2017年9月9日土曜日

ネネの場合

ネネの場合、医師から連絡が来て、子宮に炎症があるとのことでした。ちょうど避妊手術をするからいいけど、もしも、そのまま気が付かないと、危険だった可能性もあったとのこと。

いわれてみると、最終の交尾期が、いつもよりも長くて、最近、よく嘔吐していました。いつもは、毛玉というか、毛の円柱状のものをはき出していたのですが、最近は、食べた餌をはき出すことが多かったです。

ネネは、4匹の中では、一番お行儀がいいというか、あまり行動的ではなくて、交尾期の時以外は、寝室で、静かにしています。

避妊手術は、無事終わり、クリニックで1泊したのち、帰宅しましたが、寝てばかりです。クロのように、寝る場所をしょっちゅう変えることもなく、同じところで寝ています。

 お腹の手術あと
疲れているようで、とにかくよく寝ます。








今日になって、寝る場所をいろいろと変えるようにはなっていますが、それにしてもよく寝ます。

朝夕、お薬を飲ませるのですが、クロに比べて、ネネは、暴れます。クロは、手術後も非常に扱いやすいですし、以前はなかったことですが、夜寝る時に、わたしの隣で寝ます。

わたしがソファーに座っているときも、足元で寝ることが多くなりました。

クロは、術後の検査を受け、全く異常がないとのことで、来週の火曜日に抜糸の予定です。

クロもネネも、傷あとを舐めないので助かります。

あと、チャチャーの性格が変わってしまい、クロだけでなくネネにもフゥーと威嚇します。以前は、穏やかな性格だったのに、なんか苛立っているようです。

もしかしたら、チャチャーよりもクロとネネに触れることが多いし、威嚇するとチャチャーを追い払うことが、おもしろくないのかもしれません。

わたしに近寄ってくる回数が激減しています。

ミミは、以前と同じで、マイペースですが、やはりクロに対しては、近付いては威嚇しています。

手術後、クリニックで泊まって、他の動物の匂いが身体についてしまっているのか、手術で弱っているから攻撃しようとするのか、自分も何か異変を感じているから苛立っているのか、理由はわかりません。

来週は、すでに血液検査で異常がなかったチャチャーの手術が火曜日の予定で、問題が無ければ、ミミの手術は、水曜日か木曜日になりそうです。

とにかく4匹ですから、いろいろと大変ですが、無事に終われば、それからは、楽になるはずです。

避妊手術を受けると、肥満の可能性が高いそうで、ダイエット用のエサに換える必要があると医師はいっています。

とにかく、あと2匹が無事に手術から戻れるようにと祈るだけです。

2017年9月7日木曜日

その後のクロ

避妊手術を受けたクロですが、4姉妹の中では、一番体格もいいし、体力もあります。跳躍力がすごくて、1度2メーター50くらいを見事に飛びました。

手術をして医師からも、非常に体力もあるし、暴れることもなく、いい子だと褒められました。

手術代は、子宮と卵巣を切除して1500バーツ。手術前に行う血液検査代が500バーツ。そして、お薬代が75バーツ。入院代が、1泊200バーツとのことでした。

最初の予定では、ある程度傷が癒えるまで3~4泊させようかと思っていましたが、1泊したあと、全く水も食事もしないで、じっとしているとのことで、普段から食器の位置を変えるだけで食べないような繊細さなので、思い切って、帰宅させました。

家につくなり、水をいっぱい飲んでくれたし、食事もしました。思いのほか元気で、傷跡に貼っているプラスターを舐めたりもせず、とてもいい子にしてくれています。


とにかく、じっとして寝てくれます。たまに、寝返りというか、場所を変えたりしますし、手術跡が開くのではと心配になるくらい、高いところにジャンプします。

これが手術のあとに貼られたプラスターです。







傷の下側に、こうして腫れている部分があり、リンパ液がたまっているのか、この腫れがひいたら、完治となるのでしょうか?






傷を舐めようとしないので助かっていますが、一応、スカーフで、傷のまわりをカバーしています。






わかりにくいですが、わたしの座っているソファーの肘掛けに来てわたしの左手に身体を寄せ、尻尾を巻き付けるようにして寝ます。





化膿止めの抗生物質と痛み止めの薬を飲ませるのは、いつもながら大変な作業ですが、なんとか飲ませることも出来ているし、今のところ、問題はありません。

おしっこも一度行きました。

問題は、他のネコたちで、チャチャーが、おかしいです。クロだけでなく、他のネコにも、フゥーと威嚇しています。クロがいる寝室に寄りつかず、今までに無い行動です。

何かを感じているのか、クロが持ち込んだ他の動物の匂いなのか、原因はわかりません。

ミミは、以前からクロと仲がよくないですし、今は、女の子の時期で、一人、外を見ている時間が長いです。

次の手術予定は、ネネで、昨日すでに血液検査をしていて、その結果に問題が無ければ、今日手術の予定です。そのため、昨夜から食事と水を与えないようにしなければならないから、他の猫には与え、ネネには与えないという変則になってしまい、いろいろと面倒ですが、しかたがないです。

