この統治は東南アジア・大英帝国・大日本帝国・シンガポールにとって重要な転換点となり、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」とその名を改められた。
1945年9月12日、シティホールにて日本軍は降伏文書に調印し、これによってシンガポールはイギリスに公式に返還された。
シンガポールで歴史あるホテルといえば、ラッフルズホテルですが、日本の統治時代には、昭南旅館と呼ばれていたそうです。
もう一つの有名な戦前からあるグッドウッド・パーク・ホテルは、「海軍水交社」に改名し、大日本帝国海軍高官の事務所兼宿泊施設として利用されていたそうです。
シンガポールといえば、山下奉文将軍がイギリス軍司令官のアーサー・パーシバル陸軍中将に対して「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話は有名です。
ウィンストン・チャーチルは著書の中で、「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大、屈服の降伏であった!」と語ったそうです。
ちなみに、イギリスと対立していたアイルランドでは、独立運動を弾圧してきたパーシヴァルが降伏したことで元アイルランド共和軍(IRA)幹部らがダブリン駐在日本領事を囲んで祝賀会を開いたという逸話があるそうです。
とにかく日本は3年ちょっとシンガポールを統治したんですが、その間に、抗日華僑たちを粛清したことで、その後、問題になっています。
専門家にしっかり調査研究をして欲しいですが、当時の華僑は、当然中華民国の国民で、日本と戦争をしていたわけで、抗日ゲリラもいたでしょうし、日本軍が厳しく禁止していたアヘンの密売業者たちも含まれていたようです。
2月18日 プンゴール・ロード末端近くの海岸にて 約300名
3月1日頃 チャンギ・ロード10マイル里標近くにて200名から300名
2月23日頃 東海岸ロードの7.5マイル(約12キロ)地点にて約120名、タナメラ地域チャンギ海岸にて500名から600名
2月16日以降 タンジョン・パガーにて約150名
2月21日以降 フォート・カニング近くのチャンギ海岸にて200名から400名
2月23日 アンバー・ロード近くの海岸にて約500名
シンガポール粛清事件による犠牲者の総数は、裁判の起訴状に記載がなく、公判の中でも明らかにされなかった。確認文書の中で確認官は「数千人」と記載しているそうです。
シンガポールの許雲樵元南洋大学教授が作成した名簿では、犠牲者数は8,600人余りとなっているそうです。
1966年10月25日、日本政府はシンガポールとの間で、2,500万シンガポール・ドル相当の日本の生産物と役務を無償で供与する、という内容の戦後賠償協定を締結し、その協定を1967年9月21日にシンガポールにおいて両国外相が「第二次世界大戦の間のシンガポールにおける不幸な事件に関する問題の早期のかつ完全な解決」のためであるとして調印した 。
東南アジアにおいては、旧イギリス植民地の華僑が、イギリス側につき、抗日戦線を戦うことが多かったし、イギリスからの独立派の中にも、共産ゲリラがいて、かれらも抗日ゲリラ活動をしていたそうです。
シンガポールは、現在、反日国家ではないと思いますが、家族を日本軍に殺された人たちもいるわけで、そのへんは、日本人1人1人が知っておくべきでしょう。
いつも思うのは、イギリス人は、ローカルを懐柔するのが上手ですね。
香港の問題にしても、普通は、アヘン戦争でイギリスが奪ったところですから、中国に返還されたら喜ぶはずですが、香港の人たちにとっては、イギリスとの間にある利害が、中国とのそれよりも大きいんでしょうね。
イギリスだけでなく、アメリカも背後にいるのではないかと妄想しています。
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