2022年8月14日日曜日

タイの話 その2

 今でこそ、タイ料理も有名になったし、パクチーが好きな日本人も増えましたが、70年代には、タイ料理が好きな人もパクチーが好きな人も少なかったです。

タイ語を話す日本人も意外とたくさんいるようです。

当時は、日本から友人知人がタイに来たら、パクチーとプリックヌー(タイの小粒な唐辛子)による洗礼が、一般的で、辛い時には、牛乳がいいとか、甘い飲み物がいいとか言われていたものでした。

キックボクシングは、60年代から日本のテレビなどで有名で、沢村忠の真空飛び膝蹴りとか、一部の人の間ではかなり人気でした。

あれはインチキだという話も出ていて、タイでの70年代の反日運動の時に標的の一つとして話題になったこともありました。

実際に、当時リングに上がったことのあるタイ人留学生などに話を聞いたことがありましたが、やはり、簡単な台本があったとか。

当時から、格闘技界では、タイは有名で、日本人や欧米人なども、タイ式ボクシング(ムエタイ)を学びに来ています。今でも、交流が盛んですよね。

もう一つ、早くから有名なのが、タイのニューハーフで、日本の2丁目界隈の人たちの間で、タイは、早くから有名だったようです。

一般的には、タイは風俗も有名で、巨大ソープランドとか、日本人クラブとか、70年代から有名でしたが、女性を求める日本のおじさんだけでなく、若い男性を求める日本の女性とか、若いニューハーフを求める日本のニューハーフとか、かなり幅が広いようです。

ニューハーフといえば、性転換の手術とか豊胸手術、美容整形もあるので、そちらの世界でも、タイは有名になっていったようです。

あと、芸能界でもタイは早くから有名で、テレビ番組などは、ロケがやりやすいこととか、スタッフも仕事の後の遊びが楽しいと人気だったようです。

ボランティアの界隈でも、タイは、カンボジアなどの難民キャンプやバンコクの巨大スラムの問題とか、地方の貧困などで、こちらも早くから、いろいろな団体が活動してきています。曹洞宗ボランティアは、早くから有名でした。

世界中でやっていることですが、政治家などが、いろいろなモノやお金を配っている写真を撮って、選挙に利用するとか、慈善と偽善は、いつの世の中にもあります。

大麻とか覚せい剤やけん銃などもタイは昔から有名で、闇社会との関係を持つ人たちも多いそうです。

バブルのころは、フィリピンと同じようにタイから日本の温泉街や地方都市へ、たくさんの女性が働きに行ったそうです。

そして、いまではベトナムが有名な外国人研修生も、以前は、タイ人も多かったです。

とにかく、いろいろな人たちの努力もあって、タイは、日本ととても近い国となっていますよね。

タイの話 その1

 私が初めてタイに来たのは、1976年の1月、コペンハーゲンからの南回りのロイヤルヨルダン航空でのトランジットでした。

ドンムアン国際空港は、本当に小さくて、イミグレーションのカウンターが3つだったと記憶しています。

荷物は、巨大などんぶりを逆さにした底の部分から出てきた荷物が、ステンレスの斜面を滑降して、ヘリの部分に止まって、回転する仕組みでした。

トランジットですから、ホテルも送迎も食事も無料で、係の人の指示に従ってフォルクスワーゲンのワゴン車に乗せられて、スクンビット通りにあったチャバリットホテルに一泊しました。

チャバリットホテルは、聞いた話ではベトナム戦争当時、アメリカ軍の宿泊施設だったとか。

とにかく真冬の北欧からでしたから、めちゃくちゃ暑かった印象でした。

疲れていたし、当時は、早く日本に帰りたいだけで興味もなかったので、コーヒーショップでの食事以外は、部屋でゴロゴロとしていました。

その時には、まさか、またタイに来るとは思ってもいませんでした。

次にタイに来たのは、1977年の9月でした。その時でも、こんなに長く暮らすようになるとは、想像だにしていませんでした。

当時は、普通の日本人のタイに関する知識は、ほぼ皆無といっていいくらいで、ベトナムとかシンガポールは知っていてもタイを知らない人が多かったので、日本に帰国してタイで暮らしているといえば、タイはどこにあるのかとか、タイではどんな言葉を話しているのかとか、タイの料理はどんな感じとか、質問攻めにあいました。

