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2022年9月22日木曜日

みんなファミリーじゃんの話

エリザベス2世の国葬も無事に終わり、ヨーロッパの王室に関する話も時々耳にする今日この頃です。

アジアですとカンボジア、タイ、ブータン、ブルネイ、マレーシアに王様がいます。マレーシアには、複数の王様がいて、交代で代表が決まります。

日本だけが王様ではなく天皇陛下です。格上です。

中東やアフリカにも王様はいます。

オマーン、サウジアラビア、バーレーン、ヨルダン、カタール、クウェート、UAE。

アフリカにはエスワティニ、モロッコ、レソト。

南太平洋にはトンガ、サモア。

そして、ヨーロッパには、イギリス、オランダ、スウェーデン、スペイン、デンマーク、ノルウェー、ベルギー、ルクセンブルク、モナコ、リヒテンシュタインに国王がいます。

エリザベス2世がお亡くなりになり、現在のところ世界でたった一人の女王が、デンマークのマルグレーテ2世女王です。在位期間も一番だそうです。

彼女の家系を見ればわかるように、ノルウェーとデンマークは同じ家系ですし、デンマークとスウェーデンもいとこ同士。帝政ロシアとかプロイセンとかイギリスとかギリシャとも親戚同士。

イギリスとオランダも親戚関係だし、オランダとベルギーとルクセンブルグも親戚ですね。

大英帝国の繁栄といえばヴィクトリア女王の時代でしょうね。世界中に植民地をもって、やりたい放題、戦争ばかりしていた印象です。

このヴィクトリア女王は、エリザベス2世の高祖母にあたるんですが、その旦那さんは、アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)で、イギリスのウィンザー家(旧名ハノーヴァー・サクス・コバーグ・ゴータ家)はもともとドイツ系で、ヴィクトリア女王が、またドイツ系の人と結婚をすることをイギリス国民はあまり歓迎しなかったようです。

ザクセン=コーブルク=ゴータ家はヴェッティン家(エルンスト系)の分家であり、一族からはブルガリア国王フェルディナント、ポルトガル国王フェルナンド2世、イギリス王配アルバートなどを輩出しています。

この二人の間には、9人の子供がいて、長男の第1王子 アルバート・エドワード サクス=コバーグ=ゴータ朝初代国王で、のちの英国国王エドワード7世で、アルバート・エドワード(後のエドワード7世)とアレクサンドラ王太子妃の第二王男子として生まれたのが、ジョージ5世です。

ジョージ5世は、エドワード8世とエリザベス2世の父ジョージ6世の父親にあたります。

王配アルバートといえば、ビートル巣など有名ミュージシャンが演奏している歴史あるロイヤルアルバートホールがあります。

ヨーロッパの王族は、ハプスブルク家ブルボン家かといわれるくらい、ほとんどがどちらかの系統です。

いいわけですが、あまりにも登場人物も多いし、関係も複雑なので、わかりにくいし、中途半端です。

とにかく、ヨーロッパの王族やアメリカの上流階級などは、どこかでつながっているし、これにユダヤ系のロスチャイルドとかロックフェラーとかがからんでいるから、陰謀論なども生まれてくるのでしょうね。

まだ風邪が完全に治りきっていないので、体調不十分です。

2019年7月25日木曜日

ヌーディスト区画でのぞき見

60年代から70年代にかけては、ロックやヒッピーが世界的に話題になっていたわけで、ロックフェスティバルなどで、ヒッピーの人たちが裸になって泳いだり日光浴をしている写真を雑誌で見ました。

アメリカのPLAYBOYなどには、全裸のヌードも載っていて、スウェーデンといえば、フリーセックスというイメージでした。

ですから、はじめてスウェーデンに行って、公園で素っ裸になって日光浴をしている男女を見たときには、びっくりしました。

若い北欧の美人たちは、スタイルも素晴らしく、感激しました。

ヨーロッパにはもう長い事行っていないから最近のことはわからないのですが、こんなニュースがありました。

フランスの首都パリにある公園「バンセンヌの森」。2017年以来、全裸で日光浴できる区画を8~10月に設けてきたが、一部のナチュリスト(裸体主義者)からのぞき被害を訴える声が出ている。

ヨーロッパで夏を経験した場所は、ドイツとスイスとスウェーデンでしたが、ドイツでも、湖の湖畔では、若者たちが、男も女も全裸で日光浴をしているのを見ましたし、友人たちと夜中に近くの湖に泳ぎに行ったときには、一緒に行った女の子たちも全裸で泳ぎました。

