タイと日本との友好の歴史は400年といわれるほど長いので、戦前から大手企業の駐在員はタイで活躍していました。
敗戦で、いろいろな変化はあったものの、すぐにタイの日系現地法人も復活して、タイの経済成長のお手伝いをしてきています。
戦争当時は、日中戦争の影響もあり、中国系タイ人の間には抗日運動もあり、日本企業は、中国系との仕事からインド系のタイ人との仕事にシフトを入れ替えたそうです。
戦前からタイにいた日本人の中には、敗戦後も日本に帰ることなくタイで商売を始めた人たちもいます。
バンコクの日本人社会は、中央郵便局から、バンコク中央駅への一帯に集まっていて、道路でいえばニューロードからシープラヤ通りにかけてだったようです。
その後、戦後の商社や銀行などがシーロム通りやスリウォン通りに事務所を構え、徐々に北へと広がっていったようです。
1960年代から70年代にかけてのバンコクには、すでに数多くの企業が進出していました。
手元にある1976年の資料によると、商事・貿易が76社、現地製造が103社、製造会社駐在員事務所が31社、土木・建設・施工が10社、航空・運輸が6社、金融・保険・証券が22社、広告・印刷・書籍が9社、旅行が7社、ホテル・レストラン・サービスが10社、検査・不動産・百貨店が7社、政府関係機関8、団体2となっていて、かなりの数です。
1977年の日本人会の会員数は、2,371名になっています。国際結婚などの準会員が98名となっています。
このころから、企業も個人も、うなぎ上りに増えていくわけですが、当時から、永住組と駐在員組との間には、マウントの取り合いなどもすでにあったそうです。
当時の駐在員といえば、大手企業の駐在員がほとんどでしたから、住居も乗っている運転手付きの車もお手伝いさんから、日本では考えられない贅沢なわけで、当時は限られた人しか利用できなかった高級日本レストランとか高級クラブなどでの接待などもまわりからはうらやましがられたわけです。
永住組の自営業者とか国際結婚組からすれば、そんなお殿様のような待遇も、任期が切れるまでで、日本に帰れば、満員電車と狭いアパート暮らしではないかとか陰口を言う人もいたそうです。
それは事実でもあるわけで、中には、日本に帰るのを断って、独立して自営の道を選ぶ人も出始めたようです。
中には、タイ人との恋愛で、国際結婚をした駐在員もいたし、日本で知り合ったタイ人と結婚をしてタイで暮らし始める人、タイの大学に留学する人たちも増えていきました。
60年代から、日本を飛び出す若者たちもいて、世界を放浪してタイに沈没する人たちもいて、彼らが、バンコク中央駅から中華街、そしてカオサン通りなどにある安宿に泊まって、そんな毎日を小説に書く人も現れた時代です。
当時は、ベトナム戦争が終結したり、カンボジアの混乱が終わったりで、難民関係の仕事をする日本人もいましたし、タイで、仏門に入る人もいました。
アランヤプラテートにあったカオイダン難民キャンプ