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2025年3月29日土曜日

タイの地震被害状況

タイの防災緩和局(DDPM)によれば

昨日の地震後の14の州での被害を報告しています。

9人の死者、9人の負傷者、101人の行方不明者がいます。緊急災害救援ゾーンは、パトゥムターニー、プレー、およびバンコク全体で宣言されています。 バンコク以外では追加の犠牲者は報告されていません。 14の州で報告された被害は次のとおりです。 -チェンマイ:病院の駐車場構造、コンドミニアム、寺院など、建物への構造的損傷。一部の家も影響を受けました。 -チェンライ:病院の建物に小さな亀裂があり、寺院の屋根が損傷しています。建設中の鉄道駅のコンクリートビームが6台の車両に崩壊しましたが、負傷者は報告されていません。 -ランプーン:倒壊した門、ひびの入った病院の壁など、いくつかの家や寺院が被害を受けました。破損した時計塔。倉庫と水システムも影響を受けました。 -ランパーン:病院や大学の建物の亀裂など、家、寺院、公共の建物が被害を受けました。一部の農業貯蔵施設も影響を受けた。 -メーホンソン:新しい市庁舎、病院、観光休憩所が被害を受けました。けがは報告されていません。 -プレー:住宅用駐車場への部分的な損傷。 -ペッチャブーン:農業施設の損傷。 -スコータイ:タバコ貯蔵庫が損傷した。 -バンコク:チャトゥチャク地区で建設中の30階建ての建物が倒壊し、8人が死亡、9人が負傷、101人が行方不明となった。バンスー地区では、建設用クレーンが倒壊し、1人が死亡しました。 -アユタヤ:水タンクが崩壊したが、負傷者は報告されなかった。 -ノンタブリ:病院での天井崩壊は1人を負傷させた。ショッピングモールは亀裂と小さな構造的損傷を報告しましたが、怪我はありませんでした。 -Samut Prakan:寺院の正面のバルコニーに小さな亀裂が生じました。 -Samut Sakhon:病院の建物が亀裂を持続させました。 -Chai Nat:火葬場が損傷しました。


2024年1月3日水曜日

2024年は大地震と飛行機事故ではじまった

 日本は世界でも有数の地震国ですが、よりによって元日に地震とは、ちょっと考えさせられてしまいます。

きっと神様がお怒りになっているのかもとか思う人も少なくないかもね。

悪いことが続いたときには、身を清めてお祓いですね。

さて、地震にもいろいろな原因があって、活断層とかプレートの歪みとかが有名ですよね。

日本は、大きな4つのプレートがぶつかり合っているところにあるから、火山活動も活発で地震も多いといわれています。

私は、地球の誕生とか人類の誕生には昔から興味があるので、素人で、間違いもあるだろうし、細かな知識まではないですが、過去にも、いろいろと書いています。

プレートテクトニクスの話 その1


プレートテクトニクスの話 その2

ネットでプレートを検索すれば、日本のまわりにある4つのプレートの説明が出てきます。

北米プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレートです。

2011年の地震に関するコラムですが、地図がわかりやすいです過多引用させていただきます。

日本周辺のプレートの画像 (ameblo.jp)

日本列島の誕生は、およそ1億3000万年前から始まったといわれています。

ユーラシア大陸の東の端っこにあった部分が、地殻変動で大陸から切り離されて海に出たという説です。


日本の中央部を東から西に1000キロほどの中央構造線という断層がありますが、九州中部から四国、紀伊半島から静岡県に達する部分は、ユーラシア大陸の端っこではなく、実は、赤道付近にあった南の島々の一群だったといわれています。

その島々が乗ったプレートが、イザナギプレートといわれていて、そのプレートが北上して北米プレートの下に潜り込む時に、日本列島の上部とぶつかって、およそ7000万年前に今の日本列島になったといわれています。

