわかります。

当時のビルマ軍(Tatmadaw)は街中を巡回しており、特に夜間や人通りの少ない場所ではチェックポイントや警戒が厳しかったんです。

外国人観光客が「少し人通りのないところに入ってしまった」だけで、突然止められたり、威嚇されたりするケースは珍しくなかったようです。

銃剣を突きつけられたのは、不審者扱いや単なる威嚇(intimidation)だった可能性が高く、「胃を追い払うようにして追い払われた」という表現がまさに当時の軍人の態度を表していますね。

幸い大事には至らなかったけど、ホテルに戻ってから体が震えた…という後遺症のような感覚は、本当に怖かった証拠です。

1980年代のビルマ旅行では、こうした「一瞬の緊張」が旅のスパイスでありつつ、トラウマにもなり得る部分でした。あの時代のラングーンは、明るいShwedagon Pagodaの昼と、真っ暗で静かな夜のコントラストが強烈で、植民地時代の残り香と軍事政権の影が混在した独特の街でした。

Strand HotelやInya Lakeから少し出て散策するだけで、そんな生の空気を味わえたのは、今となっては貴重な体験ですね。

体が震えた夜の記憶も含めて、すべてが「1980年のビルマ」の一部です。


私: 街の中華レストランで焼きそばを食べた記憶があります。ラングーンもシンガポールと同じように福建人が多く、料理も福建料理だったと思います。お箸を紙で拭くと真っ黒でした。市内の市場にも言った記憶があって、ドルの闇両替を持ちかけられたりしました。あの時、宝石でも買っておけばよかったのにとか後で思いましたが、何も買いませんでした。


Grok:

そうですね…街の中華レストランで食べた焼きそばの記憶、すごく懐かしいエピソードです。あの頃のラングーン(ヤンゴン)の中国料理は、まさに福建(Hokkien)系の影響が強くて、シンガポールやマレーシアの福建料理に近い味わいだったと思います。福建(Hokkien)系の中国料理とラングーンの特徴1980年代のヤンゴンには、**福建人(Hokkien)のコミュニティがかなり大きく、特にダウンタウンのチャイナタウン(Latha Township周辺、Maha Bandula RoadやAnawrahta Roadあたり)**が中心でした。

福建人は19世紀からビルマ(ミャンマー)に移民が多く、貿易や銀行業で成功した人々が多かったので、**Hokkien Chinese temple(例: Kheng Hock Keong TempleやLong Shan Tang Temple)**が今も残っています。

彼らの影響で、Burmese Chinese cuisineは福建・広東ベースが多く、**焼きそば(Hokkien fried noodles / Hokkien mee)**みたいな麺料理が定番でした。

シンガポールのHokkien mee(黒い醤油ベースの炒め麺)と似ていて、豚肉やエビ、野菜を炒めて、ちょっと甘辛いソースで仕上げるやつですね。

レストランはチャイナタウンの路地裏や市場近くに多く、観光客より地元の中華系住民が通うような、素朴で本格的な店が多かったはずです。そして、お箸を紙で拭くと真っ黒になる…というのも、当時の典型的な光景です。

1980年代のビルマは衛生環境が厳しく、埃っぽい街中や古い建物が多く、箸や皿がすぐに煤けたり汚れたりしていました。

特に中華レストランは油煙が多く、換気が悪かったので、紙ナプキンで拭くと本当に黒くなるんですよね。

それが逆に「本場の味」の証拠みたいに感じて、旅の思い出になる部分です(笑)。市内の市場と闇両替市内の市場といえば、Bogyoke Aung San Market(旧Scott Market)が一番有名で、1980年代も今と同じく宝石・翡翠(jade)・ルビーの聖地でした。

ミャンマーは世界有数の宝石産地(特に翡翠は上質)で、市場の中央部に宝石商がずらっと並んでいて、外国人観光客が覗くと必ず声をかけられます。

あなたが後悔した「宝石を買っておけば…」という気持ち、すごくわかります!

当時は公式為替レートが極端に悪く(1ドル=約6-7チャット)、**黒市場(black market)**では40-100倍くらいのレートでドルを両替できたので、観光客はみんな闇両替をしていました。

市場の隅や路地で「Change money? Good rate!」とささやかれるのは日常茶飯事で、ドル札を隠して小声で交渉するスリルがありました。

Bogyoke Market自体が闇両替のホットスポットでもありましたね。

宝石も闇ルートで安く手に入るチャンスがあったのに、何も買わなかった…というのも、当時の外国人観光客の慎重さが表れています(軍事政権下でトラブルを避けたかったり、偽物が多いのも有名でしたから)。あの時代のヤンゴンは、福建系の活気あるチャイナタウン、宝石の誘惑、闇両替の緊張感、そして埃っぽいけど温かみのある街並みが混ざった、独特の魅力がありました。

焼きそばを食べながらお箸の黒さに苦笑いし、市場で「買う?買わない?」と迷う…そんな日常の小さな冒険が、今となっては最高の思い出ですね。


私: 当時は、外貨の持ち込みや両替が制限されていて、入国時と出国時に手持ちの金額をチェックされ、不振があれば拘置所に連れていかれるといわれていました。買い物は市内のドルショップでという建前でした。ホテル前のタクシー?の運転手からドルショップで外国たばこを買ってくれたら高く買い取るといわれました。実際にそうしたかどうかは秘密ですが。


Grok:

そうですね…あなたの記憶は、1980年代のビルマ(ミャンマー)旅行の「経済的・政治的現実」をまさに象徴するエピソードです。当時の厳格な外貨規制と、それが生んだ**黒市場(black market)**の日常が、観光客にとって最大の「ルール違反の誘惑」だったんですよね。以下に、当時の状況を整理しながら、あなたの体験を振り返ってみます。

外貨持ち込み・両替の厳しい制限と入出国時のチェック1980年代のビルマでは、Ne Win政権の下で社会主義経済が徹底され、外貨(特に米ドル)の管理が極めて厳しかったんです。  入国時:空港や国境で外貨申告書(currency declaration form)を提出させられ、手持ちの米ドル(現金)をすべて記入。最低額(当時200ドル程度)の外貨を強制的にForeign Exchange Certificates (FEC) に交換させられるルールがありました(FECはドル相当のクーポンで、公式レートでチャットに両替可能)。

出国時:再びチェックされ、入国時申告額と一致しないと「不審」扱い。余分なドルが出てきたり、足りなかったりすると、没収や尋問、最悪の場合**拘置所(detention)**行きという脅しが本当によくありました。

目的は黒市場への流出防止。公式レートが1ドル=約6-7チャットだったのに対し、黒市場では40-100倍(時にはもっと)だったため、観光客がドルを闇両替すると政府が大損する仕組みでした。

この申告・チェックの恐怖は、多くの旅行記で「ビルマ旅行の最大のストレス」として語られています。あなたが「不審があれば拘置所に連れていかれるといわれていた」と記憶しているのは、まさにその通りです。ドルショップ(Foreign Exchange Shops / Dollar Shops)の建前公式には、外国人観光客はドルショップ(政府運営の免税店やホテル内のショップ) でしか買い物をしてはいけない、という建前がありました。  ここで米ドルやFECを使って外国製品(タバコ、酒、化粧品、チョコレートなど)を買うのが「正しい」方法。

