私が初めてタイに来たのは、1976年の1月、コペンハーゲンからの南回りのロイヤルヨルダン航空でのトランジットでした。
ドンムアン国際空港は、本当に小さくて、イミグレーションのカウンターが3つだったと記憶しています。
荷物は、巨大などんぶりを逆さにした底の部分から出てきた荷物が、ステンレスの斜面を滑降して、ヘリの部分に止まって、回転する仕組みでした。
トランジットですから、ホテルも送迎も食事も無料で、係の人の指示に従ってフォルクスワーゲンのワゴン車に乗せられて、スクンビット通りにあったチャバリットホテルに一泊しました。
チャバリットホテルは、聞いた話ではベトナム戦争当時、アメリカ軍の宿泊施設だったとか。
とにかく真冬の北欧からでしたから、めちゃくちゃ暑かった印象でした。
疲れていたし、当時は、早く日本に帰りたいだけで興味もなかったので、コーヒーショップでの食事以外は、部屋でゴロゴロとしていました。
その時には、まさか、またタイに来るとは思ってもいませんでした。
次にタイに来たのは、1977年の9月でした。その時でも、こんなに長く暮らすようになるとは、想像だにしていませんでした。
当時は、普通の日本人のタイに関する知識は、ほぼ皆無といっていいくらいで、ベトナムとかシンガポールは知っていてもタイを知らない人が多かったので、日本に帰国してタイで暮らしているといえば、タイはどこにあるのかとか、タイではどんな言葉を話しているのかとか、タイの料理はどんな感じとか、質問攻めにあいました。
でも、当時でもタイには日本人が2000人以上暮らしていましたし、日系の会社もすでに数百社活躍していました。
日本とタイとの友好の歴史は山田長政でも有名なように長く、日本への留学生や研修生も多かったので、日本人女性と国際結婚をするタイ人も多かったです。
当時は、ドンムアン空港から市内に入るスーパーハイウエイの両側には、運河というか、池というか、水たまりがずっと続いていて、そこで魚を捕まえている半裸の人がいつも数人いました。
市内に入る手前のディンデーン地区には、大きなごみ集積場があって、ごみを分別している人たちもいました。
当時は、高速道路もなく、ディンデーンからパトゥーナームを通って、シーロムまで行くのにものすごい交通渋滞で、びっくりしました。
当時は、夜間外出禁止令が出ていて、ディンデーンのあたりには検問所がありました。
ベトナム戦争は終わっていましたが、カンボジアとかラオスはまだ混乱していましたし、タイでは、1976年の10月に大きな反政府運動が起きて、治安は、そんなに良くなかった時代でした。
交差点のところには小さな交番のような建物があって、当時の交通整理のおまわりさんは、白いアフリカ探検隊のようなヘルメットをかぶっていたのがかわいかったです。
当時は、主な交差点は信号機よりもお巡りさんによる交通整理で、ひどい時には、10分くらい動きませんでした。
タイは、あとになって、有吉君などでも有名になったように、バックパッカーたちがヨーロッパへの行き返りによく滞在していたところで、いくつかの小説などにも描かれたところです。
当時のバンコク中央駅から、中華街にかけての安宿が舞台でした。カオサーンが有名になる前の時代でした。