そして、これも有名な話ですが、糸魚川-静岡構造線の東北側は、ユーラシア大陸から離れるときに、反時計回りに移動し、糸魚川-静岡構造線の西南側は、時計回りに移動したので、折れ曲がったところが、海底に沈没して、フォッサマグナという、約1500万年前に深い溝ができたわけです。

フォッサマグナの西端は北米プレートとユーラシアプレートのぶつかっている糸魚川-静岡構造線で今回の地震との関係がありそうです。

静岡県の伊豆半島側では、フィリピン海プレートと太平洋プレートもぶつかっています。

こちらの動画も興味深いですね。

こちらは、不自然な話し方が気になるけど、内容は面白いです。

ある程度は確定してきているものの、まだまだ新しい説が出てくるかもしれません。

被害がこれ以上増えないで、一日も早い復興がなされますようにと祈ります。

2020年1月19日日曜日

ブラタモリ 浜名湖

ブラタモリで浜名湖のウナギをやっていました。

浜名湖といえばウナギの養殖、ウナギといえば、春華堂の夜の銘菓「うなぎパイ」です。

番組でも取り上げていましたが、浜名湖はもともと淡水湖だったものが、1498年の大地震と高潮により、砂州が決壊し外海と通じ、汽水湖となったことで、外洋からウナギの稚魚が浜名湖に入ってくるようになって、そこからウナギの養殖がはじまったとのことです。

シラスウナギは、浜名湖だけでなく、天竜川の河口などでも、簡単にとれました。今は、規則もかなり厳しくなっているっようです。

ウナギに限らず、いろいろな種類の魚がいるし、牡蠣や海苔の養殖も盛んです。

子供の頃の一番の楽しみは、父に連れられていく浜名湖での魚釣りでした。釣りに関しては、祖父の代からみんな本当に好きで、川でも海でも、毎週末のように、どこでも出かけていました。

浜名湖では、和船を借りて、父は艪を上手に扱って、牡蠣畑の近くに船を止めて、そこで小物を釣るわけですが、カワハギとかコチとかカレーとかよく釣れました。

夏は貝拾いなんかもしました。

舞阪港で漁師さんに邪魔だ邪魔だと追い払われながら、小さなサバとかアジを釣ったり、浜名湖と遠州灘がつながる今切で、石鯛を狙ったりもしました。




ですから、番組を懐かしく見ました。

特に興味深かったのが、明応7年(1498年)に起きた明応地震やそれに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分(砂提)が決壊し現在のような汽水湖となった歴史でした。

諸説あって、もっと古い時代の地震や津波にも関係があるような説もあるそうです。

とりあえず、番組の中でタモリさんが説明していた明応地震ですが、1498年9月11日8時頃)、東海道沖で大地震が発生したとの記録があります。

紀伊半島から房総まで、いろいろなところで津波による被害が出たそうですが、浜名湖あたりでは、6~8メートルくらい水位が上がった記録があるそうです。

以前から南海トラフを震源とする大地震がそろそろ来そうだと言われていますが、ちょっと調べてみただけでも、けっこう大地震は来ているわけです。

1605年2月3日に起きた慶長地震。浜名湖では、水位が約4~6メートル上がった記録があるそうです。

1707年10月28日に起きた宝永の大地震。浜名湖では水位が6~7メートルほど上がった記録があるそうです。

*浜名湖周辺は沈降し北岸の気賀では2尺余(約60cm)沈降、高2654石の水田の内、1700石余の地が浸水し湖の一部となり、49年後の宝暦6年(1756年)に作成された気賀伊目村の村明細帳から村高の約80%が田方海成荒地と記され、依然として沈降した土地が元に戻らず高潮の被害を受けていたことが確認されている。  *wikiによる

1854年12月23日には、安政東海地震が起きています。

*浜名湖入口の舞坂では今切の渡船場で「浪高さ三丈(9m)ばかり相見え」の津波に襲われ、舞坂宿では流失8軒、全壊58軒、破損214軒の被害となりながら死者は無かった。

