2017年10月18日水曜日

タイの食べ物 その3

タイ料理も、今では多くの人たちに知られて、好きな人たちも多いです。外国人が、たくさんタイに来て、タイ料理の味付けも、多少変わってきています。

以前は、甘さも辛さも塩っぱさも、今よりずっと強烈でした。今は、健康志向で、甘さ控え目や低カロリーも増えてきています。

タイ料理といえば、屋台でもレストランでも、基本の調味料がテーブルの上に備え付けられています。


爪楊枝から時計回りに、砂糖、魚醤、胡椒、酢漬けの唐辛子、一味唐辛子。

こちらは、中華海鮮のお店によくある、上から時計回りに、唐辛子とニンニクをすりつぶしライムと魚醤を加えたもの、ニンニクスライスと唐辛子を入れた魚醤、甘いタレ、チリソース、魚醤。



タイ料理いろいろ


カニのニンニクと黒胡椒揚げ。

豚足の煮込みぶっかけご飯。

フカヒレスープ。

スープなし細い米麺の紅腐乳(イエンターフー)。

スープなし細い米麺とフィッシュボール。




カニのカレーと卵とじ。有名なプーパッポンカリー。

エビの醤油蒸し。

カニ肉のすり身を湯葉で巻いたものを揚げたもの。

焼きエビ。

カニ肉入りチャーハン。タイ米だからのおいしさです。

日本人大好きな空心菜の炒め物。

ビーフンスープ・ビーフボール入り。

麺なし紅腐乳(イエンターフー)スープ。

スープなし翡翠麺のチャーシューのせ。

カキのオースワン。








ヤムウンセン(辛くて甘酸っぱい春雨サラダ)

燕の巣のデザート。








おいしいものは、もっともっといっぱいあるので、機会があれば、追加します。


2017年10月17日火曜日

タイの食べ物 その2

東南アジアの楽しみのひとつは、街を歩いているときに見かけるいろいろな食べ物ですね。


道路脇でスルメを売っているところです。
これだけ見事に並べているところは、あんまり見る事がないです。





好きなスルメを選ぶと、七輪で焼いて、それからこの器具で伸してくれます。
タレは、甘いタレに唐辛子とピーナッツの砕いたものを混ぜたのが一般的。



焼き卵。








中華街にあった有名なオースワン(カキのもんじゃ焼きのような感じ)の専門店

海鮮料理店の前によく並んでいる生きて縛られているノコギリガザミ。


独特のタレに漬けられている小さなカニ。

茹でたノコギリガザミの爪だけを売っている。

タイの焼き菓子。

この強烈な火加減がおいしさの秘密です。

日の近くでクルクル回りながら焼かれるチキンたち。

一度は試したい、お総菜屋さん。
お皿に盛ったご飯に、好みの総菜を2~3種類ぶっかけてもらいます。
お腹の弱い人にはお奨めしません。




2017年10月16日月曜日

タイの食べ物 その1

タイは、食べ物が豊富です。かっては、食糧自給率がなんと400%といわれたほどです。

ラマ9世の王室プロジェクトや日本のJicaなどの技術指導で、かっては生産できなかった野菜や果物もたくさん生産できるようになっています。でも、やはり、タイらしい野菜やフルーツがおいしいです。


タイの人たちは、手先が器用で、フルーツカービングは、美しいです。

カットフルーツを売る移動式の屋台ですが、包丁使いの達人たちです。

果物の王様といわれる強烈なニオイが特徴のドリアンは、持ち込めない場所に注意が必要です。
パパイヤには消化酵素がたくさん含まれているそうです。
ニオイが気になる人はライムをかけて。

ランブータン。

マンゴスチンは、果物の王妃さまだそうです。

ライチー。

焼きココナッツ。

焼きバナナ。

フルーツではないですが、焼きタピオカ。

熟れる前の生のマンゴーは、そのままだと酸っぱいだけなので、甘いタレで食べます。タレの中には、干しエビとかタマネギとか唐辛子が入っています。

サトウキビジュースを絞っています。サトウキビは、英語だと、シュガーケーン。

手焼きの甘栗。

焼きトウモロコシ。

菜食祭りの旗。今年は、10月20日から始まりますが、もうすでに菜食料理を売っているところも多いです。

プーケットなどの南タイが有名です。



2017年10月15日日曜日

ミャンマーの民話から  人魚の母親

 遠い遠い昔、一人の年老いた予言者がいました。ある日、老人は、近いうちにこの世は大洪水にみまわれるから、助かりたいものは、食料を持って一番高い山の頂に行った方がいいと予言しました。

