2021年の1世帯あたりの餃子購入額で、宮崎市が、絶対王者といわれてきた宇都宮市と最近追い上げてきている浜松市の2つの餃子王国を上回って初めて日本一になったんだそうです。
全国の県庁所在地と政令指定都市の1世帯(2人以上)あたり購入額は、宮崎市が4184円、浜松市が3728円、宇都宮市が3129円で続いたそうです。
要するに努力すれば日本一になれることを証明したわけです。
餃子は、中華料理の一つといわれ、世界中に類似する料理がありますが、日本に入ってきたのは、戦後、満州から引き揚げてきた人たちが、満州時代によく食べていた餃子の味が恋しくて作るようになったといわれています。
日本の主流は焼き餃子ですが、蒸し餃子や水餃子もありますよね。
皮で包むアンにいろいろな種類がありますが、原則は白菜やキャベツやニラに豚肉とか鶏肉のミンチ、そしてニンニクやショウガなどを加えているところが多いです。
タレは、酢醤油や味噌などで、唐辛子やラー油を入れることも多いです。
むかしは冷凍食品などなかったので、有名な餃子店に行くか、自家製の餃子を食べていました。
親子で餃子を作るのは楽しかったです。
いつのころからか冷凍餃子や生餃子をスーパーなどで売るようになりましたが、手軽に安く冷凍餃子を食べられるようになったのは、やはり全自動餃子製造機のおかげでしょうね。
自動寿司製造機(すしロボット)もすごいと思います。
ネットで検索をすると、自動餃子製造機では、東亜工業とかトーセー工業が有名のようです。
話変わって、小学校の頃のお話です。
むかしの教師には面白い人が多くて、私が通った小学校の教頭先生の話は、とても面白かったです。
例えば、戦後、教科書がすべて黒く塗られた話とか、商売で儲けるには、味の素の穴を少しだけ大きくすることだとか、モノは頑丈過ぎてはいけないとか、とにかく今でも忘れません。
味の素の中蓋の穴を少しだけ大きくすれば、一回振るときに出る量が多くなり、早く減るから、よく売れるというわけです。
モノが丈夫過ぎてなかなか壊れないと、買い替える必要がないからモノが売れないということでした。
その時の例に出したのが、幻の名車「ライラック号」の話でした。
戦後の一時期、自家製のバイクを売る会社が乱立した時代があったそうで、いろいろと工夫をして少しでもいいバイクを作ろうと競争していたそうです。
徐々に淘汰されていって、最終的にはホンダとヤマハとスズキとカワサキが残ったわけですが、その先生いわく、そんな会社のバイクよりも、優れていたのが「ライラック号」だといっていました。
ほかの会社のバイクはよく故障したが、「ライラック号」は丈夫で長持ちしたから、新しいバイクが売れず倒産したと。
当時のバイクは、自転車にガソリンエンジンを付けた初期のモノから、基本、チェーンでの伝導でしたが、「ライラック号」はシャフトを使い、チェーンが切れるなどのトラブルがありませんでした。
実際には、会社の経営は、地術力だけではないわけで、生き残った会社には生き残れた理由もあり、生き残れなかった会社には、生き残れなかった理由もあるわけでしょうね。
そんな丸正自動車製造会社には優れた地術者がいたわけですが、そんな技術者の一人が、溝渕定さんだそうです。
彼は、バイクの設計以外にも自動餃子製造機なども作ってきた天才で、80歳を過ぎてなお老人介護の分野でも新しい製品開発に取り組んでいらっしゃるそうです。
彼の株式会社テクノ・マイスがNHKの取材を受けた時の映像だそうです。
戦後日本のモノづくりの原点は、とにかく何でも面白いと思ったことをやってみる行動力だったのでしょうね。
最初は、ドイツのBMWの真似だとしても、とにかく解体して、自分で作って盛るということが、現在の日本を支えてきていると思います。
カメラなどもドイツの真似から始まっていますよね。分解は楽しい。