明日は11月9日ですが、1989年の11月9日に、東西ベルリンの間にあった壁が、意味を失った記念すべき日です。
第二次大戦後に東西に分割されたドイツの首都ベルリンでしたが、東ドイツの中にある島のように、周囲は東ドイツでした。
東ベルリンと西ベルリンとの行き来は、自由に出来ていましたが、あまりに東ドイツから西ドイツへと逃げる人びとが多かったことから、1961年8月13日に突然東ドイツが東西ベルリン間の通行を全て遮断し、西ベルリンの周囲を全て有刺鉄線で隔離してしまいました。そして、後にコンクリートの壁を作ったのが、ベルリンの壁でした。
西ドイツから西ベルリンに行くには、空路か、陸路でしたが、陸路の場合には、必ず東ドイツを通り過ぎなければ西ベルリンには入れませんでした。
当時の日本のパスポートには、はっきりと、北朝鮮と東ドイツと北ベトナムを除くすべての国で有効と書かれていました。
そして、それからは、東西ベルリンを自由に行き来することは許されず、東ベルリンから西ベルリンへ逃げてくる人たちは、東ベルリン側にいる警備兵からの銃撃で多くの犠牲者が出てきました。
この写真は、西ベルリン側にあった、犠牲者の慰霊碑です。
1961年8月13日から1971年8月13日と書かれています。
この写真は、壁の上から東ベルリンを見ているところで、NATO軍の兵士が監視していました。
わたしは、1975年にドイツ人の友人たちとブレーメンから車で西ベルリンまで行ったことがありましたが、途中、国境に検問所はあったものの、ほぼノーチェックでした。
わたしのみ、パスポートに東ドイツの入国スタンプを押されました。
東ドイツでは使えないはずのパスポートなのに不思議でした。
西ベルリンの地下鉄は、途中、東ベルリンにも入っていくわけですが、当然、東ベルリンの駅には止まりませんでした。あの時写真を撮っておけばよかったのにと、とても残念です。
そして、1980年代になると、東西の雪解けがはじまり、ついに、ベルリンの壁も、壊される日が来たわけです。
ブレーメン時代に知り合った友人たちの中には、子供の頃、母親に連れられて、東ドイツから西ドイツに逃げてきた人もいました。彼の場合には、東ドイツからチェコスロバキアに行って、そこからオーストリア経由でドイツに亡命したそうです。
命をかけた逃亡です。
ドイツもベトナムも統一され、残るは朝鮮半島です。
わたしの友人が、ベルリンの壁崩壊後にベルリンに行って、ベルリンの壁の破片を持ち帰りました。
やっぱり平和がいいですね。