インツーリストの旅行は、横浜港から、ヘルシンキ駅までの旅程でした。
モスクワを出発した列車は、当時のレーニングラードを経由して、フィンランドに向かいましたが、国境手前では、パスポートチェックがありました。
いろいろな人たちの旅行記を読むと、どうやらお約束ごとだったようですが、列車が国境を越えて、フィンランド領に入ると、車内からは、拍手と大歓声が起きました。
空の色も家々の屋根の色も、そう空気のニオイさえも変わりました。
当時のソビエト連邦は、社会主義の国、自由のない、旅行者は、常に監視されている国という印象でした。
横浜港から出港したソ連の客船ジェルジンスキー号の船内で運良く知り合った、フィンランド人の彼女と娘さんと一緒だったマノさんと彼の幼なじみの長五郎さんと一緒に、ヘルシンキの手前のラハティという駅で下車しました。
そこは、マノさんの彼女の実家のある街で、スーパーマーケットを経営する彼女の実家に泊めていただきました。
マノさんの彼女の弟エンガがとてもフレンドリーのいい人で、彼が、車でいろいろなところに案内をしてくれました。
一番印象に残っているのは、白樺に囲まれた湖が、まだ3月で、全面氷結していて、車でその氷の上を走ることが出来、エンガが、急ハンドルや急ブレーキをかけて、氷の上でスピンさせるのが、メチャ楽しかったです。
そして、氷に穴を開けての魚釣りも経験させてもらいました。
夜は、街の酒場に出かけて、若者たちが、酔っ払って踊ったりするのを眺め、家にある、本場のサウナに入ることも経験できました。
あとで知ったのですが、あの酒場では、当時ラハティを訪れた日本人にいろいろな出会いもあって、当時は、愛の街ラハティと呼ばれていたようです。
当時は、日本の男性がもてる世界でも珍しい国が、フィンランドだといわれていたんだそうです。
ラハティといえば、毎秋シベリウス音楽祭が開催されることでも有名だそうですし、ノルディックスキーの国際大会が開かれることでも有名だそうです。
あの3日間があったので、ヨーロッパって、素敵な所じゃんとヨーロッパに長く滞在したのかもしれません。
フィンランドは、トルコやタイと並び世界3大親日国だそうで、本当に、素晴らしい国でした。
フィンランドには20日足らずの滞在でしたが、今でも、フィンランド語をいくつも思い出します。
ヘルシンキ駅、その近くにあったカフェテリアのカイボグリル、ユースホステルのスタディオン・マヤ、ディスコ・モンディ、海が凍っていたヘルシンキ港などなど、懐かしいなあ。
3月26日には、当時ナンパ船と言われていたバイキングフェリーで、スウェーデンのストックホルムに向かいました。
ナンパ船と言われていたのは、よく沈没するからではなくて、夜中に、女性から声をかけられる船だったからです。
当時は、フィンランド人は、スウェーデンに出稼ぎに行く人たちも多く、若い女性も船にはたくさん乗っていました。
北欧といえば、スウェーデンとノルウェーとデンマークの3国で、フィンランドは、ちょっと仲間はずれです。人種的にも言語的にも違います。
スウェーデン語もデンマーク語もノルウェー語もほぼ同じというか似ていますが、フィンランド語は全く違います。フィンランド人の多くは、スウェーデン語も話します。
ナンパ船の中では、数人の女性たちから声をかけられましたが、1人のおばさんが話してくれた話が、とても印象的でした。
ひとつの川の上流にひとつの村がありました。人びとは、自給自足で、平和に暮らしていましたが、ある時、下流に住むという人たちが、村を襲って、村人全員を殺してしまいました。
下流に住む村人たちの言い分は、上流に住む人たちが、いろいろなものを川に流し、腐った食べ物であったり、汚物であったり、死んだ動物であったり、とても我慢できないので、滅ぼすことに決めたのだそうです。
その話が、フィンランドに伝わっている民話なのか、そのおばさんの作った話なのかはわからなかったけど、何となく、フィンランドとロシアとかフィンランドとスウェーデンとか、弱い立場のフィンランドのお話のような気がしました。
この話を、あの頃、姉に頼んで、どこかの雑誌に投稿してもらったのですが、読者からのお便り欄に小さく載っただけでした。