先ほど医師から連絡があり、血液検査に異常なしで、これからネネを手術に連れて行きます。

2017年9月5日火曜日

避妊手術

我が家の4姉妹ですが、すでに3才になっています。











ずっと屋内で飼ってきていますが、一度だけ、クロが、逃げ出したことがありました。すぐに気が付いて、追いかけましたが、いろいろと呼びかけても、知らん顔で、近所の屋根の上を行ったり来たりしていました。

屋根を見上げてウロウロしたので、近所の人からどうしたんですかと声をかけられました。

そのうち、姿が見えなくなってしまい、とても心配でしたが、どうすることもなく、家でスタンバイしていました。

ベランダから、隣のベランダに飛び移っていったようで、また、ベランダに戻ってくるのではないかとベランダで待っていましたところ、1時間もしないうちに、また近所の家の屋根の上に姿を見せました。

以前、レザーポインターの光に反応して追いかけることを思い出し、レザーポインターを使って、近くまでおびき寄せて、捕まえることに成功しました。

生後1年くらいで、すでに妊娠可能だったので、とても心配でした。

その後、家中の猫が逃げる可能性のある隙間すべてに、プラスティックの網を張って、逃げ出さないようにしています。

といっても、人の出入りのスキに逃げ出す可能性はゼロではないわけで、避妊手術を受けさせることも何度も考えましたが、家のものが、反対していました。

本人が、何度も開腹手術を受けてきているので、猫がかわいそうだというわけです。まあ、その気持ちは理解できるから、強くは言えません。

でも、最近、ネコたちの交尾期が、やけに頻繁かつ長期にわたるようになってきていて、もう、いつもどの子かが交尾期といった状態で、最近は、お腹の底から絞り出すような声を上げるので、近所迷惑になるのではないかと、相談して、避妊手術を受けさせることに決めました。

とりあえず、今日は、クロをクリニックに連れて行きました。

昨夜から、食事と水を与えないようにしたのですが、他の3匹もお付き合いで、みんなお腹が減っているし、水も飲みたかったようです。

医師の話では、めったにはないことですが、麻酔に対するアレルギーなどで、手術後、回復しないで死んでしまうケースもあるとのこと、万が一のことがあっても、医師には責任がないという同意書に署名を求められました。

人間でも、検査や手術の前には、こういった同意書への署名を求められますが、いろいろと心配しますよね。

いくら確率は低いと言われても、ネコにとっては、生きて帰るかどうかのどちらかです。4匹もいるので、確率は上がります。

もう手術をお願いした以上、祈るだけですが、手術を待つのは、すごいストレスです。

もし、何かがあったら、残り3匹の手術は、しないでしょうけど、でも、万が一逃げ出して、妊娠をしたら、3~6匹くらい生まれてくるだろうし、そうなれば、もらい手を探すのも大変です。

無事に手術が終わるかどうかは、日頃の行いが問われるような気もして、いろいろと反省してしまいます。

夕方には、結果を知らせてもらうことになっています。

とりあえず、クロの避妊手術は無事成功し、意識も戻りましたが、まだ、普通に歩くことは出来ません。

入院は、傷の治りを見ながら3~4日かかりそうです。

2017年9月3日日曜日

旅行の形態

日本人は、古くから旅行が好きな民族で、神道と旅行とは、深い関係があります。

お伊勢参りに代表されますが、富士山や御嶽山など、山岳信仰も盛んで、近所の人たちとか家族を誘って出かけて行きました。

そうした旅には宿や食事や遊興施設なども必要で、一緒に発展をしてきています。温泉も、旅の目的としては、かなり重要です。

日本の旅行の基本は、団体旅行といっていいと思います。国内旅行でも海外旅行でも団体旅行が盛んでしたが、いつの頃からか、個人旅行も増えてきて、今では、個人旅行の方が、海外旅行では多いかもしれませんね。

個人といっても、一人とは限らず、数人で行く場合もありますし、個人の寄せ集めの団体もあります。

旅の基本は、まず移動手段で、昔の旅は、歩くのが基本。ですから、普通の人が歩ける距離ごとに宿が生まれました。

現在の国内旅行といえば、バスとか鉄道ですね。バス旅行は、便利です。

海外旅行となれば、もうほとんどは飛行機です。例外として船旅もありますが、まだまだマイナーでしょうね。

飛行機も、最近では、LCCが増えていて、かなり安く移動できます。

海外旅行の場合、基本、自宅から空港までの移動があって、空港での待ち時間もあります。飛行機に乗っている時間よりも、そうした国内の移動時間や待ち時間が長いときもあります。