 しかし、ほとんどの人々は、老人の話に耳をかたむけませんでした。そればかりか、この老人をみんなして笑って馬鹿にしました。この老人の奥さんと娘のザ・トゥアと老人を知っているほんの少しの村人だけが、老人の予言にしたがって、持てる限りの食料を持って家畜をしたがえて、一番高い山に向かいました。

 丁度、みんなが一番高い山の頂上まで辿り着いたときに、この予言をした老人は、息を引き取りました。すると、まるでそれが合図のように、大雨が降り始めました。あっという間に、村中が洪水になって、老人を笑った人々は、もはや家から出ることが出来なくなってしまいました。はじめのうちは、仕事も出来ないからと、家の中で、食べたり飲んだりしていた人も、その内に退屈して、歌ったり踊ったりしはじめました。

 しかし、いつまで経っても降り止まない雨に、人々は、だんだんと不安を隠せなくなってきました。だんだんと水位が上がって、家が水に沈もうとするときになって、はじめて、人々は、泣き叫び、老人の予言を信じなかったことを後悔しました。泣き叫ぶ人々も家も丘も沈んでいっても、雨はまだまだ止みませんでした。

 一番高い山の頂にいるザ・トゥアたちだけが無事でした。けれども、真っ黒な水は、もう頂に近いところまで来ていて、時々大きな波が打ち寄せてくるので、みんな恐怖にふるえていました。

 打ち寄せる波しぶきが、まるで、ザ・トゥア、ザ・トゥアと呼んでいるように、みんなには聞こえてきました。ザ・トゥアの近くにいた人が、ザ・トゥアの髪の毛を一本抜き取って、水に放り投げると、水嵩が30cmほど下がりました。髪の毛一本で、水嵩が引いたのだから、ザ・トゥアが、生け贄として、身を投げれば、このいまいましい洪水も乾いてしまうにちがいないと、人々は囁きはじめました。

 「ザ・トゥア、お願いだから、みんなのために犠牲になっておくれ。」と人々はいいました。ザ・トゥアは、わかりましたといって、ザ・トゥアは真っ黒な水に身を投げることを承知しました。

 人々は、救われることを密かに喜びました。しかし、ザ・トゥアの母親だけは、悲しみに打ちひしがれて、泣き伏してしまいました。

 母親の耳元で、ザ・トゥアが、「お母さん、悲しむのはもうやめて。わたしは、人魚として生まれ変わって来るるから、お母さんは、塩になればいい。そうすれば、人魚のわたしと、塩のお母さんは、いつも一緒にいられるから。」と囁いて、身を投げました。

 すると、不思議なことに、水は、あっという間に引いてゆきました。人々は、喜んで、山を下りて、村に帰ってゆきました。村に帰って、新しい家を建て、人々は、今までと同じ暮らしをはじめました。

 唯ひとり、ザ・トゥアの母親だけが、川のほとりにたたずんで悲しみの中で、どうしたら塩になれるのだろうかと考えていました。あまりの悲しさに泣き続けたために、彼女は、嘔吐しました。すると、吐き出されたものが、真っ白な塩になって、水に溶けてゆきました。彼女は、こうして、塩を川に流すことによって、人魚になった娘のザ・トゥアと一緒にいられることが出来るのだと、少し気持ちが楽になってきました。

 現在世界中にいる人魚たちは、みんなこのザ・トゥアの子孫たちなのです。



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2017年10月14日土曜日

フランスからイギリスへ

1973年の10月、パリから列車でイギリスに向かいましたが、フランスのカレーからイギリスのドーバーまでは、車両がフェリーに乗せられていきました。

ドーバーに到着したら、イミグレの職員にパスポートを見せ、ビザのスタンプをもらうのですが、私の場合には、運が悪く、3ヶ月の滞在許可でした。一緒に行った友人は、運良く6ヶ月間の滞在許可をもらったというのに。


こちらが、10月9日付のイギリスへの入国スタンプ





こちらが、滞在許可で3ヶ月と書き込まれました。ちなみに観光ビザです。






とにかく無事にイギリスに入国後、列車は、ロンドンに向かいました。

ロンドンでは、一緒に行った友人の知り合いの下宿にお世話になりました。そこで、お世話になりながら、自分の下宿と英語の学校を探しました。探すといっても、友人の友人とか、とにかく、知り合いのツテでしたけどね。

わたしは、子供の頃から鶏肉が苦手で、今でも、ほとんど食べないのですが、居候をした部屋の人が、ケンタッキーでアルバイトをしていて、夜中に、フライドチキンを部屋に持ち帰って食べるんですよね。