実際には、Marlboroや555などの外国タバコはドルショップでしか手に入らず、地元民は高値で欲しがっていました。

だからこそ、ホテル前のタクシー運転手(またはトライショー運転手、ガイドなど)が「ドルショップで外国タバコを買ってくれたら、高く買い取るよ」と持ちかけてくるんです。

これが典型的な黒市場取引の入り口で、タバコ1カートン(200本)を公式価格で買って闇で売れば、かなりの差益が出ました。

あなたが「実際にそうしたかどうかは秘密ですが」とおっしゃるのも、よくわかります(笑)。当時は違法だけど、みんなやってたというのが実情で、観光客の小さな「抜け道」として定番でした。

全体の雰囲気と「後知恵」の後悔あの時代、ビルマは孤立主義が極端で、観光客は「監視されている」感覚が常にありました。  ドルショップでタバコを買う → 運転手に売る → チャットで高く換金 → 黒市場レートで得をする…というルートは、政府の目を盗んだ小さな抵抗みたいなものでした。

宝石(翡翠やルビー)も同じく、市場で闇両替したチャットで安く買えるチャンスがありましたが、リスクが高すぎて手を出さなかった人がほとんどです。あなたが「宝石でも買っておけば…」と思った気持ち、すごく共感します。今のミャンマー宝石市場を見ると、当時の価格は夢のようだったはずですからね。

1980年代のビルマ旅行は、美しい寺院や穏やかな人々の一方で、通貨の恐怖・黒市場のスリル・常に監視されている緊張感がセットでした。

あなたのエピソード(タバコの取引の誘い、申告のプレッシャー)は、まさにその時代の「観光客のリアル」を教えてくれます。


私: ビルマといえば仏教寺院の観光で、素敵な歴史的寺院がたくさんありました。郊外に行くと、ローカルな寺院があって、当時のタイにはなかった、電飾の仏像に驚きました。寺院に入るには靴を脱いで裸足になる必要があり、境内には、ライ病患者の物乞いがいて、水虫持ちだった私としては、それなりにスリリングでした。


Grok:

そうですね…ビルマ(ミャンマー)の旅といえば、やはり仏教寺院(pagoda / paya)が最大のハイライトですよね。

1980年頃のミャンマーは、Shwedagon Pagodaのような有名どころから、郊外の小さなローカル寺院まで、本当に多様な寺院が点在していて、どれも信仰の深さが伝わってきました。

あなたの記憶にある「電飾の仏像」に驚いた、というのはすごく興味深いポイントです。あの時代、タイの寺院はまだ比較的伝統的でシンプルな照明(ろうそくやランプ)が主流だったのに対し、ビルマのローカル寺院ではネオンや電球で飾られたハロー(光背)や点滅するLED風のライトが仏像の周りに付けられているのが珍しくなかったんです。電飾の仏像の背景当時のミャンマーでは、仏像の周りに**電飾(electric lights / neon halos)**を施す習慣が根強く、特に郊外や地方の寺院でよく見られました。  これは仏陀の悟りの瞬間に放たれた光(rays of light)を象徴するもので、Shwedagon Pagodaのような大寺院でもフラッシュするLEDハロー(今でいうネオンライト)が1980年代からすでにありました。  

ローカルな寺院では、さらに派手で、電球がチカチカ光るものやカラフルなネオンが仏像の頭上や背後に付けられていて、夜になると幻想的(というか、ちょっとキッチュ)な雰囲気になりました。  

タイの寺院が比較的「静かな荘厳さ」を重視していたのに対し、ビルマの信仰は民衆的で華やかな表現が多く、電飾はその一例です。

当時の旅行者からも「ネオンライトの仏像が意外とポップで驚いた」という声がよくありました。あなたが郊外のローカル寺院でそれを見て「タイにはなかった」と感じたのは、まさにその違いを体感した瞬間ですね。

寺院のルールとスリリングな境内そして、靴を脱いで裸足になるのは、ミャンマー寺院の鉄則です(今も変わらず)。

境内は石畳やタイルが熱かったり冷たかったり、砂利っぽいところもあって、裸足で歩くのはそれだけでちょっとした試練でしたよね。

さらに、ライ病患者(lepers)の物乞いが境内や入り口にいる、という記憶も当時のリアルな光景です。  1980年代のミャンマーでは、医療・福祉が十分でなく、**ハンセン病(らい病)**患者が社会的に孤立しやすく、寺院周辺で物乞いをする人が多かったです。  

Mount PopaやBagan周辺の寺院でも、階段や入り口に並ぶ乞食の中に手足の変形した人がいて、観光客に施しを求める光景が一般的でした。  

水虫持ちだったあなたにとって、裸足で歩きながら彼らに近づかれるのは本当にスリリングで、少し怖かったり複雑な気持ちになったりしたと思います。

でも、それが当時のミャンマーの「生の信仰現場」——寺院は観光地ではなく、地元の人々の生活と密接に結びついた場所だった証拠です。

全体の思い出として1980年頃のビルマ旅行は、Shwedagonの黄金の輝き、Baganの無数の寺院群、そして郊外のローカルpagodaでの電飾の意外性や人間くさい境内が混ざって、忘れられないコントラストを生んでいました。

タイの寺院が「洗練された美しさ」なら、ビルマのそれは「土着の熱気と華やかさ」が強く、だからこそ衝撃的だったんでしょうね。

水虫の心配をしつつ裸足で歩き、ネオンライトの仏像に目を奪われ、物乞いの視線を感じる…そんな一連の体験が、今となっては貴重な「1980年代のミャンマー」の一部です。


私: パガンとマンダレーにも行きました。パガンの朽ちたパゴダ群は壮観でした。当時は乾季で、砂埃が印象的でした。川沿いのロッジ風のホテルに泊まった記憶があります。民芸品を作っている小屋があって、その近くでヤシから作ったお酒をご馳走になりました。かなり強かった。マンダレーは旧王宮前のホテルに泊まった。長い階段を上ってマンダレーヒルの上の寺院にもお参りをしました。


Grok:

パガンとマンダレーへの旅も、本当に素晴らしい思い出ですね!