目的地についても、入国手続きや預けた荷物を手にするまでの時間、そして、空港から宿泊先までの移動時間なども、なかなか疲れますよね。

海外旅行、特に個人旅行ですと、目的地の空港から宿泊先までが、けっこうたいへんで、トラブルも多いです。

宿泊先も、海外の場合には、ほとんどがホテルで、事前に予約している人がほとんどでしょう。ホテルは、超高級ホテルから、かなり安いところまでいろいろです。

わたしが、ヨーロッパに行った1970年代ですと、貧乏旅行をする人は、だいたいユースホステルに泊まりました。

一部屋に二段ベッドが4つとか10とかすごいところでは、体育館のようなところに簡易ベッドを数十並べただけのところもありました。

トイレとシャワーは共同です。

自炊できるところもあれば、朝食と夕食を有料でサービスするところもありました。

世界中から、若者たちが集まっていますから、知らない同士でもすぐにうちとけて、楽しい場でした。本には載っていない新鮮な情報もゲットできます。

当時の貧乏旅行者のバイブルは、一日5ドルの旅という本でした。

ただ、なれないうちは、外国人の強烈な体臭に苦しみましたが、でも、そんなの気にならなくなるくらい昼間歩いていますから、すぐに熟睡しちゃいます。

フランスのパリなんかでは、ユースホステルよりも、星なしの安ホテルの方が安かったです。わたしの泊まった星なしは、1泊11フランでしたが、友人は、1泊8フランのところを探して泊まっていました。確か、当時のパリ郊外のユースホステルは18フランだったと記憶します。

わたしの泊まった星なしホテルは、セーヌ川の南側カルチェラタンにあり、学生街といわれる地域で、ノートルダム寺院まで徒歩でわずかでした。

ロケーションは最高でしたが、ベッドには、人型の凹みがあって、寝返りがうてない状態ですし、トイレもシャワーも共同でした。

でも、カフェオレとクロワッサンの朝食付きで11フランは、当時としても格安でした。1週間ほど滞在して、地図を見ながらメトロを利用したり、とにかく歩き回りました。

究極の宿泊となると、キャンプとか野宿です。最近は、いろいろと規制されているようですが、わたしは、何度も常時携帯している寝袋で野宿をした経験がありました。

怖いのは、寒さよりも恐怖です。一人での野宿は、命がけの決意が必要です。あとは、空腹と喉の渇きで、水と非常食は必要です。

ロンドンでは、B&Bという形態、ベッドアンドブレックファーストというのが、普及していて、一般家庭の一部屋を朝食付きで提供している、現在のAirbnbのビジネスモデルが、すでにかなりありました。

最近流行りのビジネス形態は、既成のビジネスをインターネットにつながったスマホと専用アプリで結ぶサービスが多いですね。

GrabTaxiなんかも同じような形態で、それを個人の車に発展させたのが、Uberって感じかな。

個人の車に同乗させてもらうといえば、ヒッチハイクです。これは、うまくいくときは非常に便利ですが、危険もあるし、リスクもあります。

Airbnbなんかでも、Uber なんかでも、基本信頼関係の上に成り立つビジネスで、悪党が入ってくれば、非常にもろい部分もあります。

何かあったときの補償とか責任の所在が、これからの問題点でしょうね。

ドイツは、ヒッチハイクがしやすい国でしたが、一度など、アウトバーン(日本の高速道路)の途中で下ろされてしまって、下の一般道に降りるところも見付からず、空からは警察のヘリコプターから警告されるはで、大変な思をしたこともありました。

鉄道なんかだと、StudentPassとかEurailPassとかがありました。一定期間乗り放題の定期券です。こうしたサービスをネットで簡単に予約・購入できるサービスはすでにあるかもね。

船も豪華客船で行く船の旅でない、大型のフェリーというのは、意外と多いです。フィンランドからスウェーデンとか、スウェーデンからドイツとか、イギリスからベルギーとかは、フェリーで移動しました。

レンタカーやレンタルバイクもありますが、事故の危険はあります。

パリとかロンドンとかの大都市ですと、公共交通を利用して、あとは、地図を片手にひたすら歩くというのも楽しい旅行です。今ならスマホで充分でしょうね。

食べることも、現在のスマホ時代は、便利ですね。検索すれば、いくらでも見つけられるし、行き方もわかります。でも、こちらも、最近話題になった評価の真偽については、これからも話題になっていくでしょう。

観光に関しても、観光バスで乗り付けてガイドさんの説明を聞く方式だけでなく、個人でいく人も多くなるでしょう。時間にとらわれず、自分のペースで好きなところを見て回れますから、時間があれば便利です。

でも、ガイドがついていないとは入れないところもありますし、一人だと、いろいろと面倒だしリスクもあります。

旅行も、用意されたものから、自分の希望通りへと変化しているし、見るから体験するに変わってきています。

カルチャー教室系は、人気ですね。日本だと、着物着付け体験とか、武術入門とか、タイですと、タイ式ボクシング体験やフルーツカービング教室などが人気です。

写真や動画を撮ってSNSにアップするという目的での旅行も増えそうです。どこで撮れば見栄えがするのかを世界的に網羅するサービスなんかもビジネスチャンスかも。


















今は、座っていても、世界中のいろいろなことを調べられるし、疑似体験も出来る時代ですが、やっぱり、実体験は素晴らしいものです。

「書を捨てよ町へ出よう」とか「見る前に跳べ」とか、かっこいいフレーズが、背中を押してくれた時代でしたが、いろいろな体験は、視野を広げてくれるし、歳をとってからでは出来ないこともたくさんあります。