でも、当時でもタイには日本人が2000人以上暮らしていましたし、日系の会社もすでに数百社活躍していました。

日本とタイとの友好の歴史は山田長政でも有名なように長く、日本への留学生や研修生も多かったので、日本人女性と国際結婚をするタイ人も多かったです。

当時は、ドンムアン空港から市内に入るスーパーハイウエイの両側には、運河というか、池というか、水たまりがずっと続いていて、そこで魚を捕まえている半裸の人がいつも数人いました。

市内に入る手前のディンデーン地区には、大きなごみ集積場があって、ごみを分別している人たちもいました。

当時は、高速道路もなく、ディンデーンからパトゥーナームを通って、シーロムまで行くのにものすごい交通渋滞で、びっくりしました。

当時は、夜間外出禁止令が出ていて、ディンデーンのあたりには検問所がありました。

ベトナム戦争は終わっていましたが、カンボジアとかラオスはまだ混乱していましたし、タイでは、1976年の10月に大きな反政府運動が起きて、治安は、そんなに良くなかった時代でした。

交差点のところには小さな交番のような建物があって、当時の交通整理のおまわりさんは、白いアフリカ探検隊のようなヘルメットをかぶっていたのがかわいかったです。

当時は、主な交差点は信号機よりもお巡りさんによる交通整理で、ひどい時には、10分くらい動きませんでした。

タイは、あとになって、有吉君などでも有名になったように、バックパッカーたちがヨーロッパへの行き返りによく滞在していたところで、いくつかの小説などにも描かれたところです。

当時のバンコク中央駅から、中華街にかけての安宿が舞台でした。カオサーンが有名になる前の時代でした。


2022年8月11日木曜日

ドラマ「六本木クラス」の話

 ドラマ「六本木クラス」は、Netflixで大ヒットした韓国ドラマ「梨泰院クラス」を日本に置き換え、リメイクした物語だって聞いたから、あんまり興味もなかったけど、ほかに見るドラマも多くないので、見ていました。

韓国ドラマ「梨泰院クラス」は見ていないので、比較はできません。

主演の竹内涼真君はあんまり好きではないけど、香川照之さんのオーバーアクションは嫌いではないです。

平手友梨奈さんのことは、欅坂46のメンバーで出演した紅白でパフォーマンス中にケガをしたとか、内村光良さんが平手友梨奈のファンすぎる件くらいしか知りませんでした。

でも、このドラマの中で彼女が演じている麻宮葵は、その顔立ちやファッションがなかなか魅力的ではまりました。

毎回彼女の演技が楽しみです。

プリンターの話

 昔のパソコンは、ある意味印刷機でしたので、プリンターをセットで購入しましたよね。

専用のワープロでやっていた文書を作る作業をパソコンでやって、作った文書をプリンターで印刷し、フロッピーディスクに保存することが一般的でした。

年賀状作りも多くの人に利用され、カラー印刷を自分でできるようになりました。

一般的にはインクジェットプリンターというカラーインクを使ったプリンターで、使用するインクは、黒と赤と黄色と青(「マゼンタ」、「シアン」、「イエロー」)が一般的です。

プリンター自体も、最初のころは需要も少なかったから値段も高かったですが、それに加えてインクも高かったです。

インクは消耗品ですから、使っているうちに印刷がかすれたりして、新しいインクカートリッジと交換します。

個人使用なら、そんなに頻繁に交換しないですが、仕事で使う人は、これがかなりの支出となるので、何とか安く済ませたいと思うのが人情で、タイでは昔から、互換性のある海賊版のインクが売られていました。

もちろん、純正のインクでないとプリンター本体が故障するとか言われていましたが、実際には問題なく使えていたようです。

当時からプリンターメーカーは、プリンターを安く売って、インクで儲ける作戦で、やり方が汚いのではないかと批判する人もいました。

そして、タイでは、それでも交換が面倒だと、外付けの巨大インクボトルとそれをプリンターにつける装置が売られ始めました。

私自身は、プリンターを使うことがそんなに多くはないので、インクを使い切るのではなく、長く使わない時期が多く、インクが乾燥してしまって印刷できないトラブルが多かったです。