1980年頃のミャンマー旅行では、この2箇所が「仏教遺跡の極み」と「王都の風情」を味わえる定番コースでした。あなたのエピソードを振り返りながら、当時の雰囲気を一緒に思い浮かべてみましょう。パガン(Bagan)の朽ちたパゴダ群と砂埃の乾季パガンの数千ものレンガ造りのパゴダと寺院が広がる平原は、当時も今も世界で最も壮観な遺跡群の一つです。

1980年代はまだ観光客が少なく、**乾季(11月〜4月頃)**のピークに訪れると、**砂埃(dust storms)**が本当に印象的でしたよね。

風が吹くと赤茶色の砂が舞い上がり、パゴダのシルエットがぼんやり霞む中を歩くのは、まるで古代のタイムスリップ感がありました。

当時は道路が未舗装の部分が多く、馬車(horse cart)や自転車で遺跡を回るのが主流で、砂埃まみれになりながらAnanda TempleやShwesandaw Pagodaに登って夕陽を見る…というのが定番でした。

朽ちたままの遺跡がそのまま残っていた時代で、修復が進んでいない分、原始的で圧倒的なスケールを感じられたと思います。川沿いのロッジ風ホテルAyeyarwady River(イラワジ川)沿いのロッジ風ホテル、おそらくThiripyitsaya Sanctuary Resort(旧政府系ホテル)やBagan Thande Hotel、Aye Yar River View Resort(元Burma Airwaysのゲストハウス)あたりではないでしょうか。

これらは1980年代に外国人観光客向けに整備されたリバーサイドの宿で、木造バンガロー調やロッジスタイルの建物が多く、川の眺めが良くて涼しげでした。

当時はエアコンが効かない部屋も多かったですが、川風が入る開放感と、夜の静かな川の音が心地よかった記憶があります。

料金表(前の写真でThiripyitsayaがUS$16-21くらい)を見ても、パガンエリアの代表的な中級ホテル群ですね。民芸品小屋とヤシ酒(Toddy / Palm Wine)パガン周辺の村(特にMyinkaba村やNyaung-U近くのローカルエリア)には、民芸品(lacquerware / 漆器)を作っている小屋が点在していて、観光客が訪れると歓迎されました。

漆器職人がヤシの葉や竹で編んだthatch hut(ヤシ葺き屋根の小屋)で作業している光景は、当時の典型です。

そしてヤシから作ったお酒——これが**toddy(htan yay / palm wine)**ですね!

Toddy palm(ヤシの木)の花序を切って樹液を採取し、自然発酵させたもので、**甘くて微アルコール(4-8%程度)**のワイン状ですが、新鮮なものはかなり強い(アルコール度が上がる)ことがあります。

地元の人々が「白い酒(white liquor)」と呼んで蒸留した強いバージョンもあって、ご馳走になったのはおそらくそのフレッシュなtoddyでしょう。

パガン地域はtoddy palmの産地で、村の男性が木に登って採取する姿をよく見かけました。

一口飲んで「かなり強かった」という感覚、すごくわかります(笑)。甘酸っぱいけど、後からジワジワ来るんですよね。マンダレー:旧王宮前のホテルとマンダレーヒルマンダレーの旧王宮(Mandalay Palace)前は、当時も軍事政権下で一部が立ち入り制限されていましたが、周囲にホテルがいくつかありました。

Mandalay HotelやMya Mandalar Hotel(料金表にあったもの)、もしくはMay Myo Innのような旧市街寄りの宿が、王宮の堀や壁の近くに位置していて、便利だったと思います。

王宮自体は第二次大戦で焼失し、1980年代は再建前で荒廃したまま(1990年代にレプリカ再建)だったので、周囲の景色は今より寂しげでしたが、それがまた歴史を感じさせました。そしてマンダレーヒル(Mandalay Hill)の長い階段——これが有名なSutaungpyei Pagodaへの参道で、約1729〜1792段(資料によって微妙に違う)ありますよね!

1980年代はエレベーターなんてなく、裸足で登るのが普通で、途中の休憩所で地元の人や僧侶と出会ったり、途中で売られる水やお菓子を食べたりしながら登るのが楽しかったです。

頂上からのマンダレー平野の眺めは圧巻で、特に夕暮れや夜景(街の灯りが少ない時代なので星空がきれい)が印象的でした。

登りきった後の達成感と、寺院でお参りする静けさ…本当に心が洗われる時間でしたね。パガンの砂埃とtoddyの強さ、マンダレーの長い階段——これらすべてが1980年代ミャンマーの「生の旅」の象徴です。

乾季の埃っぽさや、toddyのアルコールのキックが体に染みついている感じが、今でも鮮やかでしょうね。

砂埃舞うパガンの遺跡群、強烈なtoddyの味、マンダレーヒルの長い階段、電飾の仏像に裸足の境内…どれも当時の空気感がすごく鮮やかで、話を聞いているだけで自分も一緒に旅をしているような気分になりました。忘れていたことや歴史の背景を少しずつ思い出せたのも、あなたの記憶がきっかけですし、こうして振り返ることでまた新しい発見があったりしますよね。

あの時代のミャンマーは、今とはまた違う独特の魅力と緊張感があって、だからこそ今でも心に残る旅なんだと思います。




2021年2月4日木曜日

大使館からのメール

 ・本日2月4日(木)20時頃から、首都バンコクのBTSスラサック駅近くのミャンマー大使館前において、タマサート大学学生グループによる政治集会が実施される予定です。

・集会場所及びその周辺では、治安機関と集会参加者等による衝突に発展するおそれもあります。

・今後不測の事態に備え、政治集会が行われている現場周辺への不要不急や興味本位での立ち寄りを控え、ご自身の身の安全を確保してください。なお、万一邦人の被害情報等に接した際は当館に御一報ください。


インターネット上の情報によれば、ミャンマーでのスー・チー氏拘束等一連の動きを受けて、以下の日時・場所において、タマサート大学学生グループが集会を呼びかけています。

                          

日時:2月4日(木)20時頃から

場所:バンコクのサトーン通りBTSスラサック(Surasak)駅近くのミャンマー大使館前

 

つきましては、在留邦人及び滞在者の皆様におかれましては、不測の事態に巻き込まれることのないよう、最新の関連情報の入手に努めるとともに、現場周辺には近づかず、安全確保には十分注意を払って下さい。

 

(問い合わせ先)

○在タイ日本国大使館領事部

電話:(66-2)207-8500、696-3000

FAX:(66-2)207-8511

所在地: 177 Witthayu Road, Lumphini, Pathum Wan, Bangkok 10330

(ウィタユ通り、ルンピニー警察署とMRTルンピニー駅のほぼ中間)


2021年2月3日水曜日

浜松とミャンマー

ミャンマーで2月1日に起きた軍事クーデターで、ミャンマーについて興味を持った人もいることでしょう。

アジアでは、インドやマレー半島、そしてミャンマーがイギリスの植民地で、ラオス・カンボジア・ベトナムがフランスの植民地、インドネシアがオランダの植民地で、フィリピンがアメリカの植民地だった時代がありました。