「若者よ旅に出よう」 ただし、期間限定で。

2017年8月31日木曜日

2017年世界柔道選手権大会

ハンガリーのブダペストで行われている2017年世界柔道選手権大会ですが、日本選手が活躍しています。

柔道も外国選手が多く、理事たちもいろいろで、柔道のルールもおかしなものになってしまっていましたが、最近になって、しっかり組み合って、本来の柔道としての投げによる勝敗を重視しているので、見ていてもおもしろいです。

組み手が重要なので、組み手争いが長引くと、つまらないですが、組み手をしっかりとったあとのワザの掛け合いは、本当におもしろいです。

国内でも若手が育っているので、海外の大会に出場するのも大変で、どんなスポーツでも同じですが、大きな怪我が最大の敵です。

世界選手権66キロ級に登場しチャンピオンになった阿部一二三選手は、顔立ちも端正ですし、まだ20歳なのに態度も堂々としているし、とにかく、ワザの切れ味がすごいです。

妹さんが、高校生で注目されている阿部詩選手です。兄妹で東京オリンピックのゴールドメダリストになれると思うので、怪我をしないように鍛錬を続けて欲しいです。

阿部詩選手に勝ったことなどで世界選手権に出場した志々目愛選手が、52キロ級で同門の角田夏実選手に勝って世界チャンピオンになっていますが、準決勝では、リオのオリンピック。ゴールドメダリストのコソボのマイリンダ・ケルメンディに9分30秒に及ぶ激闘の末勝利したのはすごいですし、対外国人選手に対する34連勝もすごいです。

角田夏実選手は、ちょっと変わった選手で、得意技は関節技です。大学で、サンボや柔術の試合にも出ていた卒業生の練習を見て興味を持ち、サンボや柔術の練習も取り入れたことで、寝技からの関節技が得意になって、試合で勝てるようになったそうです。

プロの格闘技を見てもわかりますが、殴る蹴るよりも、勝つためには、寝技からの関節技が、かなり有効です。

阿部詩選手も、角田夏美選手に何度か関節技で負けています。

女子57キロ級の芳田司選手は、決勝で、モンゴルのドルジスレンと対戦し13分近い激闘の末、負けちゃいましたが、相手の怪力としつこさに軍配を認めざるを得ませんでした。

男子73キロ級の橋本壮市選手は、一瞬の隙を見逃さないすごさで世界チャンピオンでした。

あんまり日本が勝ちすぎると、また、日本叩きのルール変更につながるから、困っちゃいますね。

2017年8月30日水曜日

ヨーロッパから3年ぶりに帰国

1973年3月3日に横浜を出発してからおよそ3年ぶりに帰国することになりました。

当時からよく言われていたんですが、最初の3ヶ月を過ぎると、次は3年、それを過ぎると、もう帰国する可能性がどんどん少なくなるといわれていました。

このままでいいのかとか、いろいろと考えた時期で、結論は、帰国でした。

当時はデンマークのコペンハーゲンに滞在していたので、安い片道チケットを探し、ALIA ロイヤルヨルダン航空の事務所で羽田までの片道航空券を購入しました。












チケットには、料金が書かれているのですが、文字が消えかかっていて判読できません。

購入日は、1976年の1月5日で、コペンハーゲン発が、1月25日午前11:00になっています。

チケットにある経由地は、ヨルダンのアンマンとタイのバンコクになっていて、バンコクでは、チャバリットホテルに1泊のストップオーバーとなっています。

バンコクからは、今はもうないタイのAIR SIAM航空に乗り換えて羽田に1月27日に到着予定です。

横浜からの出発も1人でしたが、ナホトカまでの船内で、いろいろな日本人たちと知り合うことが出来、本当の意味では1人でもなかったのですが、日本に帰る時には、正真正銘、日本人はたった1人でした。

帰国するだけなので、淋しくもなかったのですが、ボーイング707の最初の経由地ドイツのフランクフルト空港では、ちょっと身震いすることが起きました。

飛行機が空港に着陸して、窓の外を見ると、外は雪でしたが、飛行機は、なかなか停止せず、空港ビルからどんどん離れていって、まわりに装甲車が止まっているところに停止しました。

すると、自動小銃を持った軍人のような一団が機内に乗り込んできて、機内をチェックしてまわりました。

1972年9月のミュンヘンオリンピック事件のようなことが起きるのかと、本当に怖かったです。

でも何事もなく、飛行機はヨルダンのアンマン空港に向け出発で、一安心でした。こういった時に外国人の中たった1人の日本人というのは、心細いモノでした。

コペンもフランクフルトも雪でしたが、アンマンは、夜中なのに猛暑。厚手のコートを着ていたので、暑かった。

待合室でかなり待たされましたが、そこはまさに中東で、わたしにとっては、アリババと40人の盗賊の世界で、中東の人たちの服装や空港の待合室なのにヒツジを連れた人がいて驚きました。

バンコクも、暑かったですが、空港から用意されたマイクロバスに乗せられて、バンコク市内のホテルへ向かう車内で、ガイドのような西洋人が、バンコクには、ジプシーのような女性が近寄ってきてスリをするから気をつけろとか、興味深い話をしてくれました。

