1973年の10月、パリから列車でイギリスに向かいましたが、フランスのカレーからイギリスのドーバーまでは、車両がフェリーに乗せられていきました。
ドーバーに到着したら、イミグレの職員にパスポートを見せ、ビザのスタンプをもらうのですが、私の場合には、運が悪く、3ヶ月の滞在許可でした。一緒に行った友人は、運良く6ヶ月間の滞在許可をもらったというのに。
こちらが、10月9日付のイギリスへの入国スタンプ
こちらが、滞在許可で3ヶ月と書き込まれました。ちなみに観光ビザです。
とにかく無事にイギリスに入国後、列車は、ロンドンに向かいました。
ロンドンでは、一緒に行った友人の知り合いの下宿にお世話になりました。そこで、お世話になりながら、自分の下宿と英語の学校を探しました。探すといっても、友人の友人とか、とにかく、知り合いのツテでしたけどね。
わたしは、子供の頃から鶏肉が苦手で、今でも、ほとんど食べないのですが、居候をした部屋の人が、ケンタッキーでアルバイトをしていて、夜中に、フライドチキンを部屋に持ち帰って食べるんですよね。
そのいい匂いが、空腹にはたまらず、勧められるまま、空腹に負け、嫌いな鶏肉を食べてしまい、なんか、食欲に負けてしまったことに悲しくなって、涙がでてきました。
とにかく、下宿は、シェパーズ・ブッシュ駅から徒歩10分くらいにあった旦那さんがシンガポール系イギリス人で、奥さんがスペイン系イギリス人の家に決まり、学校もピカデリー近くの所に決まりました。
学校名は、なんとケンブリッジ・スクール・オブ・イングリッシュでした。かっこいいですね。
下宿は、2階にある6畳くらいの部屋で、ガスも電気もコインを入れないと使えない方式で、とても不便でした。料理を作っていると、ガス切れになったり、お風呂に入っていると水風呂になったりして、大変でした。
知らなかったのですが、部屋代も、下層階級が借りるような所は、週いくらというシステムで、わたしの借りた部屋は、週6ポンドでした。
学校は、フルタイムで午前と午後としっかり勉強しました。日本人は、中学でしっかり基礎を学んでいるので、入学の時にクラス分けテストでは、実力以上に好成績で、最初から中級クラスに入りました。
クラスの先生は、美人のヘレン先生でした。美人の先生だと、やる気がでます。
一般の外国人は、文法など苦手だとわかりました。クラスには、フランス人のおばちゃんがいて、ものすごいフランス訛りの英語で、北アイルランド問題を語り、イギリスの悪口をいっていました。
カソリックのフランス人の彼女は、ヘンリー8世の不倫からカソリックをやめ、イギリス国教会を作ったイギリスを軽蔑しているようでした。
これが、地下鉄の定期券。
下宿のあったシェパーズ・ブッシュから学校のあったトッテナム・コート・ロードまで。
英語は小学校の頃から興味があって、中学ではオーストラリアとアメリカにペンフレンドがいたし、ビートルズの歌をラジオで聞いて、歌詞を書き取ることなどもしていました。当時のNHK教育の英会話の番組も見ていました。
そして、アルバイトも知人の紹介ではじめました。誰でもできる皿洗いの仕事でした。
オーストリアレストランで、検索してみたら、今でも営業中でした。
学校が終わってから一度下宿に戻り、夕方から出直しました。仕事が始まる前に、まかないの食事がでるのが嬉しかったです。はじめて食べたグラージュはおいしかったです。
キッチンで働く人たちには、モロッコ人とかドイツ人とかスペイン人とか、多国籍で、キッチンの中で、大喧嘩したり、モロッコ人のアシスタントシェフなど、スペイン人のウエイトレスから、嫌な客が来たなどといわれると、焼いた肉を床に落としてから盛り付けるとか、最低でした。
ドイツ人の青年は、徴兵制から逃げてきたそうで、彼とモロッコ人とがよく喧嘩をしていました。
わたしは、皿洗いで、グラス洗いの方が、ちょっと立場が上で、スペイン人の陽気なパウロくんでした。彼とは、すぐに仲良くなりました。シェフからも、気に入られて、すぐに、アシスタントにならないかと誘われましたが、シェフになる気はなかったので、お断りをしました。
お給料も週給でした。月給はサラリーで、週給は、ウエージだと知りました。
仕事が終わって、後片付けをして帰宅するのは、もう深夜近くでした。地下鉄に乗ると、まわりは身体の大きな黒人たちばかりで、かなり怖かったです。
当時のロンドンでは、IRAといわれる過激派による地下鉄爆破事件が多発していたし、時々、黒人たちがケンタッキーを襲撃してお金を奪う事件も起きていました。
わたしの行った時期が、もう初冬という感じで、雨は多いし肌寒くて、参りました。部屋のヒーターは、小さくて身体の表面しか暖まらないですし、すぐにベッドに入るしかありませんでした。
ヒヤリングのためにと、中古で白黒のテレビを買ったのですが、それが、すぐ、画面が小さくなっちゃうようなひどいモノでした。ベッドで毛布にくるまりながら、白黒テレビを見る生活は、わびしかったです。
クラスには、ドイツ人の美人がいたのですが、わたしは、お湯と洗剤を使った皿洗いで、手が荒れてしまい、授業中でも手袋をしていて、とても恥ずかしかったです。
あっという間に滞在期間も終わりが近付き、ビザの延長を申請しなければならず、そのためには、授業料の前払いも必要になり、お金が足りないので、父にお金を無心をしました。
これが、学校からもらったロンドン市内にあるイミグレーションまでの地図
1月3日に申請に行って、4月30日までの滞在許可をもらいました。
ロンドンで、暇な時間には、中華街にいって、日本食に近いモノを作る食材を買ったり、マダムタッソーの蝋人形館にいったり、ノミの市にいったりはしましたが、観光らしい観光をしなかったことが、今となれば残念です。
ロンドンの西南西にある、ドーセットという田舎に行ったことは、一番楽しかったイギリスの思い出です。
そして、なんか、イギリスが、嫌になってしまい、イギリスをでることにしました。学校も仕事場も楽しかったのですが、それ以外が、楽しくなかったです。
ちょうど長五郎さんがロンドンに遊びに来て、彼と一緒に旅行をして、それから、デンマークに行こうと決めました。なぜデンマークだったのかは、いまだに理由がわかりません。
ロンドンから電車で校外にいって、そこからドーバーまでヒッチハイクをしました。ヒッチハイクの写真があったはずなのに、見付かりません。そして、ドーバーから、フェリーで、ベルギーのオステンドまで行きました。
ドーバーからオステンドまでのフェリーボートの切符
ベルギーの入国スタンプ
ベルギーに入ってからは、首都のブリュッセルに行って、それから、来月サッカー日本代表が、ベルギーと試合をする美しい町ブルージュに行きました。
ブルージュのユースホステルのスタンプ
ブルージュは、わたしの見たヨーロッパの中では、スイスのバーセルと同じように古くて美しい町でした。