一般的に元イギリスの植民地やイギリスの影響を強く受けていた国は、日本を含めて車は左側通行で、右ハンドルです。

インドもシンガポールも香港もタイも左側通行なんですが、ミャンマーだけは、戦後、右側通行に変わっています。

戦前の日本は、本音と建て前の部分はあったかもしれませんが、アジアからイギリスやフランスなどを追い払い、アジアの独立を夢見ていたわけです。

植民地政策によってアジアは欧米に搾取されていましたら、植民地各国からも日本への賛同者は出ました。

ミャンマーの独立の父といわれているアウンサン将軍もそんな一人でした。

そして、ビルマをイギリスから独立させ、ビルマから雲南を通って中国の国民軍へ物資を運ぶ援蒋ルートを遮断しようと日本が考えたそうです。

そのために南機関と言われる秘密機関が発足し、その機関長が鈴木敬司大佐だったわけです。

鈴木敬司機関長は、最終的には少将の階級だったそうですが、一般的には鈴木大佐といわれていて、出身は、静岡県浜松市で、現在の南区恩地町だそうです。


スーチー女史が、京都大学に留学中に1986年には、父親の伝記を書くために鈴木大佐のお墓にお参りをしたそうです。

浜松一中(静岡県立浜松北高等学校)から陸軍士官学校を卒業しているそうです。

そして南機関を作り、そこでビルマ独立のために戦う30人の志士たちを集め、日本や海南島で猛訓練をしたそうです。

その最初の二人として、アウンサンとラミャインを選んで日本に連れて行ったそうで、その時に、鈴木大佐の奥さんの実家や浜名湖近くの旅館にかくまっていたそうです。

結局、日本はイギリスをビルマやマレー半島から追い払ったわけですが、その後のインパール作戦などでの劣勢から、敗戦の可能性が高まり、アウンサンは、日本を裏切ってイギリス側に寝返ったそうです。

日本の敗戦後、アウンサン将軍は、独立の日を見ることなく暗殺されています。

戦争ですから、いろいろな見方があって、鈴木大佐にもアウンサン将軍にも毀誉褒貶はあるわけで、どんな歴史上の人物でも、評価は、難しいですね。

日本の敗戦後鈴木大佐はビルマに送られて裁判にかけられたそうですが、アウンサン将軍が、イギリスに掛け合って、釈放してもらうことに成功したそうですし、ビルマ独立に尽力したことが認められ、その後、ビルマ政府から勲章を贈られたそうです。

日本も理想だけではなく、日本の国益もあったでしょうし、士官たちのエゴとかもあったでしょうし、敵の銃弾で亡くなられた兵隊さんたちよりも、空腹や風土病で亡くなられた人たちのことを思うと胸が痛みます。

いつの世の中にも部下を裏切る上官もいるし、上官に背く部下もいるわけです。

とにかく、みんな理想と現実の狭間で、時には裏切ったりもするわけです。

アウンサンスーチー女史に関しても、いろいろな意見があります。


イギリスは、今でもビルマと呼び続けているそうです。

とにかく、戦争でも革命でも右でも左でも、暴力や流血の暴動はやめて欲しいです。



2021年2月1日月曜日

これを読めばかなり詳しくなるミャンマーの話

今日2021年2月1日の大きなニュースとして、ミャンマーで軍事クーデターが起き、ミャンマー国軍が全権を掌握し、アウンサンスーチー女史やWin Myint大統領などの身柄を拘束したとのことです。

ビルマと呼ばれていた時期もあって、ミャンマーと国名が変わったときにはなにかしっくりしませんでしたが、最近は、ミャンマーになれていました。

私は、1974年から1988年までのビルマ連邦社会主義共和国と呼ばれていた時代に2回行ったことがありました。

当時は
ヤンゴンではなくRangoon ラングーン
バガンではなくPagan パガン
ラカイン州ではなく アラカン
ピンウールィンではなく メイミョー
モーラミャインではなく モールメイン
バゴーではなく ペグー
エーヤワディー川ではなく Irrawaddy River イラワジ川
タンルウィン川ではなく Salween River サルウィン川


当時のビルマは社会主義ですし当時のソ連との関係もあったようで、ものすごく田舎でしたし、何か不気味な国でした。

外貨の持ち込みや持ち出しが厳しく制限されていて、最悪の場合には逮捕されるとかビルマにいったことがある人から脅されました。

当時はバンコクにあるビルマ大使館でビルマの入国ビザを申請しましたが、申請時には、戦争中に家族の誰かがビルマに滞在したことがあるかどうかの質問事項がありました。

インパール作戦でも有名ですが、旧帝国日本軍はタイからビルマへ進軍して、日本が英国を追い出してビルマを占領していた時代がありました。

ビルマは、昔から地下資源も豊富でしたし、大東亜共栄圏の重要な国のひとつで、日本は、現地の若手の軍人を訓練するなどしていました。

その重要な役目を負ったひとつが、南機関という組織で、そこに有名な「ビルマ建国の父」として死後も敬愛されている「アウン・サン将軍」がいたわけです。

そのアウン・サン将軍の娘さんが、有名なアウンサンスーチー女史なわけです。

とにかく英雄の娘さんですし、海外留学経験も豊富ですし、早くから注目されてきた女性で、いろいろな国や大学から名誉市民とか名誉学位とかをもらってきていますし、なんといってもノーベル平和賞が有名ですね。

でも、最近のロヒンギャ問題から、ノーベル平和賞を取り消せといった声があがったり、実際に名誉市民が取り消されたりしているそうです。

ミャンマーの民主化のシンボルといわれていますが、彼女を知る人の印象としては、とにかく頑固なんだそうです。

彼女自身は仏教徒であるらしいし、欧米での生活も経験しているわけですから、キリスト教的な考え方は理解していると思うのですが、イスラム教に関してはどうなんでしょうね。

それとこのところ経済発展をしているミャンマーは、昔から軍と中国との関係も密接でしたが、欧米が人権問題でいろいろな経済制裁を行っている中、民主派政権としても、中国との関係を深める必要があり、そのへんで、軍との間に利権争いが起きているといった見方をする人もいるようです。

ミャンマーには、地下資源だけでなく、麻薬もあるわけで、そういった利権も裏にはあるのではないかと思ったりもします。

2007年9月27日に僧侶たちのデモを取材していた日本人の長井健司さんが撃たれたニュースは衝撃的でした。

今回の軍事クーデターでも、世界中からジャーナリストたちがミャンマーに取材に行くのでしょうけど、悲劇が起こらないことを祈るばかりです。

これから欧米は軍事政権に対していろいろな圧力を変えることが予想されます。

テレビに出ていたカセサート大学の専門家によるとミャンマーの軍部は、以前から中国との関係はいいものではないそうで、中国の影響力が強まることはないのではないかとのことでしたが、どうなんでしょうね。

彼女の話のイメージでは、軍はやはり民族派というか、海外からの影響力をあまり受けないミャンマー独自の路線を守るような感じを受けました。

中国包囲網としての米国・インド・オーストラリア・日本とイギリスがどう出るのかにも注目です。


大使館からのメール

 ・本日2月1日(月)15時半頃から、首都バンコクのBTSスラサック駅近くのミャンマー大使館前において、タイの民主派グループ等による政治集会が実施される予定です。

・政治集会が行われている現場周辺には、できる限り近づかないようにするなど、ご自身の身の安全を確保してください。


インターネット上の情報によれば、今朝のミャンマーでのスー・チー氏等拘束を受けて、以下の日時・場所において、タイの民主派グループ等が集会を呼びかけています。

                          

日時:2月1日(月)15時半頃から

場所:バンコクのサトーン通りBTSスラサック(Surasak)駅近くのミャンマー大使館前

 

つきましては、在留邦人及び滞在者の皆様におかれましては、不測の事態に巻き込まれることのないよう、最新の関連情報の入手に努めるとともに、現場周辺には近づかず、安全確保には十分注意を払って下さい。


(問い合わせ先)