案内されたホテルは、当時のわたしにとっては、超高級ホテルで、ツインルームに1人。冷房完備にバストイレ付きですし、航空会社の食事クーポンまでついていました。

そして、翌日の朝食後、再びバンコクの空港まで送ってもらい、今度は、VG902便ボーイング747ジャンボジェットで、香港・台北を経由して羽田までの快適な空の旅でした。











生まれて初めて乗ったジェット機が、ハバロフスクからモスクワまで乗ったソ連のイリューシン。機体全体が、ブリキのようなイメージの飛行機でした。フライトアテンダントも中年の通路いっぱい体型のおばさんでした。

次が、ロイヤルヨルダンのボーイング707でかなり狭かったです。それで、エアーサイアムのジャンボですから、まあ、大きさと豪華さに驚きました。タイ人のフライトアテンダントは、若くてスタイルもいいですし、眺めているだけで疲れも癒やされました。

当時は、バンコクから日本までは、香港か台北、または両方に寄港していました。

日本の羽田も生まれて初めてでしたが、そこはすでに日本で、やっと帰ってきたと一安心でした。長くて短かったヨーロッパの約3年、楽しい思い出がほとんどでした。

しかし、今になって思うのは、ヨーロッパに行ってきますと親に告げてでていって、3年間に金の無心以外に手紙もほとんど書かず、電話したのは1度だけでしたから、なんと親不孝をしたことかと、親がいなくなった今でも、大いに反省です。

電子体温計

子どものころ、体温計を使うときには、ワキなどに挟んで何分も待っていた記憶があります。しかし、最近の電子体温計は1分も経たずに「ピピピピッ!」と体温を表示してくれますよね。これ、どういう仕組みになっているのでしょう?

子供の頃は、水銀式の体温計で、割れると中から水銀がこぼれ落ちてきて、それがコロコロと転がっておもしろかったですが、水銀は有毒だから、絶対に口に入れてはいけないといわれました。

もしも水銀がでてきたら、水銀からの蒸気を吸わないように気をつけて、ティッシュで包んで、二重のビニール袋に密閉し、電池などと一緒にゴミとして出すのがいいそうです。金属などに触れると、金属が腐蝕したりするから気をつけた方がいいとのこと。

使う前には、必ず体温計を振って表示される温度を下げましたが、あまり強く振ると、中の水銀が、2つとか3つに別れてしまうこともありました。

アメリカ映画とかテレビドラマでは、体温計を口に入れて計るシーンがあって、うらやましかったけど、日本では、脇の下で計るのが普通でした。

一軒に体温計がひとつの時代だと、家族がみんなで使いますから、脇の下が衛生的ですね。

温度計などは、赤いアルコール式だったと記憶します。でも、実は、アルコール温度計、赤液温度計と言われていますが、アルコールが使われていることは少なく、感温液の多くは石油系のものが使用されているそうです。

いつの頃からか、電子式になりましたが、電子式でも、検温に時間がかかるタイプと、あっという間に体温が表示されるタイプとがあります。

一番左のは耳の穴で測るタイプ。

真ん中の2つは時間がかかる。

一番右は、あっという間に検温。




最近のタイの病院では、おでこに赤外線を当てるタイプが多いです。

わたしは、料理の時に油の温度を測ったりするための赤外線温度計を持っていますが、それでおでこの温度を測ると、かなり低めに表示されて、使い物になりません。

一度、あっという間に検温できるタイプを使ってしまうと、いくら時間をかけて計る方が正確度が高いといわれても、古い時間のかかるタイプは、使いたくないです。

上記のサイトを見ると、あっという間に体温が表示されるタイプは、多くのデータからの予測体温だそうで、やはり、本当に正しい体温ではないようですが、だいたいの体温で、例えば39度だったら病院に行くでしょうし、普通の基準にはなるはずです。

電子式の体温計は、電池を替えることが出来るものが多いですから、長く使えます。

2017年8月27日日曜日

The Hollies

昔の写真などを整理していたら、興味深いモノを発見しました。











1960年代に数々のヒットを飛ばしたイギリスのグループThe Holliesのバンコク公演を見に行っていました。

ホリーズといえば、Bus Stopとか、Carrie AnneとかThe Air That I BreatheとかHe Ain't Heavy, He's My BrotherとかSorry Suzanneなどなど、世界中でヒットしました。










古い写真を整理していて、このグループは、誰だろうと、ずっとわからないままでしたが、やっと今日になって、彼らがThe Holliesだったんだとわかりました。

今のバンコクには、巨大なコンサートホールも幾つかありますが、当時は、高校の体育館程度のところでの公演で、タイでは、あまり知っている人たちもいないようで、ガラガラで、世界的なグループに申し訳ない感じでした。