そのいい匂いが、空腹にはたまらず、勧められるまま、空腹に負け、嫌いな鶏肉を食べてしまい、なんか、食欲に負けてしまったことに悲しくなって、涙がでてきました。

とにかく、下宿は、シェパーズ・ブッシュ駅から徒歩10分くらいにあった旦那さんがシンガポール系イギリス人で、奥さんがスペイン系イギリス人の家に決まり、学校もピカデリー近くの所に決まりました。

学校名は、なんとケンブリッジ・スクール・オブ・イングリッシュでした。かっこいいですね。

下宿は、2階にある6畳くらいの部屋で、ガスも電気もコインを入れないと使えない方式で、とても不便でした。料理を作っていると、ガス切れになったり、お風呂に入っていると水風呂になったりして、大変でした。

知らなかったのですが、部屋代も、下層階級が借りるような所は、週いくらというシステムで、わたしの借りた部屋は、週6ポンドでした。

学校は、フルタイムで午前と午後としっかり勉強しました。日本人は、中学でしっかり基礎を学んでいるので、入学の時にクラス分けテストでは、実力以上に好成績で、最初から中級クラスに入りました。

クラスの先生は、美人のヘレン先生でした。美人の先生だと、やる気がでます。

一般の外国人は、文法など苦手だとわかりました。クラスには、フランス人のおばちゃんがいて、ものすごいフランス訛りの英語で、北アイルランド問題を語り、イギリスの悪口をいっていました。

カソリックのフランス人の彼女は、ヘンリー8世の不倫からカソリックをやめ、イギリス国教会を作ったイギリスを軽蔑しているようでした。


これが、地下鉄の定期券。
下宿のあったシェパーズ・ブッシュから学校のあったトッテナム・コート・ロードまで。





英語は小学校の頃から興味があって、中学ではオーストラリアとアメリカにペンフレンドがいたし、ビートルズの歌をラジオで聞いて、歌詞を書き取ることなどもしていました。当時のNHK教育の英会話の番組も見ていました。

そして、アルバイトも知人の紹介ではじめました。誰でもできる皿洗いの仕事でした。

オーストリアレストランで、検索してみたら、今でも営業中でした。







学校が終わってから一度下宿に戻り、夕方から出直しました。仕事が始まる前に、まかないの食事がでるのが嬉しかったです。はじめて食べたグラージュはおいしかったです。

キッチンで働く人たちには、モロッコ人とかドイツ人とかスペイン人とか、多国籍で、キッチンの中で、大喧嘩したり、モロッコ人のアシスタントシェフなど、スペイン人のウエイトレスから、嫌な客が来たなどといわれると、焼いた肉を床に落としてから盛り付けるとか、最低でした。

ドイツ人の青年は、徴兵制から逃げてきたそうで、彼とモロッコ人とがよく喧嘩をしていました。

わたしは、皿洗いで、グラス洗いの方が、ちょっと立場が上で、スペイン人の陽気なパウロくんでした。彼とは、すぐに仲良くなりました。シェフからも、気に入られて、すぐに、アシスタントにならないかと誘われましたが、シェフになる気はなかったので、お断りをしました。

お給料も週給でした。月給はサラリーで、週給は、ウエージだと知りました。

仕事が終わって、後片付けをして帰宅するのは、もう深夜近くでした。地下鉄に乗ると、まわりは身体の大きな黒人たちばかりで、かなり怖かったです。

当時のロンドンでは、IRAといわれる過激派による地下鉄爆破事件が多発していたし、時々、黒人たちがケンタッキーを襲撃してお金を奪う事件も起きていました。

わたしの行った時期が、もう初冬という感じで、雨は多いし肌寒くて、参りました。部屋のヒーターは、小さくて身体の表面しか暖まらないですし、すぐにベッドに入るしかありませんでした。

ヒヤリングのためにと、中古で白黒のテレビを買ったのですが、それが、すぐ、画面が小さくなっちゃうようなひどいモノでした。ベッドで毛布にくるまりながら、白黒テレビを見る生活は、わびしかったです。

クラスには、ドイツ人の美人がいたのですが、わたしは、お湯と洗剤を使った皿洗いで、手が荒れてしまい、授業中でも手袋をしていて、とても恥ずかしかったです。

あっという間に滞在期間も終わりが近付き、ビザの延長を申請しなければならず、そのためには、授業料の前払いも必要になり、お金が足りないので、父にお金を無心をしました。