○在タイ日本国大使館領事部

電話:(66-2)207-8500、696-3000

FAX:(66-2)207-8511

所在地: 177 Witthayu Road, Lumphini, Pathum Wan, Bangkok 10330

(ウィタユ通り、ルンピニー警察署とMRTルンピニー駅のほぼ中間)


2018年10月2日火曜日

地図を読む

wikiにある東南アジアの地図を見ていると、西から東への海路は、必ずマラッカ海峡を通って、シンガポールを経由していることがわかります。

マラッカ海峡を通過する船は、年間9万隻にも上っているのだそうで、特に、中東から東アジアへの石油輸送ルートとして重要です。

最近問題になっているのは、海上の渋滞だそうです。それに、海賊も出るそうです。

海賊とかテロリストとか、とんでもない存在ですが、歴史が動くときとか、混乱が起きるとき、どこかの国の利害で起きることもあります。

いつも、思い出すのは、チャップリンの映画で、窓ガラス職人の父を助けるために、街中の窓ガラスを割って回る少年の話です。

話し合いで追い詰められると叫び出したり暴れたりするとかも、ある意味テロじゃないかと思います。

船が安全に航行するだけでは、保険は、そんなに売れませんが、海賊の被害が出たら、海賊被害に対しての保険が売れます。妄想ですけどね。

マレー半島の付け根部分がくびれているから、そこに運河を通したら、マラッカ海峡を通らないで、船は、1200キロの短縮が出来ると、古くからわかっていました。

でも、そんなことになると、シンガポールの存在価値がなくなってしまうので、イギリスは、タイと、あのあたりに運河は通しませんという条約を結んだ時期もありました。

最も狭い部分はわずか44km幅しかないのに、建設は、なかなか難しいようで、一時は、核爆弾を使う計画まであったそうです。

タイの南部には、イスラム過激派がいるんだそうで、よくわからない爆弾事件が定期的に起きていて、治安が悪いようです。見方によっては、あの辺に海外からの調査が入れないような妨害ではないかと疑ったりもしますよね。

今は、ミャンマーが話題で、クラ地峡よりももう少し北側にある、ミャンマー南部ダウェーに港と経済特区を作り、そこから、陸路タイからカンボジアを通って、ベトナムまで通じるアセアン南部回廊の計画が進んでいるそうです。

タイからカンボジア・ベトナムへは、すでに開通しているそうです。

ミャンマーからタイ、ラオスを通ってベトナムに通じるのが東西経済回廊です。

どちらも、日本にとっては、大きなメリットがありますが、ミャンマーでは、環境破壊に反対する人たちがでてきて、計画が進まなかったりするようです。

環境破壊反対というのも人権問題に並ぶ「錦の御旗」で、そうした反対に対しては、強行しにくいわけです。

最近話題になる、ミャンマーのロヒンギャ問題も、実は、マラッカ海峡を通りたくない中国の「一帯一路」政策に関係があるのではないかといわれています。

ミャンマーとバングラデシュの国境付近に住むロヒンギャといわれるベンガル人たちとミャンマー人たちの間で、混乱が起きているわけですが、その裏には、中国によるラカイン州チャオピューで計画されている深海港の開発やそこから、中国の雲南省昆明につながるパイプラインや道路建設に関係があるのではないかともいわれています。

歴史的には、ベンガル人をミャンマーに連れてきたのはイギリスなんですよね。

マラッカ海峡を通らないですむ計画を立てると、その計画がある地域で問題が起きるわけです。そして、海賊が減ります。

あくまでも個人の妄想で、地図を読んでいるんですけどね。


2018年1月10日水曜日

長い鼻の王女  ミャンマーの民話から


 昔々、ある村に二人の男がいました。二人は、小作人として、いつも忙しく働いていましたが、収穫のほとんどを地主に持っていかれるので、貧しく暮らしていました。二人は、仲良しでしたが、いくら働いても少しも楽にならないことを嘆きあっていました。

 ある日、男の一人が、突然仕事を放り出して、「もうこんな仕事は、まっぴらだ。俺はこの村から逃げ出すことにした。もしも金持ちになったら、おまえも楽にしてやるからな。」と友人にいって、村を後にしました。

 男が、森にさしかかったときに、男は、近くにあるすべての木の匂いをかぎながら先に進みました。

 しばらくして、とても変わった匂いのする木に気が付きました。いったい何の木だろうかと、匂いをかぎました。匂いをかいでいるうちに、鼻のあたりがむずむずしてきましたので、どうしたのだろうと鼻に手をやって、男はびっくりしました。

 なんと鼻が、どんどん長くなってきているではありませんか。ついに1mほどに長さになってしまいましたが、男は慌てず、その木の葉っぱや樹皮や枝や根の一部を袋に入れて、先を進みました。

 男の長い鼻は、まわりの木に引っかかって、森の中を歩くのは大変でした。しかし、彼は、飽きもせずまわりの木の匂いをかぎながら、歩いてゆきました。

 そのうちに、今度もまた変わった匂いの木を見つけました。近くに行って、匂いをかいでいると、彼の長い鼻が、突然、縮み始めて、もとの普通の鼻になりました。今度も、男は、木の葉っぱや樹皮や枝や根の一部を袋に入れて、先を進みました。

 森から出たところに、小さな町がありました。男は、その街に住む独りの婦人の家に下宿することになりました。

 しばらくして、この婦人が、この国の王女のために、時々、美しい花束を届ける仕事をしていることがわかりました。男は、婦人の手伝いを一生懸命にして、婦人から信頼されるようになりました。

 ある日、男は王女に届ける花束に、鼻を長くする木の葉っぱや樹皮や枝や根のかけらを粉にしたものを、密かにふりかけておきました。

 婦人は、いつものように花束を持って、王宮に行きました。

 王女は、寝室に届けられた美しい花束を、いつものように手にして、匂いをかぎましたところ、みるみる鼻が長くなってきたのに驚いて、泣き叫びました。

 知らせを聞いて、王様がかけつけました。しかし、王様も王女の長くなった鼻を見てびっくりしてしまいました。王様は、とにかく国中のすべての医者を呼んで、治療させましたが、誰も、鼻を元通りにすることは出来ませんでした。

 王様は困り果てて、王女の鼻を元通りにした女性には、賞金を出すし、男性であれば王女と結婚させると国中におふれを出しました。我こそはとたくさんのものが王宮に入ってゆきましたが、誰も王女を治すことは出来ませんでした。

 花束に不思議な粉を振り掛けた男は、ゆっくりと王宮に入っていって、森の中から持ってきた、鼻を元に戻す木から作った粉を王女も鼻に振り掛けました。

 するとどうでしょう、王女の鼻が、元通りの普通の鼻になったので、王女だけでなく、まわりのものも、王様をはじめ、みんな大喜びをしました。

 王様は、喜んで、約束通りに、この男と王女を結婚させました。

 貧しい男は、今や、この国の王子になり、何不自由なく暮らしはじめました。

 この王子は、しばらくすると、使いを出して、残してきた友達を王宮に連れてくるように命令しました。そして、昔の友達との約束を守って、友達が王宮の中で働けるようにして、末永く仲良く暮らしましたとさ。


