私の出発時には、すでにドルも安くなっていて、1ドルが240円くらいだったと記憶しますが、60年代には、1ドルは360円の時代で、海外の情報も少なく、みんな苦労されたようです。
私の出発時には、五木寛之さんの「青年は荒野をめざす」や小田実さんの「なんでも見てやろう」本も出ていたし、他にも、いろいろな本が出ていました。
60年代には、南回りの船でフランス・マルセイユまで行くルートと、シベリヤ経由の北回りがありましたが、わたしの行った70年代には、シベリア経由が、主流でした。
70年代のヘルシンキやストックホルムやコペンハーゲンには、すでに、日本人が、たくさん暮らしていました。もちろん、パリやロンドンに比べたら少ないですけどね。
変わった人たちも多かったし、親切な人たちが多かったです。
ストックホルムと言えば、船のユースホステル・アウフ・チャップマンが有名でしたが、私は、泊まったことはないです。
当時は、いろいろな都市伝説的な武勇伝もたくさんあって、アウフ・チャップマンに泊まっていた日本人が、近くで白鳥を捕まえて丸焼きにして食べたので、日本人は、評判がよくないという話を聞いていました。
当時の若者は、ユースホステルを泊まり歩くのが一般的でした。一部屋に2段ベッドが4つから10くらいあるのが一般的で、トイレもシャワーももちろん共同でした。
私は、運良く照幸さんの部屋に居候できたので、泊まるところの心配も無いし、いろいろな情報も得ることが出来ました。
当時の日本の若者は、北欧と言えば、フリーセックスの国と雑誌やテレビで伝え聞いていたこともあって、若者が集まる場所に行くわけです。
当時から、すでにストックホルムには、多くのアラブ系の労働者たちも滞在していて、当時流行っていたディスコに行けば、彼らがいっぱいでした。
彼らは、男性ホルモンいっぱいで、あそこもでかいそうで、けっこうもてていましたが、日本人は、身体も小さい人が多いですし、童顔ですし、積極性に欠けるし、言葉も出来ない人が多いから、もてなかったです。
照幸さんたちの時代には、旧市街ガムラスタンにあった伝説のディスコ・ボバディラが有名だったそうですが、そこも、なんでも日本人が大喧嘩をして、出入り禁止になってしまったとかで、私が滞在していたときには、キャットバルーが人気でした。
当時から北欧は物価が高かったのですが、日本でたばこ1箱100円だった時代に、たばこが1箱約6~700円もしました。
ですから、日本の貧乏旅行者たちは、当時ストックホルムで流行っていたプリンスというたばこを一度吸って、火を消して、しまっておいて、またもう一度吸うといった情けないことをしていました。
たばこといえば、私が、居候をしていたときに、照幸さんが、ずた袋いっぱいに入った葉巻やシガリロを持って帰ってきました。
誰かからもらったのか、売ってくれと頼まれたのか、事情はわからないですが、私も、少しお裾分けを頂き、しばらくは、シガーやシガリロを経験しました。
はっきり言って、臭いし、なれていないからまずいし、好きにはなれませんでした。そんなにいいモノではなかったようですし、湿気の管理などもされていなかったのでしょう。
あとで知ったダビドフのシガリロなんかは、美味しいと思いますが、今は、たばこもシガリロもシガーもたしなみません。
あと、サムソンという、刻みたばこを、自分で紙で巻いてから吸うのも流行っていて、それ専用の巻くための器具もありましたし、パイプで吸う人もいました。
器具を使わず、自分の指だけで巻くのがかっこいいと、一生懸命に練習したモノでした。
私は、お酒は好きではないから関係なかったけど、お酒の好きな人たちは、お酒も高いから、400メートルダッシュをしてから缶ビールを呑むとか、飲んだあと逆立ちをするとか、バカバカしい苦労をしていたようです。
ストックホルムは、清潔で近代的な街でしたが、どこか、冷たい風が吹き抜ける印象でした。
北欧の中でも、スウェーデンの女性たちには、ハリウッドもびっくりクラスの美女も多かったです。
あと、昼間の公園で、老夫婦たちが、何もしないで、ベンチに座って日向ぼっこをする姿を見ました。世代間にも、冷たい風が吹いている感じを受けました。