これが、学校からもらったロンドン市内にあるイミグレーションまでの地図






1月3日に申請に行って、4月30日までの滞在許可をもらいました。






ロンドンで、暇な時間には、中華街にいって、日本食に近いモノを作る食材を買ったり、マダムタッソーの蝋人形館にいったり、ノミの市にいったりはしましたが、観光らしい観光をしなかったことが、今となれば残念です。

ロンドンの西南西にある、ドーセットという田舎に行ったことは、一番楽しかったイギリスの思い出です。

そして、なんか、イギリスが、嫌になってしまい、イギリスをでることにしました。学校も仕事場も楽しかったのですが、それ以外が、楽しくなかったです。

ちょうど長五郎さんがロンドンに遊びに来て、彼と一緒に旅行をして、それから、デンマークに行こうと決めました。なぜデンマークだったのかは、いまだに理由がわかりません。

ロンドンから電車で校外にいって、そこからドーバーまでヒッチハイクをしました。ヒッチハイクの写真があったはずなのに、見付かりません。そして、ドーバーから、フェリーで、ベルギーのオステンドまで行きました。



ドーバーからオステンドまでのフェリーボートの切符

ベルギーの入国スタンプ








ベルギーに入ってからは、首都のブリュッセルに行って、それから、来月サッカー日本代表が、ベルギーと試合をする美しい町ブルージュに行きました。


ブルージュのユースホステルのスタンプ







ブルージュは、わたしの見たヨーロッパの中では、スイスのバーセルと同じように古くて美しい町でした。


2017年10月13日金曜日

士農工商

昔の身分制度だそうですが、農業が2番目に来ているのが、なかなかすごいと思います。

これからの世界は、食糧不足になっていくので、自給率を高めることが必要になるのに、日本では、農業に従事する人が減っているそうで、将来は暗いです。

工業が商業よりも上にあるというのもいいですね。やはり物作りは大切で、日本がここまで発展できて、豊かになったのも物作りのおかげでしょう。

といっても、江戸時代だって、豪商の力は、すさまじく、武士でもお百姓でも職人でも、商人に頭を下げることも多かったようです。

今の時代でも、金融とかITというのは、お金持ちというイメージです。IT企業社長といえば、美人がよってくるイメージです。でも、本当の大金持ちは、ほんの一部で、ブラックな企業で、苛酷な労働をしている人たちもいます。

ITには、工業的なハードと、商業的なソフトがあると思いますが、もてはやされるのは、ソフト業界でしょうね。一発当てると、大金持ちです。

パソコンが普及してくるときによく言われたのは、「パソコンもソフトがなければただの箱」ということで、ハードよりもソフトが、注目され、大成功を収めたソフト会社もでてきました。

しかし、忘れてはいけないのは、どんなに素晴らしいソフトであっても、ハードがなければ、ただの文字の羅列でしょう。

商業も農業や工業がなければ成り立ちません。だから、商業で金持ちになった企業には、ハードに進出していくところもありますね。

昔から、3代続かなければホンモノではないといわれてきたように、江戸っ子だって、3代以上続かないと江戸っ子と名乗ってはいけなかったそうです。

お笑いの世界では、一発屋というジャンル(?)がありますが、商売でも、一発屋はあるわけで、次々と大当たりをとることは、かなり難しいわけです。

飲食店なども、同じ場所に同じような店があっても、経営者が変わっていたり、提供するモノが変わったり、いろいろな変化はありますから、本当に長く続けるということがいかに難しいかということですね。

生まれてから、一度覚えたら死ぬまで忘れないことといえば、自転車がありますね。もちろん、身体が動かなくなったら、自転車には乗れませんが、でも、知識なんかに比べると、長持ちします。

知識は、還暦を過ぎる頃からどんどん忘れてしまいますが、自転車は、還暦を過ぎても乗ることが出来ます。バイクも自動車も、運転のしかたは忘れませんが、歳をとると事故のリスクは高まります。

母国語は、話し言葉なら死ぬまで忘れませんが、書く方は、忘れますね。母国語以外の覚えた言葉で使わない言葉も忘れますね。

政治家でもお役人でも会社の経営者でも、お金や権力を持つと、やたら威張る人がいます。立場上、えらそうにする必要がある人もいますが、でも、人間性が問われますね。えらくなっても威張らない人の方が尊敬されます。

企業なんかでも、大きくなると、どうしても横暴になりがちというか、謙虚さがなくなってしまうようです。上から目線で、価値観の押し売りをし始めると、その企業の将来は暗いと思います。

独善による弱い者イジメは、自分を滅ぼすことが多いと思います。

士農工商、すべてに言えることは、皆様のおかげですを忘れてはいけないということだと思います。