だから、レーザープリンターが普及してきて値段が安くなってからは、ずっとインクの乾燥しないレーザープリンターを使ってきています。

ネットでこんな記事を見つけました。

エプソン製プリンターには「一定期間使用後に動作を停止するプログラム」が隠れており「修理する権利」に逆行しているという指摘

これはエプソンに限ったことではなくて、私が使っていたキャノンでも、廃インク吸収パッド問題があったことを思い出しました。

ソフトを使ってプリンターの使用期限をリセットするというのが当時のネットでは話題になり、どこからそのソフトを入手できるかなども書かれていましたので、好奇心からやってみたこともありました。

こちらの人が、そういったやり方を説明しています。

今は、いろいろな意味で、ネットにも規制がかかっているし、法律も厳しくなっているから、アブナイ情報をなかなかゲットできないですが、好奇心が強い人たちは、いつの世の中でも頑張っています。

著作権も厳しい世の中ですが、基本、商用利用などには厳しくても、個人の趣味での使用に関しては、もっと自由にしてほしいな。

2022年8月10日水曜日

ディスコテックの話

 今はクラブといわれているそうですが、昔は、ディスコとかディスコテックといわれていた、踊る社交場ですね。

私は田舎生まれですし、70年ごろの地方都市にはディスコといわれるような場所はなかったと思いますが、笑死が知らなかっただけなのかもしれません。

東京には、有名なディスコもあって、一部の若者たちは、青春を謳歌していたようです。

70年ごろの若者といえば、新宿西口に代表されるフォークゲリラに熱くなった人たちと、ディスコにたむろする遊び人、そして、そんなことには関係ない人たちに分かれていましたね。

ちなみに反戦とか社会を風刺するようなフォークソングは、吉田拓郎に代表される商業主義フォークへと変わっていきました。

私は、北欧やドイツやロンドンではディスコに行ったことがあります。シンガポールやバンコクでも行きました。

当時のヨーロッパでは、ディスコが若者たちの日常生活に入り込んでいる印象でした。

大音響で当時のヒットソングが鳴り響く中、踊るのは気持ちがいいですし、女性と踊るスローテンポの曲なんか、夢心地でした。

Disco Hits of the '70s & early '80s

Most Popular Song Each Month in the 70s

OLIVIA NEWTON JOHN  RIP

北欧は、冬でしたので白夜、ディスコに入る午後10時ごろはまだ薄明るくて、ディスコから買える午前2時には、もう夜が明けるといった感じで、まさに非日常でした。

80年代のバンコクには、体育館のような巨大なディスコが何軒もあって、いろいろと騒がしかったです。


不景気の話

 第2次世界大戦後の世界ほど、多くの人々にとって景気のいい時代はかってなかったでしょうね。

貴族とか特権階級にとっての好景気の時代はあったでしょうけど、大衆は、みんな貧しかった時代が続いてきたと思います。

もちろん、今でも餓死している人たちがいる地域や国もありますが、貧しいとはいえ、飢えてはいても、餓死まではしない人が多いのではないかと思います。間違っていたらごめんなさい。

それと、植民地も減り、差別や抑圧も、徐々に減ってはきていると思います。

とはいえ、やはり、労働者階級は、いつの世も、楽な生活はできない人が多く、特に自然の厳しい地域や国では、悲惨な人たちも少なくなかったわけです。

生きていくためには、姥捨て山とか、間引きとか、歴史の暗部もあったわけで、それは、世界中の自然の厳しい国では見受けられたことでもありました。

殺されないまでも口減らしのために、身売りされることも多く、貧乏な家庭に生まれたら、男はヤクザ、女は淫売になるしか生きていけないといわれたこともあったようです。

階級制度も世界中で見られてきましたが、階級のもっと下という人たちもいたわけです。

昔から芸能は河原乞食から生まれたという人もいて、いろいろな事情から村に住めないから河原で生活していた一団が食べていくために歌を歌いながら物乞いをしたり、寸劇をしたりしていたところから発展したともいわれています。

世界的に、労働者階級を描いた小説とか、演劇なども生まれてき、それを労働者階級が見て応援してきました。

日本ですと、戦後、労音とか、労演とかいった組織もあって、歌ですとロシア民謡とか、フォークソングとかもよく歌われていたようですし、演劇も、労働者の苦悩を描いた作品も多く、それが、映画とともに、左翼の運動を支えてきていたようです。

