死因は発表されていませんが、あの体格とか、最後の番組での姿から察すると、もしかしたら、糖尿病とか、高血圧とかの生活習慣病があったのかもしれませんがどうでしょうね。
年齢から言えば、ほぼ同級生ですから、彼が生まれ育った時代背景は多少は理解できます。
彼の作品はほとんど読んではいませんが、ものすごい数の作品を残しているし、その着眼点はすごいと思います。
彼は、中上健次氏に影響を受けているそうですが、あの時代は、ネットもなく、若者たちは、活字の世界に好奇心を働かせていたと思います。
今の若者たちが、芸人や芸能人に憧れるのと同じように、当時の若者たちの中には小説家に憧れる者たちも少なくなかった。
私の場合には、寺山修司とか五木寛之とか野坂昭如などの本を好んで読んでいました。
映画や演劇に興味を持つものも多く、ニューシネマといわれたジャンルや、アングラといわれた演劇なども人気でした。音楽では、フォークやロックも人気でした。
世界的にはビートルズ世代でしたし、ボブ・ディランに憧れる人たちも多く、日本のフォークにも大きな影響を与えたと思います。
好みが多様化する時代でもあり、ビートルズカローリングスターンズかといった好み論争から、ディープパープルやレッドツェッペリンのハード路線やユーロポップスが好みの人たちも出てきました。
日本のフォークでも、誰がホンモノで、誰が商業主義だとか、そういった分類も出てきた時代でした。
もちろん、ベトナム戦争があり、反戦運動から、日本だと学生運動もあったし、反体制であることが若者らしさであった時代でもありました。
アメリカのヒッピーに憧れて、ドラッグに走る人たちも出ましたが、一部の人たちにとどまったような気がします。
政治的な運動もどんどん過激になっていく人たちが、社会から孤立化していく時代で、一般の人たちは、経済成長からバブルへと進んでいきました。
村上龍は、「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞をとり、有名になり、大金を得たわけですが、当時、彼は、誰からかは忘れましたが、若い時には、できる限りの贅沢をして、海外に行って、他の人のできないような体験をした方がいいとのアドバイスを受けたようです。
当時は、小田実の「何でも見てやろう」に影響される若者たちもいて、若さと知性と勇気にみちた体当り世界紀行なんかに憧れたものでした。
寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」も一部の若者たちのバイブルでもありました。
寺山修司の「天井桟敷」は、唐十郎の「状況劇場「などとともに、若者たちの憧れのアングラ劇団でした。
五木寛之のヨーロッパへの貧乏旅行シリーズも人気で、『さらばモスクワ愚連隊』(1966年)、『青年は荒野をめざす』(1967年)、『ソフィアの秋』などをむさぼり読んだものでした。
当時は、横浜からソ連の船でナホトカに渡り、シベリアを越えてヨーロッパヘ、という貧乏旅行が一般的なコースでした。
そういった時代背景の中、村上龍は、うまく時代の波に乗って有名になり、お金持ちになっていったわけです。
彼が、もう少し背が高くて、顔が小さかったら、あれほど上の世代から支持されていなかったかもとか思ったりもします。
カッコよさに憧れた田舎生まれのずんぐりむっくりだから、かわいがられたのかもしれません。
ちなみに、ネットには、彼にはゴーストライターがついていたという話も出ていますが、有名な作家には、サポートメンバーがいてもおかしくないと思います。
有名なミュージシャンにも、盗作疑惑とかありますもんね。
とにかく、多くの作品を世に出して、テレビにも出て、オア剣持になったことは、事実で、素晴らしいことです。
ご冥福をお祈りします。