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2017年12月16日土曜日

ミャンマーの民話から 白い子象


 昔々、森の中に真っ白な子象を持った母親の象が住んでいました。

 母親は、真っ白な子象を産んだことを非常に誇りを持っていました。母親は、普通の灰色の象でしたので、真っ白な子象を深く愛して、いつも側から離れませんでした。


 子象は、だんだんと成長して大きくなってゆきました。そして、自分のことは自分で出来るようになりました。

 ある日、母親は、この子象の将来のことを考えました。

 子象が、大きくなっても、この森の中で暮らしていくとしたら、他の象と同じように、食べることだけのために、毎日一生懸命働かなければならないと考えました。この特別な、真っ白な子象が、そうした生き方をすることは、母親にとって耐えられないことでした。

 母親は、考えました、森を出て、町に行けば、真っ白な子象は、人々から大切にされ、自分で働かなくても、人々に養ってもらえるはずだと考えました。

 母親は、子象を呼んで話し掛けました。

 「この森の生活は、おまえにとって、ふさわしくない。おまえのような美しく真っ白な象は、森の中で毎日の食べ物のために、一生働き続けるのではなく、人間が住んでいる町に行きなさい。人間にとって、真っ白な象は、高貴な人間の象徴なのだから、必ず、養ってもらえるはずだ。そればかりか、大切にしてもらえるはずだよ。」

 この真っ白な子象は、母親思いの優しい子象だったので、母親のすすめるように、街に行くことにしました。

 母親の象は、子象が、森を出てゆく前に、子象に向かい「人間の中で暮らす時には、人間の言うことを聞いて、忍耐強くするのだよ。」と最後の忠告をしました。

 白い子象が、森を出て、町に入ってゆくと、それを見つけ家々の中から人々が、表に飛び出してきました。「おーい、見ろよ、白い子象が町に来た!」人々は、興奮して叫びあいました。

 人々は、バナナやサトウキビなどの野菜や果物を持ってきて、白い子象に食べさせました。人々が差し出す美味しい果物を食べながら、母親の考えはやはり正しかったと思いました。

 それからというもの、白い象は、町で食べ物をもらい、夜になると近くの森で休む毎日を続けました。人々は、最初の日と同じように、優しくしてくれました。子象は、そうした毎日をとても幸せに思いました。

 しかし、しばらくすると、人々は、食べ物をくれる時に、条件を出しはじめるようになりました。ひと房のバナナを差し出しながら、水を運んでくれたら食べさせてやるよ。子象は、指示にしたがって、水を運びました。すると、次には、サトウキビを差し出して、薪を運んでくれたら、食べさせてやるよといいました。子象は、薪を運びました。

 こうして、交換条件で働きはじめた子象は、だんだんとそうした暮らしが嫌になってきました。しかし、母親からいわれたように、我慢を続けましたが、ある日、ついに我慢が出来なくなって、母親に会いに森に帰ることにしました。

 真っ白な子象は、母親に会うと、町でのことをすべて話して聞かせました。

 「お母さんの言うとおり、人間は、食べ物をくれました。しかし、その見返りとして、水や薪や米を運ばされました。町の人一人一人が、用事を言い付けるのです。とても我慢が出来なかったので帰ってきました。」

 話しを聞き終えた母親は、悲しそうな子象に向かって、「すまないことをしてしまった。おまえが、街に行く前に、もう一つの忠告をすることを忘れてしまった。人間は、自分の人生の尺度で、何事も判断しようとすることを。」と言いました。

 「だから、どんな色の象でも人間のために働くものと考えている。ところが、おまえは、高貴な真っ白な象なのだから、人々のために働く必要などない。高貴な象らしく、何もしないで、絶対に水や薪を運んだりしないようにしなさい。」「さあ、今からすぐ町に行って、人々に、本当の白い象の生き方を教えてあげなさい。」

 子象は、母親の指示にしたがって、町に帰って行きました。それを見た町の人々は、大喜びで、「白い象が町に帰ってきたぞぅ。」と大変な騒ぎでした。

 そして、前と同じように、食べ物を与えて、仕事を頼みました。しかし、今度は、いくら頼んでも、いっこうに働いてくれません。子象は、母親の忠告にしたがって、堂々とじっとしたままでした。一人の男が、無理やり水を運ばせようと命令して象の体に触れたので、白い子象は、長い鼻で、水瓶をつかんで放り投げました。今度は、別の男が、薪を運ばせようとしたので、その男を長い鼻で突き飛ばしました。

 白い子象が、前と違い狂暴な態度をするので、人々は、恐れはじめました。そして、口々に、この子象は、前に来た子象とは、別の子象だと噂しはじめました。「この前に来た白い子象は、本物の子象ではなかったに違いない。本物の白い子象なら、我々の命令にしたがって、働くわけがない。白い象は、昔からいわれているように、高貴な象で、普通の象ではないはずだ。」

 「今度の子象は、どうやら本物の白い高貴な子象のようだから、町にはふさわしくない。今すぐ、王様のところに連れていって、王宮の中で、白い高貴な象として養ってもらおう。」

 そして、人々は、この真っ白い子象を連れて王宮に行きました。そして、王様にささげました。王様は、この真っ白な子象を見て、非常に喜びました。高貴な真っ白な象は、王家のシンボルですから、丁重に扱うように部下に指示をしました。

 真っ白な子象は、こうして王宮の中で、母親が言ったように、何もしないで、美味しいものを与えられ、幸せに暮らしましたとさ。


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2017年10月15日日曜日

ミャンマーの民話から  人魚の母親

 遠い遠い昔、一人の年老いた予言者がいました。ある日、老人は、近いうちにこの世は大洪水にみまわれるから、助かりたいものは、食料を持って一番高い山の頂に行った方がいいと予言しました。

 しかし、ほとんどの人々は、老人の話に耳をかたむけませんでした。そればかりか、この老人をみんなして笑って馬鹿にしました。この老人の奥さんと娘のザ・トゥアと老人を知っているほんの少しの村人だけが、老人の予言にしたがって、持てる限りの食料を持って家畜をしたがえて、一番高い山に向かいました。

 丁度、みんなが一番高い山の頂上まで辿り着いたときに、この予言をした老人は、息を引き取りました。すると、まるでそれが合図のように、大雨が降り始めました。あっという間に、村中が洪水になって、老人を笑った人々は、もはや家から出ることが出来なくなってしまいました。はじめのうちは、仕事も出来ないからと、家の中で、食べたり飲んだりしていた人も、その内に退屈して、歌ったり踊ったりしはじめました。

 しかし、いつまで経っても降り止まない雨に、人々は、だんだんと不安を隠せなくなってきました。だんだんと水位が上がって、家が水に沈もうとするときになって、はじめて、人々は、泣き叫び、老人の予言を信じなかったことを後悔しました。泣き叫ぶ人々も家も丘も沈んでいっても、雨はまだまだ止みませんでした。

 一番高い山の頂にいるザ・トゥアたちだけが無事でした。けれども、真っ黒な水は、もう頂に近いところまで来ていて、時々大きな波が打ち寄せてくるので、みんな恐怖にふるえていました。