芸能人には左翼が多いですよね。

労働者階級や社会的なマイノリティーを集めることで、大きな組織を作ることができるので、それをカルト宗教などが利用してきています。

批判するのは誰にもできることで、数をそろえれば力になります。

世の中をよくしていくことは大切ですが、反日活動家やおかしな宗教に利用されることだけは避けるべきだと思います。


2022年8月8日月曜日

ドラマ「拾われた男」の話

 ドラマ「拾われた男」が面白くなってきている。

出演者が、素晴らしい人たちばかりで、物語もいろいろと変化に富んでいて面白いんだけど、俳優として有名になっていくくだりとか、京都での共演女優への恋心とかから、アメリカに行っている兄が脳梗塞で倒れて、会いに行く話になって、めちゃくちゃ面白い。

アメリカでの話は、まるでアメリカのドラマ仕立てで、移民社会の話とか、不法滞在の話とか、高額医療費の話とか、いろいろとあって、興味深いわけです。

主人公の兄は、アメリカ留学中に大金を落としてしまって、大学に通うこともできなくなり、ビザも失効してしまい、不法滞在・不法就労となるわけです。

不法滞在の問題は、世界的な問題で、アメリカでも日本でもヨーロッパでも、頭の痛い問題となっています。

滞在したい側にはそれぞれの理由もあるわけですが、法律違反は法律違反で、基本は、見つかればどこの国でも強制送還です。

不法滞在や不法就労では、社会保障などを基本受けられないわけで、日本のようないい加減な国は例外です。

アメリカですと、もしも病気になったりすれば、高額医療費を支払えない人も多く、日本にいる家族にとっては、青天の霹靂状態になります。

海外への留学にしても旅行にしても、楽しいこともたくさんありますが、事件に巻き込まれたり、病気やケガをすることもあるわけで、そういったことも想定しておかないと、悲劇も生まれます。

日本では、アメリカやアジアに長期滞在したいと思っている人も多く、語学留学から、現地採用での就職などもあるわけですが、ビザや労働許可が、簡単に取れるわけでもなく、中には、不法滞在や不法就労をする人もいるわけです。

一度海外での暮らしを経験してしまうと、その非日常の心地よさに、日本で生活できなくなってしまうこともあるわけです。

外国人との恋愛なんかも、言葉の違いや習慣の違いも、最初は新鮮で、相手が魅力的に見えたりもするわけです。

それで、滞在が長くなる人も少なくありません。

非日常が日常に変わり、考え方や習慣の違いから言葉の問題なども、徐々に、頭の痛い問題を生むようになることもありますが、元の独身の気軽さに戻れない人もいるわけです。

海外ではいろいろな問題に悩むこともありますが、大きいのは病気やケガなどの医療関係と、高齢化問題でしょうね。

日本だって、これからどうなっていくのはか不安ですが、とりあえず、現在ならば、まだまだ外国と比べると社会保障は素晴らしく、病気になったりすると、日本に帰りたくなる人も多いのではないかと思います。

海外で高齢になる不安もなかなかのものです。

海外生活は、隣の芝生に見えるかもしれませんが、最低でも、合法的に滞在しないと、問題は多いです。

そんなことを仲野太賀さんと草彅剛さんの演じるアメリカでの離れ離れだった兄弟の話で、いろいろと考えさせられました。


2022年8月6日土曜日

ドラマ「雪女と蟹を食う」の話

 ドラマ「雪女と蟹を食う」を見ていると、いろいろな過去を思い出します。

私は、ヨーロッパにいたころは、「KITA」とか「KAZE」と呼ばれていましたので、ドラマの主人公の「北」に親しみを感じてしまいます。

5話で出てきた野宿の話で思い出したのは、ヨーロッパでした野宿のことです。

1回目は、スウェーデンからドイツに向かうためにストックホルムから南に50キロほど離れたところにある港Nynäshamnに行ったときに、ドイツに渡るフェリーがその日にはなくて、翌日だとわかり、港の近くの岩山で野宿をしました。

もう夏だったので、夜は遅くまで明るかったし、朝は早くから日が昇り、ウトウトしただけでした。

朝からカモメがうるさいし、おなかが減って、まいりました。

そして、ドイツに渡った北ドイツのリューベックでユースホステルが満員で泊まれなかったので、近くの木陰で再び野宿をしました。

ホテルの名前がわからず、道に迷い、お腹を空かせていた主人公に声をかけて、食事をおごった謎の女性では、旅の途中で、お世話になった人たちのことや、名前を知らないで親しくなった女性のことなども思い出しました。

