2019年8月16日金曜日

夏の甲子園と牟田口廉也中将

夏の甲子園も、22日の決勝を目指して、戦いが続いています。

一年中で一番暑い時期、地方大会から甲子園を目指して必死で戦っているわけですが、いろいろなドラマも過去にはありました。

最近よくいわれるのが、投手の連投や投球数で、将来を考えたら、制限した方がいいという考え方もあれば、チームプレイだから、今まで通り、みんなと一緒に最後まで戦うべきだといった考え方もあります。

大リーグに行った日本の大投手も、肘や肩を壊して、苦労するわけですが、そのような故障の原因が、高校野球や日本のプロ野球での投げすぎだという人もいます。

確かにアメリカなどでは、高校時代やその前から投球制限があるそうで、日本とは違います。

古来日本には、武田信玄の名言「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき」とか、上杉鷹山の「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」など、最初から諦めていては、何も出来るわけがないといった考えがあります。

こういった根性論が、日本人のDNAには染みこんでいて、いろいろなところに顔を出すようです。

戦争の時など、こうした考えで、無謀な作戦を戦わされた兵隊さんたちがいたわけです。

マレー作戦やインパール作戦において部隊を指揮した牟田口廉也中将って人がいたわけですが、wikiを見ると、なかなかすごいです。

インパール作戦失敗後の7月10日、司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部将校たちを集め、泣きながら次のように訓示した。

「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。

皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。

兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。

日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」。

訓示は1時間以上も続いたため、栄養失調で立っていることが出来ない幹部将校たちは次々と倒れた。

彼の考え方は、出身地である佐賀に伝わる「葉隠」の影響なんだそうです。

有名なのは、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」ですね。三島由紀夫なども影響を受けたそうです。

「葉隠の真意は、自己を中心とした利害に基づく判断からの行動は、結局のところ誤った行動となってしまう。
そのため、本当に最良の行動ができる心境とは、自己を捨てたところ、すなわち自身が死んだ身であるという心境からの判断であり、そのような心境から得られる判断が、自分も含めた全体にとって最良の結果を生むというところにある。」

本来は、敵に勝とうなどと考えず、戦わないのが一番で、戦わないために何をするのかを考えて行動し、もしも万が一戦うときには、出来る限りの準備をし、必ず勝てるように作戦をたて、戦うときには死を恐れず、出来ることを精一杯やれという意味だと思います。

それが、死ぬ気でやれという部分だけが一人歩きしてしまって、武器もない、食糧もない、水も薬もないなか、進軍あるのみ、玉砕あるのみというのは、狂気の沙汰だと思います。

そんなことで勝てるわけもないです。

それと、不思議なのは、戦勝国から戦犯として裁かれた軍人は多いですが、日本人兵の方から裁かれるべき軍人が、戦後も生き延びていたりするのは、何となく、理解しがたいですね。

東京軍事裁判などでも、司法取引的な秘密はあったのではないかと想像します。助けてやるから軍事資料を出せとか、助けてやるから連合国に協力せよとかね。

世の中、いろいろと裏もあるんですよね。

阿波丸事件は、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)4月1日にシンガポールから日本へ向けて航行中であった貨客船阿波丸が、アメリカ海軍の潜水艦クイーンフィッシュの雷撃により撃沈され、2000人以上の乗船者のほとんどが死亡した事件である。阿波丸は日米間の協定で安全航行を保障されていたはずであった。

日本政府は撃沈直後から戦時国際法違反として抗議した。

アメリカ政府もこれを受け入れ責任を認めた上で、賠償問題については戦時であり直ちに交渉することは困難であるとし、終戦後に改めて交渉を行なうことを提案した。

戦後になり日本側から阿波丸の代船を提供することや6150万ドルの賠償金を求める等の賠償請求が出され、アメリカ政府も当初はそれに応じる方針だったが、当時のGHQ司令官ダグラス・マッカーサーが賠償を強く拒否したため交渉は暗礁に乗り上げた。

アメリカが日本に対して行っていた有償食料援助の借款額を18億ドルから4億9千万ドルへ棒引きする代わりに、日本へ阿波丸の賠償請求権を放棄するよう求めた。

アメリカ側の破格な提案に当時の日本政府もこれを了承し、1949年に日本の国会は、阿波丸への賠償請求権を放棄し日本政府がアメリカに代わって賠償を行う旨を決定した。