当時は、日本のアリスもバンコクで公演をしていますが、彼らは、記憶に間違いがないのなら、もう少し大きなタマサート大学のホールでの公演でした。

席が悪く、撮った写真は、ほとんど何も見えないモノばかりでした。

今日は、いろいろな捜し物が見付かり、胸のつかえが取れました。

2017年8月26日土曜日

日記と写真

人生も終わりが近付いてくると、いろいろと昔のことを思い出します。

ところが、歳をとると記憶力が低下するし、何度かの引っ越しや身の回りのものの整理で、あったはずなんだがなあと思ったものが出てきません。

1973年3月3日に、横浜大桟橋から5000トン級のソ連の客船ジェルジンスキー号に乗ってナホトカに向かい、そこから、ヘルシンキまで、インツーリストのツアーで生まれて初めての海外旅行をしたわけですが、その時の写真や旅程などが、見付かりません。

パスポートを見ると、日本への帰国は、1976年1月27日でした。










出てきたのは、こちら


乗船券







歓迎のメッセージ








船内での食事時間の案内









船内の写真もないし、列車の写真もないし、飛行機に乗ったときの写真もない。

モスクワでは、写真を撮った記憶はあるのだけど、写真が出てきませんし、泊まったホテル名さえも定かではないです。

人生、日記というほどかしこまったものでないにしても、簡単なメモ程度でも残しておいた方がいいですよね。

ネットで検索すると、同じようなコースでヨーロッパに行った人たちのサイトもたくさん見付かりますが、みんなしっかり写真を撮っているし、細かなことまで記憶しているので、驚きます。

当時は、デジカメではなかったので、現像代もバカにならなかったわけですが、でも、写真も、いっぱい撮って残しておいた方が、老後の楽しみになります。

人生やり直せるのなら、あの時の旅をもう一度やって、メモをしっかりとって、写真をいっぱい撮りたいです。

ジェルジンスキー号の思い出といえば、横浜を出てから船のまわりを飛ぶカモメの数がすごかったこと、津軽海峡を渡る頃には、ものすごい波で、大きな客船が波の上に乗ると、360度、まわりは空ばかりで海が消え、波の下になると、360度まわり全部が海で、恐ろしかったです。

食事の時の牛肉が固かったこと、リンゴジュースばかり出てきて食傷気味になったことなども思い出します。

あと、4人部屋に2人でしたが、同室のSさんが、ひどい船酔いで、一晩中ベッドとトイレを行き来していたこと、船に酔わなかったけど、ベッドの上で左右にゴロゴロと転がされて、嘔吐の音も聞こえたし、ほとんど眠られませんでした。

ナホトカ港は、メチャクチャ寒かったです。

戦争に負けたあと、満州などからシベリアに連行されて強制労働をさせられた日本兵や民間人たちのことを考えると、本当に大変だったろうなと胸が痛みます。


その後、茶革の手帖がでてきて、以下のことがわかりました、

1973年3月3日  11:00AM 横浜大桟橋出港

3月4日      船中泊

3月5日      17:00  ナホトカ着
          20:00  列車にてナホトカ発

3月6日      11:05  ハバロフスク着
          15:05  国内線でモスクワへ
          16:25  モスクワ着

3月7日           モスクワ泊

3月8日       23:40  モスクワ発の国際列車にて出発

3月9日       15:05  ヘルシンキ着

ケーンの話(ラオスの民話から)

 昔々、ある所に小さな村があり、そこに一人の醜い男の子がいました。男の子は、醜い顔をしていましたが、竹笛を吹くことがとても上手でした。村の人々は、この男の子が、上手に竹笛を吹くことは、知っていましたが、その子の醜い顔を誰もみたことがありませんでした。その子は、人前では、醜い顔を誰にも見られないように、いつも俯いていました。その子は、森の中に住んでいて、夜になると、真っ暗な森の中でいつも美しい曲を吹いて、村人たちを楽しませてくれました。

 ある時、醜い男の子は、別の村に行って、夜になってから、竹笛を吹き始めました。この村には、とても美しい一人の娘がいました。彼女は、美しい竹笛のメロディーを聞いて、まだ見ぬ竹笛を吹いている人に恋をしました。彼女は、竹笛を吹いている人と結婚したくなり、使いをやって、彼に結婚を申し込みました。彼は、この美しい娘をすでに見ていたので、喜んで承諾しましたが、結婚式を新月の夜にする条件を付けました。娘にとっては、そんなことは、たいした問題ではないので、二人の結婚が決まりました。

 暗闇の中での結婚式が終わって、娘が始めて、男の顔をを見たときに、娘は、驚きのあまりに悲鳴を上げました。娘が結婚をしたはずの男ではなく、悪魔が、花婿に代わって、目の前にいると思ったからです。

 男は、この結婚が、なりたたないことを感じて、とても悲しみました。

 仕方なく、彼は、再び森の中に戻ってゆきました。一人になると、思い出すのは、美しい娘の姿でした。彼は、その思いを竹笛に込めて、一生懸命吹きました。それから、毎晩、彼女の住む村の近くに行って、古い井戸の近くに座って、竹笛を吹くようになりました。満月の夜になると、彼の娘への思いが、いつも以上に高まって、それは、それは、美しいメロディーとなりました。彼が、井戸の中を覗き込むと、水面に娘の顔が浮かんで、彼は、ますますせつなくなりました。