謎の女性が、自分が困っていた時に親切にしてくれた人が言った言葉、「お礼はいいから、だれか困っている人を見たら助けてあげてください」というのも、私は、常に心掛けていることの一つです。

以前、ドイツでは、いろいろな人に親切にしてもらったからと、タイで困っているドイツ人を居候させたことがありましたが、悪い男ではなかったけど、部屋にある私がコレクションしていたお酒をすべて飲んでしまい、許可も取らずに失礼な奴と出て行ってもらいました。

旅は、非日常ですから、いろいろなことが起きます。

2022年8月3日水曜日

日常生活の話

 「踊る!さんま御殿」に出演した東京オリンピック柔道の金メダリスト高藤直寿さんが、趣味のオンラインゲームにはまっている話をしていました。

とにかく練習後の疲れたときでも深夜まではまっていて、興奮して時々大声を出し、奥様から叱られているそうです。

めちゃくちゃはまっていても、実力はそんなでもなく、柔道でもゲームでも、苦手なことや嫌な練習を繰り返し毎日することが大切だと持論を語っていました。

そうなんですよね、勉強でも運動でも遊びでも、なんでも繰り返すことが大切だと思います。

最近は、スポーツジムで体を鍛えている人たちも多くて、理にかなった練習法で、ものすごい筋肉になっている人たちもいますが、見せる筋肉と使える筋肉は違うと思います。

ボクシングなどの格闘技の選手には、ものすごい筋肉の選手もいますが、実際の競技で素早くて破壊力を生む筋肉でないと、あんまり意味がないと思います。

昔の大相撲の力士なんかですと、子供のころから船の上の作業で足腰を鍛えたとか、米俵を担いだり、農作業で体を鍛えたという話もありました。

日常生活の中で体を鍛えるのは、偏りもあって、見栄えのいい筋肉につながらないかもしれませんが、鍛えられることに間違いはありません。とにかく、毎日のように同じようなことを繰り返すわけですから。

日本人の暮らしの中で、畳の生活というのは、とにかく立ったり座ったりの反復がすごくて、言ってみれば、一日中スクワットをしているようなものです。

ランドセルを背負っての登下校も、1キロも歩いたら、かなり足腰が鍛えられます。

都会など、通勤時の階段の上り下りなども、すごい運動です。

毎日毎日、布団の上げ下げとか同じことをするのはうんざりですから、ベッドのある生活が快適ですが、ベッドの暮らしや車の暮らしをするから、お金を払ってスポーツジムで体を鍛えなければならないともいえそうです。

