2017年11月4日土曜日

ゲーテ・インスティトゥート(Goethe-Institut)

デンマーク滞在中に、ドイツ語の勉強がしたくなって、いろいろと調べて、ゲーテ・インスティトゥートというドイツ語の学校があることがわかり、そこに行こうと思いました。

ドイツをヒッチハイクしたときに、アウトバーンで車から降ろされ、どうしたらいいのかわからず、歩いていたら、上空に警察のヘリコプターが現れて、早くアウトバーンから下りろといわれているような気がして、下に降りられるところを探して、そこから近くの町を目指してトボトボと歩きました。

歩いても歩いても、町があらわれず、重いリュックを背負っているので、もう疲れ切って参りましたが、まわりが暗くなり始めた頃、やっと民家が見えてきて、道路脇に座り込んでいたら、通りかかったおばあさんが、こちらに来なさいと呼んでくれて、おばあさんの家に招待されました。

おばあさんに紅茶とクッキーをご馳走になり、おばあさんの亡くなった旦那さんの写真などを見せてもらい、疲れも吹っ飛んだことがありました。

それ以来、ドイツが大好きになっていました。コペンハーゲンで知り合ったドイツ人たちも、みんなフレンドリーで、そうしたことがあったので、ドイツ語を勉強しようと思ったのかもしれません。

詳しいことは忘れてしまいましたが、ミューヘンにある学校本部に手紙を書いて、入学のための手続きを調べて、学費を前払いして、入学の書類が届いてから、ドイツに向かいました。

ドイツ語の勉強をしようと思って、日本からドイツ語入門の本を送ってもらって、独学しました。


1966年初版でわたしの手元にあるのは1974年改訂32版です。






それまでドイツ語の勉強はしたことがなかったのですが、実にわかりやすい本で、入学までの短期間で、本の半分近くまで勉強できました。

わたしが、通うことになった学校は、リューネブルグという、ドイツ北部にある古い町にある学校でした。ハンブルグの近くでした。中世に岩塩で栄えた町だそうです。

学校では、簡単なクラス分けの試験があって、わたしのにわか勉強でも中級に編入されました。

ロンドンの英語学校よりは、一クラスの人数も多く、当時のソ連とか当時のチェコスロバキアとかイランやポルトガルとかアフリカとか、いろいろな国の生徒がいました。

学校で下宿も紹介してくれ、食事も3食付きでの費用でした。

1970年代でも、その学校に、日本人はわたしを含めて6人いました。大学生2名と大学の教授1名、謎の男性1名とやはり謎の女性1名でした。一番あやしかったのは、わたしだったかも。


学生証。








下宿は、ドイツ人のおばあさんが1人で暮らしている家でした。学校までは、市バスで通ったような記憶があります。

朝食は、コーヒーと黒パンにジャム程度だったですし、夜は、毎日のようにソーセージ入りの豆スープとパン。お昼だけが、洋食らしい洋食で、金曜日は、肉を食べない日で、お魚でした。

シャワーは,夕方学校で浴びたような記憶があります。

私のクラスの先生は、40代のハンス先生で、いつもワインを飲みながらの授業で、ワインはアルコールではないというのが口癖でした。

年が近かったこともあったので、大学生の山◯くんと矢◯くんとはすぐに仲良しになりました。

ドイツ語は、スペルの通りの発音がほとんどですから、文字を見て発音するのは簡単でしたが、やはり、最初は、先生の言っているドイツ語が全く聞き取れず、苦労をしました。

英語も、やはり最初は聞き取りに苦労しましたが、ドイツ語の方が耳が慣れるのが早かったように思います。

外国語は、だいたいの基本がわかれば、あとは語彙数を増やしていくことと、実際に耳で聞いて、自分で話してみることだと思います。

だから、ゲーテ・インスティトゥートのあとは、デンマークで知り合ったドイツ人の所に居候をさせてもらって、ドイツ語会話の実践をしようと思って、ブレーメンに向かいました。