 打ち寄せる波しぶきが、まるで、ザ・トゥア、ザ・トゥアと呼んでいるように、みんなには聞こえてきました。ザ・トゥアの近くにいた人が、ザ・トゥアの髪の毛を一本抜き取って、水に放り投げると、水嵩が30cmほど下がりました。髪の毛一本で、水嵩が引いたのだから、ザ・トゥアが、生け贄として、身を投げれば、このいまいましい洪水も乾いてしまうにちがいないと、人々は囁きはじめました。

 「ザ・トゥア、お願いだから、みんなのために犠牲になっておくれ。」と人々はいいました。ザ・トゥアは、わかりましたといって、ザ・トゥアは真っ黒な水に身を投げることを承知しました。

 人々は、救われることを密かに喜びました。しかし、ザ・トゥアの母親だけは、悲しみに打ちひしがれて、泣き伏してしまいました。

 母親の耳元で、ザ・トゥアが、「お母さん、悲しむのはもうやめて。わたしは、人魚として生まれ変わって来るるから、お母さんは、塩になればいい。そうすれば、人魚のわたしと、塩のお母さんは、いつも一緒にいられるから。」と囁いて、身を投げました。

 すると、不思議なことに、水は、あっという間に引いてゆきました。人々は、喜んで、山を下りて、村に帰ってゆきました。村に帰って、新しい家を建て、人々は、今までと同じ暮らしをはじめました。

 唯ひとり、ザ・トゥアの母親だけが、川のほとりにたたずんで悲しみの中で、どうしたら塩になれるのだろうかと考えていました。あまりの悲しさに泣き続けたために、彼女は、嘔吐しました。すると、吐き出されたものが、真っ白な塩になって、水に溶けてゆきました。彼女は、こうして、塩を川に流すことによって、人魚になった娘のザ・トゥアと一緒にいられることが出来るのだと、少し気持ちが楽になってきました。

 現在世界中にいる人魚たちは、みんなこのザ・トゥアの子孫たちなのです。



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2017年10月1日日曜日

ビルマの時代

1978年4月にビルマのラングーン(当時はヤンゴンではなくてラングーン)に、はじめて行きました。

ビルマに行くには、ビザが必要で、ビザを申請するのですが、その申請用紙に、家族に戦争時代にビルマにいったことがある人はいますかという質問がありました。

当時は、ミャンマーではなくてビルマ。ラングーンが首都でした。現在の首都はネピドー

当時のビルマは、まだまだ近代化前で、まるで、戦後まもない日本の田舎のようでした。


空港からラングーン市内への道路







持ち込み外貨の制限もあって、空港で強制的に、ビルマのチャットに両替しなければなりませんでした。

ビルマに行ったことのある人のアドバイスで、空港の係官にタバコ1カートンをそっと渡しました。今、そんなことをしたら、逮捕されるかもしれないので、やめた方がいいと思います。

当時のラングーンには、ソ連の援助で建てられたINYA LAKE HOTELとイギリス植民地時代のコロニアル風ホテルSTRAND HOTELとTHAMADAホテルくらいしか外国人が宿泊できるホテルはありませんでした。

わたしが泊まったのは、港近くにあるSTRANDホテルで、古いですが、素敵なホテルでした。

エレベーターは、シカゴギャング時代の映画のように、鉄枠に金網といった、まわりが丸見えでした。金属の扉を手動で閉めるときに、ガッシャンという音がいい雰囲気でした。

部屋では、バスタブが、4本の足つきでしたし、シャワーヘッドが、まさにバケツの底に穴がたくさん開いているような大きなモノで、それも素敵でした。ただ、水は、チョロチョロでした。

夜6時を過ぎると、外は、真っ暗で、なんにもありませんでした。でも、好奇心から、出歩いてみると、所所に裸電球があって、そこで、物売りがいて、タバコのばら売りとか、ブロマイドとか、100円ライターのガス注入商売などもありました。

映画館がありました。

1人で歩いていると、裏通りに入り込み、突然、兵士に銃剣の付いたライフルのようなモノを胸元に突きつけられました。人間、ものすごくびっくりすると、恐怖心は感じず、ただ、立ち尽くすモノですね。

野良犬を追い払うように、シッシッと銃剣でバックするように威嚇されましたが、ただそれだけで、追ってきたりの危険はありませんでした。

たぶん、軍の施設かなんかがあったんだと思います。

あと、思い出に残っているのは、街の中華料理を出す店で食事をしたんですが、箸が、真っ黒で、ティッシュで拭いてから食べました。

あと、飲み水は、表にある水瓶の蓋を取って、金属のお椀で、甕の縁をこんこんと叩き、ボウフラが驚いて沈んだチャンスに水を汲んでいました。ボウフラがいるほどきれいなんだとか。

あと、市内には、大きな市場もあって、闇両替なんか誘われましたが、ばれると、刑務所だといわれていたのでやめました。

当時、翡翠とか買っておく知恵があったら儲かったかも。

帰りに、両替したチャットはいくら使っていくら残っているかとか、外貨の残高も調べられました。

ラングーンの街は、イギリスが作った港町なので、シンガポールやペナンに雰囲気が似ていました。

ビルマ人は、戦後国連の事務総長をしていたウタントさんがいるように、素朴でまじめで好感が持てました。男性は、ロンジーといわれる巻きスカートをはき、布製のショルダーを肩から提げている人が多かったです。

ラングーンには、シンガポールと同じように福建省からの移民が多いそうでしたが、インドシナは、インドに近付くとインド系のような肌が浅黒く濃い顔立ちが目立ちました。

最近は、ミャンマーの女性が、タナカといわれる木の粉を水で溶いて顔に塗っているのを化粧品化して、タイでも売られています。
















2017年9月30日土曜日

1971年8月1日

1971年8月1日、ニューヨーク市マンハッタンマジソン・スクエア・ガーデンにてバングラデシュのためのコンサートが開催されました。

当時から世界最貧国のひとつだったバングラデシュですが、元ビートルズのジョージ・ハリソンが、当時大きな影響を受けていたインドの音楽家ラビ・シャンカール(ノラ・ジョーンズのお父さん)の話しを聞いて、バングラデシュの人びとが飢えに苦しんでいることを知り、友人たちに声をかけて、バングラデシュ難民救済チャリティーコンサートを開きました。

当時、すでにビートルズは解散し、メンバーたちは、個々に活躍していましたが、このコンサートに、リンゴ・スターも参加しています。他には、エリック・クラプトンとかレオン・ラッセルとか、昨年ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランも参加しています。みんなノーギャラで。

コンサートの収益やコンサートの映画やDVDやLPなどの収益も、すべてバングラデシュに寄付したそうです。

当時、ジョージは、まだ28歳。政治や信条を越えて、単に善意のコンサートというのが、素晴らしいと思います。日本のミュージシャンも、ロヒンギャ難民救済コンサートとかすればいいのにね。



インパール作戦(日本側作戦名:ウ号作戦)とは、1944年3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。