毎日の家事も、見方によっては素晴らしいトレーニングです。

2022年8月1日月曜日

日本人の話

現代の畳は、部屋に敷き詰められていますが、本来の畳は、莚(むしろ)・茣蓙(ござ)・菰(こも)などの薄い敷物の総称だったそうです。

だから、使わないときには丸めたり、折り畳んだりして部屋の隅に片付けていたそうです。

この使わないときには畳んだり丸めたり、コンパクトにするというのが、日本人の得意な分野ですよね。

日本の昔ながらの家には押し入れがあって、普段使わないものをしまうだけでなく、毎朝、布団をたたんで押し入れに入れて、部屋を広く使えるようにしています。

和室で使うテーブルも足を折り畳んで、部屋の隅に立てかけておいて、必要な時に取り出してテーブルとして使うものもあります。

座布団も重ねてしまっておくことができるし、座椅子もたためますし、コタツも使わないときには床下に収納します。

日本人は、モノを小型化するのも得意ですが、モノを折り畳むのも得意です。

スペースを有効に使う知恵も持っています。

日本家屋は、ふすまを取り払うと広く使えて、冠婚葬祭などに使えるようになっています。

日本人は、常に創意工夫をして、無駄を省き、自然との共存共栄を考えてきています。

もう一つ、日本人は、自分専用の食器を使います。

私が知らないだけかもしれませんが、自分用の箸を使う民族は他にいないのではないかと思います。

お茶碗も湯飲みも自分専用があります。

これを子供の時から当たり前のようにしているから、所有物の観念がしっかりしています。

モノに所有者の名前を子供の時から書きます。

他人のものと自分のモノをいい加減に混同して使うようなことはしません。

日本の習慣や価値観のすべてが正しいとか優れているとは思いませんが、素晴らしいものが多いのは間違いないことです。

素晴らしいものを捨て、くだらないものに走るのは愚かだと思います。

海を渡る話

 日本列島はどうやって誕生したのかとか、日本人はどこからやってきたのかといった話はいつの時代にも人々を魅了します。

ユーラシア大陸の東の果ての沿岸部分が、徐々に大陸から離れて行って、日本列島や日本海ができたといわれています。

だから一部の生物は、その時から日本列島で生きていたといわれていますが、人間は、いつ頃どこから来たのかは、いまだにいろいろな説があって、結論は出ていませんが、シベリア方面からと中国や朝鮮半島からと南の島々からといわれていますよね。

時々テレビでも特集されますが、台湾から沖縄諸島にどうやって人々が渡ってきたのかという考証があって、木や草で作った小舟で海を渡ったのではないかといわれています。

潮の流れを利用したり、風を利用したり、いろいろと知恵を絞ったのでしょうね。

世界中で、巨大な権力を持つ国から、敗者となって逃げていく人々は半島に集まるといわれています。それも追手から逃れるように山岳地帯で暮らす人たちもいます。

そんな人たちの中には、海の向こうに島があることを知る人も出てきて、そこに行けば幸せに暮らせるかもしれないと夢見るのではないでしょうか。

ただ海があるから簡単には渡っていけません。

どうやったら海を渡れるのかを考え、試行錯誤し、計画し、準備をする、好奇心と体力を持つ人たちが、海を渡っては失敗し、それでもあきらめず、いつか海を渡って目的の島にたどり着いたのでしょうね。

徐福伝説とかイスラエルの失われた10支族伝説とか海を渡って、日本に来た人たちの話もいろいろとあります。

今と違って、海を渡るのは命がけですし、渡ってしまったら帰ることもできないわけで、覚悟を持って新天地を目指した人たちですから、やはり能力も高く、それをわれわれ日本人は受け継いでいるのだと思います。

中国や朝鮮半島やシベリアから、海を渡って日本に来た人たちも日本に同化して、今の日本を作ってきているわけで、最近の外国人とはかなり違っていると思います。

今はDNAや遺伝子の研究も進み、どんどんいろいろなことがわかってきています。

嘘は必ずバレますから、研究を妨害する人もいるそうです。

ヒッチハイクの話

行きたいところまで、知らない人の車にただで乗せてもらうのがヒッチハイクです。

私が生まれて初めてヒッチハイクをしたのが、北ドイツのハンブルグでした。

スウェーデンから客船で北ドイツのリューベックにわたり、そこから大都市のハンブルグに行って、ハンブルグのユースホステルで、いろいろ話を聞いて、生まれて初めてのヒッチハイクに挑戦しました。

とにかく距離を稼ぐためには、日本なら高速道路の入り口とか幹線道路で車を捕まえることになりますが、ドイツの場合には、アウトバーンの入り口に向かいました。

毎朝、ユースホステルからヒッチで移動しようとする若者たちがいるので、彼らについてバスに乗ったり、歩いたりして、ヒッチハイカーたちに有名なポイントに行きます。

ポイントについたら、順番があるわけで、早く着いた人から車を止めやすいところに陣取り、あとは順番に並びます。

私の場合には、とりあえず南に向かうということで、紙に500キロほど離れた大都市フランクフルトと書いて、それを掲げて車を待つわけですが、車を運転する人にとっては、選ぶ権利があるわけで、まあ、普通は、一人旅か二人旅の女性優先となります。

自分より後ろに並んでいる女性の方が簡単に車に乗ることなどは日常茶飯事だと徐々に悟ります。

男性を乗せるのには乗せる側にもリスクがあるわけで、男性二人とか男性三人だと、もうほとんど不可能に近いわけです。

車が自分の前に止まってくれたからといって、目的地まで行けるとは限らず、どこどこまで行くんだけど、それでもいいかといったこともしばしばです。

私の場合には、車には乗せてもらえたのですが、フランクフルトではなく、ブレーメン方面に走り、なんと、オスナブリュック付近のアウトバーンで、突然下ろされてしまいました。