 しかし、彼が、娘の顔を見ることは、このようにして、竹笛を吹きながら、井戸の中を覗き込むことだけだとわかっていたので、だんだんとそれに満足するようになりました。その内に、彼がうまく竹笛をふいたときに、娘の顔が、ますます美しくなることを発見して、一つの考えが浮かびました。

 何本かの竹笛をつなぎあわせて、それぞれの笛の音程を変えたら、きっとすばらしいメロディーになるに違いないと思いました。早速、男は、何本かの笛をつなぎあわせて、新しい楽器を作り出しました。











 それからは、男は、毎晩、いつもの古井戸のある所に座って、新しい楽器を吹いて、美しいメロディーを村人に聞かせるようになりました。彼のメロディーが、流れはじめると、まるで、すべての花が、甘く匂うようでした。村の男たちは、それぞれに村の娘たちに恋をして、みんな幸せに暮らしはじめました。

 竹笛を吹く男は、亡くなるその日まで、井戸の中を覗き込んでは、愛しい娘のことを思い、新しいメロディーを吹き続けました。

 彼が亡くなった翌日、村人たちは、古井戸のところで息絶えていた、彼を発見しました。彼は、彼が作り出した、何本かの竹笛を連ねて作った新しい楽器を握り締めていました。

 これが、ラオスのいたるところで、今でも村人たちが、集まって楽しんでいる、竹笛(ケーン)が、出来あがった物語です。


Copyright(c) 1997 北風剛
無断複製、無断頒布厳禁

国際寝台特急列車

1984年11月5日に、16:10バンコク中央駅発、マレーシアのバターワース行きの国際寝台列車に乗りました。










わたしが乗ったのは、1等車両17号車の3号室で、1人部屋でした。

運賃は、874バーツに、1人部屋使用料320バーツと冷房車追加料金30バーツの計、1,224バーツでした。片道料金です。

コンパートメントは、通路に面してドアがあり、そのドアの横には、ネームプレートがあって、わたしの名前が書かれた紙が入っています。










部屋には大きなソファーがあって、そのソファーの背もたれ部分を下にずらして、簡易ベッドにするタイプでした。

ソファーの廊下側と車両の外側に窓があり、外側の窓は二重ガラスになっていました。どちらにもカーテンがついていました。

廊下側の窓の隣には、ベッドランプ。ソファーの上の方には、荷物を置く棚がありました。外側の窓の横には枕。

外側の窓の隣には、引き出し型の洗面器があり、その上にテーブルと、鏡とスイッチ類、そのまた上に、冷房交渉時用の扇風機がついていました。

車内の冷房は、かなり聴いていて、夜はそうとうに寒くなりそうな予感でした。

17号車は、最後尾で、ヨーロッパで乗った普通の列車のコンパートメントと比べると、かなり豪華でした。といっても、寝台車には乗ったことがなくて、向かい合わせの長いすの座る部分をひっぱり出して、身体を伸ばして寝るだけのタイプしか知りません。

列車は、5分遅れで出発しました。マレーシアのバターワースまでは、約26時間の旅になります。

窓から見える風景は、バンコクを抜けると、もう、いつ見ても同じような田園風景で、すぐに飽きました。そのうち外も暗くなって、することもなくなりました。










ひたすら読書。

車掌さんが、焼きめしを販売していましたので、それで夕食。

17号車には、シャワールームとトイレがついていました。

翌朝、10:15に南タイの商業都市ハジャイに到着。

11:20には、国境のパダンベサールに到着後、タイ側の出国手続きをして、マレーシア側の入国手続きと簡単な荷物検査。

14:00発のバターワース行き列車に乗り換えて出発

19:00バターワースに到着

ただただ疲れた列車の旅、一度だけの経験です。

帰りは、ハジャイまで普通列車で戻って、ハジャイで3泊してバンコクまでは、国内線で帰りました。


2017年8月24日木曜日

パソコン履歴 その6

1996年3月9日にインターネットタイランドの会員になったのですが、当時で会員番号は、すでに4600台ですから、徐々にインターネットをするタイ人も増えていた時期です。

プロバイダーからホームページ用のスペース2MBを無料でもらったので、自分のホームページを作ろうと思い立ちました。

もちろん、ホームページの作り方など知りませんから、本に頼るしかありません。今なら、検索すれば、ためになるサイトはたくさん見付かります。

ホームページの作り方に関する本を読んで、徐々に多少は理解できるようになりましたので、さっそく、本を参考に、自分で、HTML構文を書いてみることにしました。

必要なのは、ウィンドウズ95に入っているメモ帳だけ。

本を手本に
<html>
<head>
<title>~</title>
</head>
<body>
  

 
</body>
</html>

この<body>と</body>の間に、書き込みたいことを書けばいいとのことで、とりあえずTESTと書きました。

そして、それを適当なフォルダを作って、そこに作ったメモ帳の文書をindex.htmlとして保存ですが、ファイルの種類を「テキスト文書」から「すべてのファイル(*.*)」に変更しておきます。そのへんは、すべて本に書いてある通りにしました。