恥じらいもなく堂々としていると、意外といやらしさを感じませんでした。

タイのリゾートでも、たまにプールサイドで胸を出している欧米の女性たちを見たこともありました。

この間、タイのビーチで日本人を含む若い女性たちと男性1人が全裸でいるところを逮捕されたというニュースがありましたが、タイ人は、裸にうるさいです。

まあ、日本でも昔、東京の世田谷あたりのたんぼ道を友人と上半身裸で歩いていて、おまわりさんに注意されたことがありましたけどね。

個人的には、ビーチでのヌードよりも、日本の街中でのミニスカートの方がいやらしいと思います。


2017年10月14日土曜日

フランスからイギリスへ

1973年の10月、パリから列車でイギリスに向かいましたが、フランスのカレーからイギリスのドーバーまでは、車両がフェリーに乗せられていきました。

ドーバーに到着したら、イミグレの職員にパスポートを見せ、ビザのスタンプをもらうのですが、私の場合には、運が悪く、3ヶ月の滞在許可でした。一緒に行った友人は、運良く6ヶ月間の滞在許可をもらったというのに。


こちらが、10月9日付のイギリスへの入国スタンプ





こちらが、滞在許可で3ヶ月と書き込まれました。ちなみに観光ビザです。






とにかく無事にイギリスに入国後、列車は、ロンドンに向かいました。

ロンドンでは、一緒に行った友人の知り合いの下宿にお世話になりました。そこで、お世話になりながら、自分の下宿と英語の学校を探しました。探すといっても、友人の友人とか、とにかく、知り合いのツテでしたけどね。

わたしは、子供の頃から鶏肉が苦手で、今でも、ほとんど食べないのですが、居候をした部屋の人が、ケンタッキーでアルバイトをしていて、夜中に、フライドチキンを部屋に持ち帰って食べるんですよね。

そのいい匂いが、空腹にはたまらず、勧められるまま、空腹に負け、嫌いな鶏肉を食べてしまい、なんか、食欲に負けてしまったことに悲しくなって、涙がでてきました。

とにかく、下宿は、シェパーズ・ブッシュ駅から徒歩10分くらいにあった旦那さんがシンガポール系イギリス人で、奥さんがスペイン系イギリス人の家に決まり、学校もピカデリー近くの所に決まりました。

学校名は、なんとケンブリッジ・スクール・オブ・イングリッシュでした。かっこいいですね。

下宿は、2階にある6畳くらいの部屋で、ガスも電気もコインを入れないと使えない方式で、とても不便でした。料理を作っていると、ガス切れになったり、お風呂に入っていると水風呂になったりして、大変でした。

知らなかったのですが、部屋代も、下層階級が借りるような所は、週いくらというシステムで、わたしの借りた部屋は、週6ポンドでした。

学校は、フルタイムで午前と午後としっかり勉強しました。日本人は、中学でしっかり基礎を学んでいるので、入学の時にクラス分けテストでは、実力以上に好成績で、最初から中級クラスに入りました。

クラスの先生は、美人のヘレン先生でした。美人の先生だと、やる気がでます。

一般の外国人は、文法など苦手だとわかりました。クラスには、フランス人のおばちゃんがいて、ものすごいフランス訛りの英語で、北アイルランド問題を語り、イギリスの悪口をいっていました。

カソリックのフランス人の彼女は、ヘンリー8世の不倫からカソリックをやめ、イギリス国教会を作ったイギリスを軽蔑しているようでした。


これが、地下鉄の定期券。
下宿のあったシェパーズ・ブッシュから学校のあったトッテナム・コート・ロードまで。





英語は小学校の頃から興味があって、中学ではオーストラリアとアメリカにペンフレンドがいたし、ビートルズの歌をラジオで聞いて、歌詞を書き取ることなどもしていました。当時のNHK教育の英会話の番組も見ていました。

そして、アルバイトも知人の紹介ではじめました。誰でもできる皿洗いの仕事でした。

オーストリアレストランで、検索してみたら、今でも営業中でした。







学校が終わってから一度下宿に戻り、夕方から出直しました。仕事が始まる前に、まかないの食事がでるのが嬉しかったです。はじめて食べたグラージュはおいしかったです。

キッチンで働く人たちには、モロッコ人とかドイツ人とかスペイン人とか、多国籍で、キッチンの中で、大喧嘩したり、モロッコ人のアシスタントシェフなど、スペイン人のウエイトレスから、嫌な客が来たなどといわれると、焼いた肉を床に落としてから盛り付けるとか、最低でした。

