小学生低学年だった頃、父が枕元で聞いていたNHKラジオで、よく覚えているのが、天気予報の「南大東島」とか「気圧」とか「ミリバール」とかでしたし、「李承晩ライン」とか「拿捕」といった言葉も覚えています。
日本の漁船が、拿捕されて韓国に連れて行かれたニュースを毎日のようにやっていました。
詳しいことを理解するにはまだ幼かったわけですが、でも幼い頃に覚えた言葉は、忘れませんね。
「李承晩ライン」というのは、戦後の日本と韓国との海上境界線のことで、第二次世界大戦後、1945年9月27日にアメリカが日本漁業の操業区域として設定した「マッカーサー・ライン」がサンフランシスコ平和条約が1952年に発効されることによって無効化されることを見越した韓国が、マッカーサー・ラインに代わるものとして設定したものだそうです。
李承晩政府はこの1952年(昭和27年)1月18日に国際協調を無視して勝手に設定した境界線の主目的は、日韓両国間の平和維持にあると発表し、韓国では皮肉にも「平和線」と宣言された。
アメリカは、韓国政府に対し、李承晩ラインを認めることができないと通告したが、韓国政府はこれを無視した。
この李承晩ラインで、竹島が韓国領とされているわけですが、日本も米国も認めていません。
李承晩ラインを越えて操業している日本漁船は、従来は公海とされている領域であっても拿捕され、長期間に渡って抑留されたり韓国官憲による暴行や銃撃によって判っているだけでも44人の死傷者を出しているそうです。
日韓基本条約が結ばれるまでの13年の間で、韓国側が拿捕した日本の漁船は328隻、漁師3929人が韓国側に拘束されるという悲劇が起きています。
見方によっては、完全に韓国による日本人拉致事件です。
目的は、別に漁獲量の問題ではなく、日本人を捕虜にとって、韓国のコメを買えとか、日本で犯罪を犯して刑務所にいる韓国人を釈放して特別在留許可をだせとか、メチャクチャな要求だったわけです。
李承晩という韓国の初代大統領は、日韓併合時の頃から、大韓民国臨時政府を作って活動していましたし、韓国人として初めてアメリカの大学で博士号をとった人でもあります。
キリスト教徒で、共産主義者が嫌いなようです。もちろん、日本も大嫌いだったようです。
彼の輝かしい経歴の一部
1948年4月3日 - 済州島四・三事件反乱鎮圧。島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた。
1949年12月24日 - 聞慶虐殺事件。
1950年6月25日 - 朝鮮戦争勃発。
1950年 6月 - 国民保導連盟の加盟者や収監中の政治犯など、少なくとも20万人あまりを大量虐殺(保導連盟事件)。
1951年 1月 - 前線で戦闘中の将兵の物資を転売し着服(国民防衛軍事件)。
1952年1月18日 - 海洋主権宣言。「平和線」、いわゆる李承晩ラインを設定する。
1952年5月26日 - 戒厳令を施行し、反対派議員を監禁・憲法改正を強行(釜山政治波動)。
1953年7月27日 - 朝鮮戦争休戦。
1956年5月15日 - 大統領に3選。副大統領には野党の張勉が当選。
1958年 - 進歩党党首の曺奉岩をスパイ容疑で逮捕。1959年7月に処刑。
1959年 - 新潟日赤センター爆破未遂事件。
1960年 - 3月15日 大統領選挙。不正選挙が問題となり野党や国民の批判が公然化。
1960年4月19日 - 不正選挙を糾弾するデモ隊と警官隊が衝突。死者186人。4月26日に下野を表明し、5月29日にハワイへ亡命(四月革命)。
「済州島四・三事件」は、1948年4月3日に朝鮮の南北分断を固定するとの理由から南朝鮮単独での総選挙実施に反対する過程でこの事件が勃発。
この事件によって日本に密航し逃れたことで、現在の在日韓国・朝鮮人となった者が多い。
李承晩時代には、多くの共産主義者たちが、虐殺されたり刑務所につながれたので、日本への密航者が増えたし、日本での共産主義者たちとの共闘がはじまったようです。
韓国も米国も、朝鮮半島全体が赤化することを恐れ、共産主義者たちが日本国内にとどまることを望み、日本に協定永住をだすように圧力をかけたようです。
協定永住権は廃止されて、現在は、特別永住者資格となっているようです。
あくまでも素人の個人的な理解ですけどね。