2017年10月1日日曜日

ビルマの時代

1978年4月にビルマのラングーン(当時はヤンゴンではなくてラングーン)に、はじめて行きました。

ビルマに行くには、ビザが必要で、ビザを申請するのですが、その申請用紙に、家族に戦争時代にビルマにいったことがある人はいますかという質問がありました。

当時は、ミャンマーではなくてビルマ。ラングーンが首都でした。現在の首都はネピドー

当時のビルマは、まだまだ近代化前で、まるで、戦後まもない日本の田舎のようでした。


空港からラングーン市内への道路







持ち込み外貨の制限もあって、空港で強制的に、ビルマのチャットに両替しなければなりませんでした。

ビルマに行ったことのある人のアドバイスで、空港の係官にタバコ1カートンをそっと渡しました。今、そんなことをしたら、逮捕されるかもしれないので、やめた方がいいと思います。

当時のラングーンには、ソ連の援助で建てられたINYA LAKE HOTELとイギリス植民地時代のコロニアル風ホテルSTRAND HOTELとTHAMADAホテルくらいしか外国人が宿泊できるホテルはありませんでした。

わたしが泊まったのは、港近くにあるSTRANDホテルで、古いですが、素敵なホテルでした。

エレベーターは、シカゴギャング時代の映画のように、鉄枠に金網といった、まわりが丸見えでした。金属の扉を手動で閉めるときに、ガッシャンという音がいい雰囲気でした。

部屋では、バスタブが、4本の足つきでしたし、シャワーヘッドが、まさにバケツの底に穴がたくさん開いているような大きなモノで、それも素敵でした。ただ、水は、チョロチョロでした。

夜6時を過ぎると、外は、真っ暗で、なんにもありませんでした。でも、好奇心から、出歩いてみると、所所に裸電球があって、そこで、物売りがいて、タバコのばら売りとか、ブロマイドとか、100円ライターのガス注入商売などもありました。

映画館がありました。

1人で歩いていると、裏通りに入り込み、突然、兵士に銃剣の付いたライフルのようなモノを胸元に突きつけられました。人間、ものすごくびっくりすると、恐怖心は感じず、ただ、立ち尽くすモノですね。

野良犬を追い払うように、シッシッと銃剣でバックするように威嚇されましたが、ただそれだけで、追ってきたりの危険はありませんでした。

たぶん、軍の施設かなんかがあったんだと思います。

あと、思い出に残っているのは、街の中華料理を出す店で食事をしたんですが、箸が、真っ黒で、ティッシュで拭いてから食べました。

あと、飲み水は、表にある水瓶の蓋を取って、金属のお椀で、甕の縁をこんこんと叩き、ボウフラが驚いて沈んだチャンスに水を汲んでいました。ボウフラがいるほどきれいなんだとか。

あと、市内には、大きな市場もあって、闇両替なんか誘われましたが、ばれると、刑務所だといわれていたのでやめました。

当時、翡翠とか買っておく知恵があったら儲かったかも。

帰りに、両替したチャットはいくら使っていくら残っているかとか、外貨の残高も調べられました。

ラングーンの街は、イギリスが作った港町なので、シンガポールやペナンに雰囲気が似ていました。

ビルマ人は、戦後国連の事務総長をしていたウタントさんがいるように、素朴でまじめで好感が持てました。男性は、ロンジーといわれる巻きスカートをはき、布製のショルダーを肩から提げている人が多かったです。

ラングーンには、シンガポールと同じように福建省からの移民が多いそうでしたが、インドシナは、インドに近付くとインド系のような肌が浅黒く濃い顔立ちが目立ちました。

最近は、ミャンマーの女性が、タナカといわれる木の粉を水で溶いて顔に塗っているのを化粧品化して、タイでも売られています。