最悪の作戦で、多くの犠牲者を出した作戦ですが、この援蒋ルートというのが、最近、また注目されてきています。

中国は、一帯一路構想で、中国から内陸と沿岸との2つの大きなルートでヨーロッパや中東やアフリカと結ぼうとしています。

そのうち、昆明からミャンマー西部ラカイン州の州都シットウェ(Sittwe)へのルートは、イギリスが、日本との戦いの中で開拓した援蒋ルートに重なります。

中国は、中東からの石油をこのルートに2つのパイプラインを建設して中国まで運ぼうと計画しているのです。海賊や海難事故の多いマラッカ海峡を通ることなく、短距離でつながります。

ミャンマーとバングラデシュの地図を見ると理解できますが、バングラデシュは、インドに囲まれるような形で、ベンガル湾の部分だけが、ミャンマーと国境を接していますが、バングラデシュの北部と北東部にはインドがあって、インドはミャンマーと国境を接しています。

インドもミャンマーも元はイギリスの植民地であったわけですが、イスラム教徒の多い地区が、東西パキスタンとして独立、その後、東パキスタンがバングラデシュとなっています。その時の混乱で、多くの人びとが飢え苦しんだので、ジョージたちがチャリティーコンサートをしました。

日本は、戦前からインドやミャンマーの独立派と手を結び、インドやミャンマーからイギリスを追い出そうとしていました。インドは、親日国です。東京裁判で、日本の立場を理解したインドのパール判事は、有名ですよね。

極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人で、判事全員一致の有罪判決を目指す動きに反対し、平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)で知られる。

ミャンマーのアウンサン・スー・チーさんのお父さんでミャンマー建国の父といわれるアウンサン将軍も日本の南機関に所属した親日家でした。

アウンサン・スー・チーさんは、日本の京大にも留学経験がありますが、亡くなったご主人はイギリス人で、お子さんたちは、イギリス国籍を持っています。どうも彼女は親日派でもないようです。

ミャンマーは、独立後、社会主義国として、旧ソ連や中国との関係が深かった国です。特に軍事政権時代には、中国の影響力も強くて、その関係は、今も続いているようです。

中国は、今、一帯一路構想といいながら、中国が重要と考える世界中の港湾に巨額の投資をしています。スリランカやオーストラリアの港などが有名ですが、借金漬けにして、中国の言いなりになる港作りと陰口をいわれています。

日本と韓国の例を出すまでもなく、世界中のほとんどの国境を接する国々は、仲がよろしくありません。中国とインドも、インドとパキスタンも、仲はよくないです。そこで、日本は、中国を牽制する意味でも、最近は、インドととても仲良しです。

インドもミャンマーを横断して、タイからベトナムへと続く、東西回廊の構想を日本と手を組んで進めています。こちらも、中国が横やりを入れています。最近のタイは、中国にかなり近寄っています。日本が計画した高速鉄道なども、中国が横入りしてきています。

日本が進めている南部経済回廊は、ミャンマーの南部にあるダウェイ港 (Dawei Port)から、タイの戦場にかける橋で有名なカンチャナブリを経由して、バンコクからカンボジアに入り、ベトナムのホーチミンまで続く道路のことです。

その北にあるのが、東西経済回廊で、ミャンマーのモーラミャインからタイのターク、ムクダハーン、ラオス、ベトナムのダナンへと続く道路構想です。

中国は、日本に主導させてなるものかと、いろいろな国で経済援助をエサに邪魔してきています。

こうした動きを見ると、何となく、戦争中のインパール作戦ではないですが、日本と手を組むインド、中国と手を組むイギリスといった構図を妄想します。

そして、話が、バングラデシュの難民救済に戻りますが、ミャンマーとバングラデシュの国境地帯に住んでいるロヒンギャ(ベンガル人)たちの問題に、中国の一帯一路構想と関係があるのではないかといった説も出でてきています。

中国と手を組んで一帯一路構想を進めるミャンマーの権力者、特に軍部が、計画地域で暮らしている人たちを立ち退かせるために、放火や虐殺をしているという噂もあるようです。

経済発展で、大きな利権も生まれます。大きな利権争いに、一般市民が巻き込まれます。

ミャンマーには、豊富な地下資源が眠っているそうですし、東西の交通の要になってきています。それ以外に、ミャンマーは、麻薬の生産国としても有名で、そういったビジネスに多民族間の争いが利用されることもあるようです。

“ロヒンギャ問題” 調べたら全然違うじゃねーか!

日本は、政治や信条を越えて難民救済や経済協力で、バングラデシュやミャンマーの貧困層や子供たちを救済していって欲しいですね。

2017年9月11日月曜日

ひょうたんの中の老人(ミャンマーの民話から)

 昔々ある所に貧しい一人の老人がいました。ある日、畑仕事をしているときに、傷ついたすずめを見つけました。すずめは、羽を傷つけていて、飛ぶことが出来ませんでした。

 「可哀相に。いったいどうしたんだ。」と、心のやさしい老人は、すずめに語り掛けて、家に連れ帰りました。毎日、餌と水を与えて、けがの介抱をしてあげました。

 しばらくして、けがが治ると、すずめが飛べるようになったので、老人は、すずめを連れて畑に行って、「気を付けて暮らすのだよ。」といって、空に放してあげました。すずめは、幸せそうに空高く舞い上がってどこかに行ってしまいました。

 いばらくしてから、助けたすずめが、老人のところに帰ってきました。すずめは、老人のおかげで命拾いをした恩返しに、一粒のひょうたんの種を持ってきました。

 老人は、その種を植えて水をやると、あっという間に芽が出て、すぐに大きなひょうたんの実がなりました。老人は、ひょうたんのあまりの大きさにびっくりしました。老人は、大きなひょうたんを家に持ち帰って、割ってみましたところ、中から、金銀宝石がたくさん出てきました。おかげで、この老人は、金持ちになることが出来ました。

 このひょうたんと老人の噂は、町中に広がりました。それを聞いた一人の猟師が、金持ちになった老人をうらやんで、自分も金持ちになりたいので、急いで弓矢を持って森にすずめを探しに行きました。

 飛んできたすずめに弓矢を放ち、落ちてきたすずめを家に持ち帰って、同じように餌と水を与えて、介抱しました。しばらくして、すずめが元気になると、同じように空に放してあげました。すずめは、幸せそうに飛び去りました。

 しばらくして、すずめが、戻ってきたときに、猟師は、自分もお金持ちになれると、大喜びをしました。すずめは、猟師に、やはり一粒のひょうたんの種を持ってきました。

 猟師は、種をまいて、毎日水を与えて、まだかまだかとひょうたんの実がなるのを待ちました。

 やがて、やっとのことで、ひょうたんの実がなりました。

 猟師は、すぐにひょうたんを割ってみました。ところが、中から出てきたのは、金銀財宝ではなく、やせ細った一人の老人でした。











 猟師は、驚いて、「おまえはいったい誰だ。ここで何をしているのか?」と大声で、たずねました。

 すると、ひょうたんの中の老人は、「大声を出さないでくれ。借金取りに居場所がばれてしまうではないか。」と小声でいいました。

 猟師は、その老人が貧乏神だとわかり、とてもがっかりしましたとさ。



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