ブラタモリで浜名湖のウナギをやっていました。
浜名湖といえばウナギの養殖、ウナギといえば、春華堂の夜の銘菓「うなぎパイ」です。
番組でも取り上げていましたが、浜名湖はもともと淡水湖だったものが、1498年の大地震と高潮により、砂州が決壊し外海と通じ、汽水湖となったことで、外洋からウナギの稚魚が浜名湖に入ってくるようになって、そこからウナギの養殖がはじまったとのことです。
シラスウナギは、浜名湖だけでなく、天竜川の河口などでも、簡単にとれました。今は、規則もかなり厳しくなっているっようです。
ウナギに限らず、いろいろな種類の魚がいるし、牡蠣や海苔の養殖も盛んです。
子供の頃の一番の楽しみは、父に連れられていく浜名湖での魚釣りでした。釣りに関しては、祖父の代からみんな本当に好きで、川でも海でも、毎週末のように、どこでも出かけていました。
浜名湖では、和船を借りて、父は艪を上手に扱って、牡蠣畑の近くに船を止めて、そこで小物を釣るわけですが、カワハギとかコチとかカレーとかよく釣れました。
夏は貝拾いなんかもしました。
舞阪港で漁師さんに邪魔だ邪魔だと追い払われながら、小さなサバとかアジを釣ったり、浜名湖と遠州灘がつながる今切で、石鯛を狙ったりもしました。
ですから、番組を懐かしく見ました。
特に興味深かったのが、明応7年(1498年)に起きた明応地震やそれに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分(砂提)が決壊し現在のような汽水湖となった歴史でした。
諸説あって、もっと古い時代の地震や津波にも関係があるような説もあるそうです。
とりあえず、番組の中でタモリさんが説明していた明応地震ですが、1498年9月11日8時頃)、東海道沖で大地震が発生したとの記録があります。
紀伊半島から房総まで、いろいろなところで津波による被害が出たそうですが、浜名湖あたりでは、6~8メートルくらい水位が上がった記録があるそうです。
以前から南海トラフを震源とする大地震がそろそろ来そうだと言われていますが、ちょっと調べてみただけでも、けっこう大地震は来ているわけです。
1605年2月3日に起きた慶長地震。浜名湖では、水位が約4~6メートル上がった記録があるそうです。
1707年10月28日に起きた宝永の大地震。浜名湖では水位が6~7メートルほど上がった記録があるそうです。
*浜名湖周辺は沈降し北岸の気賀では2尺余(約60cm)沈降、高2654石の水田の内、1700石余の地が浸水し湖の一部となり、49年後の宝暦6年(1756年)に作成された気賀伊目村の村明細帳から村高の約80%が田方海成荒地と記され、依然として沈降した土地が元に戻らず高潮の被害を受けていたことが確認されている。 *wikiによる
1854年12月23日には、安政東海地震が起きています。
*浜名湖入口の舞坂では今切の渡船場で「浪高さ三丈(9m)ばかり相見え」の津波に襲われ、舞坂宿では流失8軒、全壊58軒、破損214軒の被害となりながら死者は無かった。
宝永津波の教訓の伝承が生かされたものと思われる。
新居では、浜の方では二丈六尺余(8m)、御関所にては一丈余(3m)の津波が襲来し、人家が流れ関所が倒壊した。
以降潮が高くなり渡船も危険となったため、翌年に参勤交代など旅路は迂回路である木曽路あるいは本坂通が利用された。これは宝永地震後も同様であった。 *wikiによる
1944年12月7日午後1時36分には、昭和東南海地震が起きています。浜松市では、震度5を記録しています。
*地震による家屋の倒壊、地震直後に発生した津波により、三重県、愛知県、静岡県を中心に、推定1223名の死者・行方不明者を出したとされているが、死者数は重複があり、918名とする説もある。
これは、太平洋戦争中でもあり、戸籍などの謄本が津波により消失しているため現在でも正確な実数は把握できない。行政機能が麻痺したため、死亡届を出さずに、現在に至っている例も散在する。
*wikiによる
いつ来るか、誰にもわからない東海沖地震ですが、過去の教訓を生かすべく、できる準備を自治体にはお願いしたいところですよね。