ひどい話で、アウトバーンの上を歩くことは許されないわけしたけど、歩くしかないから、歩いていたら、上空のヘリコプターから何か叫ばれて、たぶん、下に降りろと言ったことだと解釈し、下に降りられるところを探して、アウトバーンから離れました。

それで、まわりに何もない田舎道をどこかにバス停でもないものかと歩きましたが、どこまで行っても何もないし、とにかく背負っているリュックは重いし、おなかも減ったし、もう疲れ切って、道路わきに座ってしまいました。

それで、少し元気を取り戻したらまた歩くといったことを10キロ以上やって、やっと家があるところまで来たので、そこで座っていたら、おばあさんが近づいてきて、家に誘ってくれました。

こういった時に、人相がいいのは得ですね。

おばあさんの家に入れてもらって、温かいお茶とお菓子をご馳走になり、おばあさんは、戦争に行っていたと思われるおじいさんの写真を見せてくれました。

ドイツ語はまださっぱり分からなかったので片言の英語での会話でした。このおばあさんの親切もドイツが大好きになった理由の一つです。

それで、ヒッチハイクはこりごりで、その後は、列車を使うことになりました。

オスナブリュックは70年代でもすでに駅前にはトルコ人がたむろしているようなちょっと不気味な町だったので、ミュンスターに行って、そこで一泊しました。

その次にヒッチをしたのは、だいぶ後になってからの翌年、ロンドンからドーバーまででした。この時は大成功でした。

当時から、男性でも一人でヒッチハイクをすることは、決して安全ではなく、交通事故だけでなく、事件に巻き込まれたりする可能性もあり、特に性犯罪には気を付けたほうがいいといわれていました。

でも、いろいろな人とお友達になることもあるし、うまくいけば、いい思い出になりますが、時代とともに、禁止されているところも増えているそうです。



リュックサックの話

 60年代にジャックスというフォークバンドがありました。


このメンバーに谷野さんがいて、彼と友人たちがスウェーデンでの体験を面白おかしく話してくれました。

当時のスウェーデンといえば金髪女性がフリーセックスというイメージでしたから、それまでは、ビートルズの影響でインドに行ってヨガをとか思っていたのに、そうだ、北欧に行ってからインドに行こうとなったわけです。

その前から五木寛之の小説などで、ヨーロッパ放浪という言葉も魅力的で、いろいろな本を読んで、ナホトカ航路で日本を離れ、シベリア経由でヨーロッパに行く計画を立てました。

旅に出るには、準備が必要で、田舎の無知な若者ですから、まずは、リュックサックを買いました。

当時は、まだパックパッカーという言葉もなくて、縦長で腰ベルトのついたかっこいいリュックなど見たこともなく、リュックといえば、登山部の人たちが背負っていた横長でキャンパス地のキスリングといわれていたリュックでしたので、それを購入しました。

そして、いろいろと本の中から必要と思われるものをピックアップして、徐々に準備を進めていったわけです。

ヒッチハイクをするのが旅の定石と思い込んでいたので、寝袋も買ったし、衣類も寒さに備えていろいろと揃えました。

今から思うと、いろいろな意味で時代遅れだったようで、キスリングのリュックは、重いし、横長で背負った状態では狭いところを通れないので、カニ族といわれたように横歩きをしたり、両手に持って歩くところもあったりして、とにかく疲れました。

欧米人などは、みんな縦長のバックパックを使っていて快適そうでした。パックパックには30センチくらいの国旗を付けている人たちも多かったです。

とにかく、最初の目的地はスウェーデンのストックホルムで、そこに滞在していた谷野さんを訪ねたわけですが、日本では、「少年たちよ、スウェーデンに行くしかないぞ。」と酔っぱらっていろいろと武勇伝を話を聞かせてくれたのに、いざ、ストックホルムで再開したときには、「そんなリュックを背負って山にでも登りに来たの」と冷たくあしらわれました。

そうなんですよね。すでにヒッチハイクで旅する時代から、目的をもって、快適なところに滞在する人たちも増えて、時代は変わり始めていたわけです。

でも、同郷で、谷野さんと一緒に「休みの国」というバンドをやっていた高橋照幸さんが、ストックホルムではいろいろと親切に面倒を見てくださり、何とかくじけないで、旅を続けることもできました。

リュックの中にはどこに行っても自炊ができるようにと20センチほどのフライパンを持ち歩いていました。