宝永津波の教訓の伝承が生かされたものと思われる。

新居では、浜の方では二丈六尺余(8m)、御関所にては一丈余(3m)の津波が襲来し、人家が流れ関所が倒壊した。

以降潮が高くなり渡船も危険となったため、翌年に参勤交代など旅路は迂回路である木曽路あるいは本坂通が利用された。これは宝永地震後も同様であった。  *wikiによる

1944年12月7日午後1時36分には、昭和東南海地震が起きています。浜松市では、震度5を記録しています。

*地震による家屋の倒壊、地震直後に発生した津波により、三重県、愛知県、静岡県を中心に、推定1223名の死者・行方不明者を出したとされているが、死者数は重複があり、918名とする説もある。

これは、太平洋戦争中でもあり、戸籍などの謄本が津波により消失しているため現在でも正確な実数は把握できない。行政機能が麻痺したため、死亡届を出さずに、現在に至っている例も散在する。
  *wikiによる

いつ来るか、誰にもわからない東海沖地震ですが、過去の教訓を生かすべく、できる準備を自治体にはお願いしたいところですよね。


2019年1月18日金曜日

ドキュメンタリードラマ「BRIDGE」

1995年1月17日午前5時46分、6000人を超える犠牲者を出した阪神・淡路大震災をテーマにした関西テレビ60周年特別ドキュメンタリードラマ「BRIDGE」が放送されました。

あれから24年だそうです。タイのテレビニュースの映像を見て、驚きました。戦争を経験していない世代にとっては、日本で、あれほどの悲惨な状況を見たのは、初めてだったのではないかと思います。

脚本家の一色さんは、震災で壊滅的な被害にあったJR六甲道駅を当初2年かかると言われていた工事を、わずか74日間で復旧させた男たちを事実を基に描いたドラマにしてくれました。

実際に被災されたり、つらい思いをされた人たちにとっては、思い出したくない映像もあったのではないかと思います。

2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による災害と福島第一原子力発電所事故による災害が、戦後最大の災害だったと思いますが、タイのテレビで映像を見て、言葉を失いました。

自然災害は、世界中で、毎日のように起きているわけですが、自分が、被災者になるかならないかで、大きな違いがあるように思います。

自分が、直接の被災者でなければ、どこか、第3者的な目で、見ているわけですが、実際に被災し、家族を失ったり、家などの財産を失った人たちであれば、自分のまわりのことしか、考えられない日々が続いたことでしょう。

心に大きな傷を負ってしまった人たちも多かったでしょうし、その後も、その傷が癒えないまま暮らしている人たちもいるはずです。

自然災害以外でも、いろいろな悲惨な事故が起きますが、人災というのもあって、もしかしたら、防げていたかもという場合もあります。

ドラマ「BRIDGE」の中でも描かれていましたが、過去の工事の「質」によって、破壊のされ方も違うし、復旧にかかる時間も変わってきます。

家なんかでもそうですが、見かけだけでなく、しっかり基礎から、丁寧にやっている家は、長持ちします。

手抜き工事などで、犠牲者が増えることもあります。

デザインに凝って、デザイン優先ですと、あとになって、問題が出る可能性もあります。

工業製品でも同じですね。日本人は、いいものをまじめに作るから、世界から評価されてきたわけですが、最近は、信じられないような、手抜きなどが起きてびっくりさせられます。

まじめといえば、ドイツです。ドイツの製品も、信頼できるわけですが、それは、彼らが、くそまじめで、頑固だからだと思います。

世界中で、信頼できる車を作れる国民は、限られています。ほとんどがゲルマン系の民族です。イタリアでもフランスでも、北部にはゲルマン系が多いですよね。イギリスもスウェーデンもゲルマン系です。