ドイツ人の青年は、徴兵制から逃げてきたそうで、彼とモロッコ人とがよく喧嘩をしていました。

わたしは、皿洗いで、グラス洗いの方が、ちょっと立場が上で、スペイン人の陽気なパウロくんでした。彼とは、すぐに仲良くなりました。シェフからも、気に入られて、すぐに、アシスタントにならないかと誘われましたが、シェフになる気はなかったので、お断りをしました。

お給料も週給でした。月給はサラリーで、週給は、ウエージだと知りました。

仕事が終わって、後片付けをして帰宅するのは、もう深夜近くでした。地下鉄に乗ると、まわりは身体の大きな黒人たちばかりで、かなり怖かったです。

当時のロンドンでは、IRAといわれる過激派による地下鉄爆破事件が多発していたし、時々、黒人たちがケンタッキーを襲撃してお金を奪う事件も起きていました。

わたしの行った時期が、もう初冬という感じで、雨は多いし肌寒くて、参りました。部屋のヒーターは、小さくて身体の表面しか暖まらないですし、すぐにベッドに入るしかありませんでした。

ヒヤリングのためにと、中古で白黒のテレビを買ったのですが、それが、すぐ、画面が小さくなっちゃうようなひどいモノでした。ベッドで毛布にくるまりながら、白黒テレビを見る生活は、わびしかったです。

クラスには、ドイツ人の美人がいたのですが、わたしは、お湯と洗剤を使った皿洗いで、手が荒れてしまい、授業中でも手袋をしていて、とても恥ずかしかったです。

あっという間に滞在期間も終わりが近付き、ビザの延長を申請しなければならず、そのためには、授業料の前払いも必要になり、お金が足りないので、父にお金を無心をしました。


これが、学校からもらったロンドン市内にあるイミグレーションまでの地図






1月3日に申請に行って、4月30日までの滞在許可をもらいました。






ロンドンで、暇な時間には、中華街にいって、日本食に近いモノを作る食材を買ったり、マダムタッソーの蝋人形館にいったり、ノミの市にいったりはしましたが、観光らしい観光をしなかったことが、今となれば残念です。

ロンドンの西南西にある、ドーセットという田舎に行ったことは、一番楽しかったイギリスの思い出です。

そして、なんか、イギリスが、嫌になってしまい、イギリスをでることにしました。学校も仕事場も楽しかったのですが、それ以外が、楽しくなかったです。

ちょうど長五郎さんがロンドンに遊びに来て、彼と一緒に旅行をして、それから、デンマークに行こうと決めました。なぜデンマークだったのかは、いまだに理由がわかりません。

ロンドンから電車で校外にいって、そこからドーバーまでヒッチハイクをしました。ヒッチハイクの写真があったはずなのに、見付かりません。そして、ドーバーから、フェリーで、ベルギーのオステンドまで行きました。



ドーバーからオステンドまでのフェリーボートの切符

ベルギーの入国スタンプ








ベルギーに入ってからは、首都のブリュッセルに行って、それから、来月サッカー日本代表が、ベルギーと試合をする美しい町ブルージュに行きました。


ブルージュのユースホステルのスタンプ







ブルージュは、わたしの見たヨーロッパの中では、スイスのバーセルと同じように古くて美しい町でした。


2017年9月28日木曜日

この写真はどこ?

1973年から1976年にかけてのヨーロッパ旅行中にフィルムを現像したことは1度しかありませんでした。ほとんどのフィルムは、日本に帰ってから現像に出しました。

その結果、写真を見ても、どこかわからない写真がたくさんあります。旅行したところ、滞在したところは、わかっているので、そのどこかなんですが、正確な場所がわかりません。


スイスからリヒテンシュタインへと旅行したときに撮った写真のような気がします。
 これは、スイスかドイツかオーストリアか
これは、たぶん、北ドイツのリューベックで間違いないと思われます。

 ホルステン門については、また機会をあらためて書くつもりです。
 こちらは、リューベックかリューネブルグ
 こちらは、全くわかりません。

ドイツかベルギーか?
 こちらもどこかわかりません。

フランスかベルギーか?
 これもはっきりわかりませんが、もしかするとドイツのオスナビューリックかミュンスターあたりか?
 これもわかりません。

フランスかベルギーかドイツか?
 こちらは、写真に路上の売店が写っているから、たぶんパリ市内。
 これは凱旋門が写っているからパリ
 こちらもパリの裏通り
 こちらもパリだと思うけど、もしかするとルクセンブルグか?
 どこか、全くわかりません。
こちらは、ドイツのブレーメンかベルリンだと思う。









ヨーロッパで撮った写真の多くが、行方不明で、とても残念です。

フィルムが見付かると、フィルムスキャナーでスキャンして保存するようにしています。