そして、そのファイルをブラウザーで開けば、しっかり画面にTESTがあらわれました。

思いのほか簡単で、あと、文字に色をつけたり、文字の大きさを変えたり、いろいろなアレンジをしました。

本に書かれているタグをいろいろと試していけば、素人でも、出来ることがどんどん増えていきました。


あとは、プロバイダーからもらっていたWS_FTPというソフトでインターネットに接続して、プロバイダーからもらった説明通りにして、FTPの左側にあるファイルを右側に表示されるプロバイダーのスペースに自分のファイルを送れば、自分のURLに自分の作った文字が出てきて感激します。

写真を入れるのは、スペースの容量が少ないから、大変でした。

しかし、いろいろな人のホームページは、とても複雑で、いろいろと凝っているのがうらやましく、どうしたら、あの様なモノを作れるのだろうかと、試行錯誤の日々で、ブラウザーを右クリックで、そのページのソースを見る事ができることを知り、ソースに何が書かれているのかを調べ、いろいろと真似をしてみました。

知識も無いのに、コピー&ペーストですから、ページが表示されなくなったり、おかしなレイアウトになってしまったり、メチャクチャでしたが、でも、いい勉強になりました。












最初から、メーカーのパソコンではじめていたら、パソコンの中身もわからなかったように、最初から、ホームページビルダーなどのホームページ作成ソフトで作っていたら、基本的なHTMLについて理解できなかったと思います。

今は、時代も変わって、メチャクチャ複雑化していて、もうついていけませんし、勉強するには、頭が働かなくなっています。

今、ブログを書いていますが、簡単に作れるブログでも、HTMLの基本がわかると、多少のアレンジは出来ると思います。

古いファイルなども保存していく方なんですが、時々、バックアップをするときに、まとめて削除してしまうクセがあり、保存しておけばよかったと思うモノも少なくないです。

最初の頃作ったホームページを探しましたが、見付かりません。

パソコンの履歴は、ここまでで小休止とします。

パソコン履歴 その5

「パソコンもソフトがなければただの箱」といわれるように、パソコンは、ハードとソフトでセットになって、いろいろな仕事をします。












ハードは、ケースの中に入っていますが、マザーボードとかメインボートと呼ばれる基本の基盤にCPUやメモリーやグラフィックカードやサウンドカードが取り付けられ、専用のコードでハードディスクやCD-ROMやフロッピーディスクが接続されます。











このマザーボードのケースから出ている部分にいろいろな差し込みがあって、モニターをつないだり、キーボードやマウス、スピーカーをつないだりします。

こうしたハードの部分は、寿命が来るまで、ほとんど壊れることはないです。時々起きるのが、マザーボードに使われているコンデンサーが液漏れすることです。

一般的に、パソコンの弱点は、熱に弱いところです。











写真にある2本の円柱のうち左側が液漏れしているので、ハンダごてで外して、同じモノを探してきて付け替えたら、使えるようになったことがありました。

一般のハンダごてですと、もう非常に苦労しましたけどね。専門家は、業務用のハンダごてを使うようです。

わたしは、電気の基本知識も無いし、専門家ではないけど、好奇心が強いので、何でも自分でやってみます。意外と壊れないモノです。

ただ気をつけることは、まず電源を切っておくこと、落とさないこと、静電気に気をつけること。水をこぼさないことなどです。あと、ハンダ付けの時には、有毒ガスが発生することがあるかもしれないので、換気のいいところで作業すること。

こうしたハードを動かす基本が、OSといわれるオペレーションシステムです。時には、ハード固有のドライバーといわれる、ハードを動かすためのプログラムも必要になります。

そして、ハードも進化しますから、進化したハードに相応しい、進化したOSが必要になり、例えば、ウィンドウズ95が、ウィンドウズ98になり、ウィンドウズMEになり、ウィンドウズXPになってと、どこまでも振り回されます。

OSが新しくなると、今まで使えていたハードが使えなくなることがあって、ドライバーの問題がほとんどです。新しいドライバーを提供していればいいのですが、新しいドライバーがないと、そのハードを新しいものに買い換える必要が出たりして、腹立たしいです。

ハードの心臓は、CPU(中央演算装置)で、それを作っているのが、インテルで、インテルとマイクロソフトが、Wintel同盟と呼ばれ、新しいものをお互いに売るために、協力し合っているという話が、昔からあります。

CPUでは、AMDがインテルのライバルです。

今の主流は、ウィンドウズ10ですが、いまだにウィンドウズ7を使っている人も多いです。

わたしが、ウィンドウズを使っているから、ウィンドウズの話ばかりですが、アップルのマッキントッシュ(マック)は、全く別のOSです。

ハードはほとんど壊れませんが、OSは、よくクラッシュしたり、トラブルを起こしますが、ソフトの問題は、また最初から、インストールし直せば、ほとんどの場合、問題解決です。

パソコンがおかしいと思った時は、まず、その時使っているアプリを閉じて、もう一度立ち上げてみるとか、パソコンを再起動させるとかで、かなりのトラブルは解決します。

ウィルスに感染しても同じで、すべてまっさらにすればいいのですが、その場合には、大切なモノまで消えてしまうから、大切なモノは、常に外付けのHDDなどに保存する必要があります。

つづく