もちろん、ラテン民族にも、いいところはいっぱいありますが、個人的に、ラテン民族やアジアの人たちの作る精密機械は信用できないイメージを持っています。

アジアでは、日本だけが例外だったと思いますが、現在もそうなのかは、わからないです。

壊れないモノを作ってしまったら、会社はつぶれるという考え方もありますが、国のインフラや、命にかかわるものは、商売抜きで、壊れないものを目指して欲しいです。

地震や津波などを人間が防ぐことは出来ませんが、その被害を少しでも減らすことは出来ると思います。



2018年12月27日木曜日

遠州三河地方の自然災害に関してのメモ

江戸時代の1686年10月3日(貞享3年8月6日)に遠江と三河の沖合いでマグニチュード6.5〜7の地震が発生し、遠江三河地震と呼ばれた。

1703年 - 浜松町奉行が浜松宿勢を調査する。総戸数1,386戸、人口4,336人。

江戸時代の1707年10月28日(宝永4年10月4日)、東海道沖から南海道沖(北緯33.2度、東経135.9度を震源域として発生した巨大地震は、宝永地震と呼ばれた。

宝永地震のマグニチュードの推定値には8.4から9.3まで

浜松の推定震度は、5-6

この地震により、浜名湖が太平洋とつながる今切は津波によって1里(約3.9 km)もの大口を開け、遠州灘と湖とを隔てる半島は切り離され島となり、半島にあった新居関・新居宿と共に流失し不通となる。


浜松藩では1848年に大規模な一揆が起きており、これは水野忠邦が藩主時代老中になるための運動資金を領民から収奪した上に、借入金を返済せずに浜松から立ち去ろうとした行動に対する不満から発生したものであり、民衆が不安定な生活の中からも幕府や各藩が深刻な財政危機に陥り幕藩体制が綻びていくなか新しい時代を求めていた時代に発生した東海地震であった。

1854年12月23日(嘉永7年11月4日)に東海地震が起き、その約32時間後に安政南海地震が発生した。マグニチュードは8.4と推定されている

浜松の推定震度5-6

遠江気賀 : 高潮で田畑およそ2800石が沈下して汐下となり湖の一部となった。

浜名湖入口の舞坂では今切の渡船場で「浪高さ三丈(9m)ばかり相見え」の記録が残るが、津波に襲われ、津波で人家が流失した舞阪町で死者が無かったのは、1707年に当地で甚大な被害のあった宝永津波の教訓が生かされた。

1855年3月15日には遠江・駿河で液状化が起こる程度の地震があり、続いて1855年11月7日(安政2年9月28日)に遠州灘で地震。これは、東海地震の最大余震(M 7 - 7.5)といわれる。安政江戸地震の4日前のことである。

遠江新居で観測された津波が3メートル、舞阪で観測された津波が、4,9メートル。

1855年11月11日(安政2年10月2日)に安政江戸地震(M 7.0 - 7.1)が起きる。


1858年10月11日-(安政5年9月5日-)- 安政の大獄

1867年11月9日(慶応3年10月14日)- 大政奉還。

江戸末期に、多くの地震や災害が日本を襲い、日本は、開国へと進んだ。

1889年4月1日 - 町制施行。敷知郡浜松町が成立した(当時の人口13,630人

1911年7月1日 - 市制施行により浜松市となる(当時の人口36,782人)

1944年(昭和19年)12月7日に、紀伊半島南東沖を震源として発生した東南海地震 M7.9 が発生。

1945年 - 6月の浜松空襲や、その前後の艦砲射撃により、市街地の大半を焼失する。

1945年(昭和20年)10月5日に天竜川が決壊。

1948年 - 浜松事件が勃発。小野組と在日朝鮮人の戦闘で、死者数人・負傷者300人を出した。

この件は、もう少し詳しく調べてから、改めて書くつもり。

健康が一番、二番は平和ですね。自然災害は、来ないでくれと祈るだけです。

「生きてさえいれば、なんとかなる」と、「まんぷく」にでていた三田村さんが、死ぬ間際に福ちゃんに残してくれた言葉です。