ハンガリーのブダペストで行われている2017年世界柔道選手権大会ですが、日本選手が活躍しています。
柔道も外国選手が多く、理事たちもいろいろで、柔道のルールもおかしなものになってしまっていましたが、最近になって、しっかり組み合って、本来の柔道としての投げによる勝敗を重視しているので、見ていてもおもしろいです。
組み手が重要なので、組み手争いが長引くと、つまらないですが、組み手をしっかりとったあとのワザの掛け合いは、本当におもしろいです。
国内でも若手が育っているので、海外の大会に出場するのも大変で、どんなスポーツでも同じですが、大きな怪我が最大の敵です。
世界選手権66キロ級に登場しチャンピオンになった阿部一二三選手は、顔立ちも端正ですし、まだ20歳なのに態度も堂々としているし、とにかく、ワザの切れ味がすごいです。
妹さんが、高校生で注目されている阿部詩選手です。兄妹で東京オリンピックのゴールドメダリストになれると思うので、怪我をしないように鍛錬を続けて欲しいです。
阿部詩選手に勝ったことなどで世界選手権に出場した志々目愛選手が、52キロ級で同門の角田夏実選手に勝って世界チャンピオンになっていますが、準決勝では、リオのオリンピック。ゴールドメダリストのコソボのマイリンダ・ケルメンディに9分30秒に及ぶ激闘の末勝利したのはすごいですし、対外国人選手に対する34連勝もすごいです。
角田夏実選手は、ちょっと変わった選手で、得意技は関節技です。大学で、サンボや柔術の試合にも出ていた卒業生の練習を見て興味を持ち、サンボや柔術の練習も取り入れたことで、寝技からの関節技が得意になって、試合で勝てるようになったそうです。
プロの格闘技を見てもわかりますが、殴る蹴るよりも、勝つためには、寝技からの関節技が、かなり有効です。
阿部詩選手も、角田夏美選手に何度か関節技で負けています。
女子57キロ級の芳田司選手は、決勝で、モンゴルのドルジスレンと対戦し13分近い激闘の末、負けちゃいましたが、相手の怪力としつこさに軍配を認めざるを得ませんでした。
男子73キロ級の橋本壮市選手は、一瞬の隙を見逃さないすごさで世界チャンピオンでした。
あんまり日本が勝ちすぎると、また、日本叩きのルール変更につながるから、困っちゃいますね。
今まで生きてきた中の体験や考えたことなどを綴ります。 あくまでも個人の見解です。 北風剛としての東南アジアの民話も少々。 英語やタイ語の翻訳はいい加減なのであしからず。
2017年8月31日木曜日
2017年8月30日水曜日
ヨーロッパから3年ぶりに帰国
1973年3月3日に横浜を出発してからおよそ3年ぶりに帰国することになりました。
当時からよく言われていたんですが、最初の3ヶ月を過ぎると、次は3年、それを過ぎると、もう帰国する可能性がどんどん少なくなるといわれていました。
このままでいいのかとか、いろいろと考えた時期で、結論は、帰国でした。
当時はデンマークのコペンハーゲンに滞在していたので、安い片道チケットを探し、ALIA ロイヤルヨルダン航空の事務所で羽田までの片道航空券を購入しました。
チケットには、料金が書かれているのですが、文字が消えかかっていて判読できません。
購入日は、1976年の1月5日で、コペンハーゲン発が、1月25日午前11:00になっています。
チケットにある経由地は、ヨルダンのアンマンとタイのバンコクになっていて、バンコクでは、チャバリットホテルに1泊のストップオーバーとなっています。
バンコクからは、今はもうないタイのAIR SIAM航空に乗り換えて羽田に1月27日に到着予定です。
横浜からの出発も1人でしたが、ナホトカまでの船内で、いろいろな日本人たちと知り合うことが出来、本当の意味では1人でもなかったのですが、日本に帰る時には、正真正銘、日本人はたった1人でした。
帰国するだけなので、淋しくもなかったのですが、ボーイング707の最初の経由地ドイツのフランクフルト空港では、ちょっと身震いすることが起きました。
飛行機が空港に着陸して、窓の外を見ると、外は雪でしたが、飛行機は、なかなか停止せず、空港ビルからどんどん離れていって、まわりに装甲車が止まっているところに停止しました。
すると、自動小銃を持った軍人のような一団が機内に乗り込んできて、機内をチェックしてまわりました。
1972年9月のミュンヘンオリンピック事件のようなことが起きるのかと、本当に怖かったです。
でも何事もなく、飛行機はヨルダンのアンマン空港に向け出発で、一安心でした。こういった時に外国人の中たった1人の日本人というのは、心細いモノでした。
コペンもフランクフルトも雪でしたが、アンマンは、夜中なのに猛暑。厚手のコートを着ていたので、暑かった。
待合室でかなり待たされましたが、そこはまさに中東で、わたしにとっては、アリババと40人の盗賊の世界で、中東の人たちの服装や空港の待合室なのにヒツジを連れた人がいて驚きました。
バンコクも、暑かったですが、空港から用意されたマイクロバスに乗せられて、バンコク市内のホテルへ向かう車内で、ガイドのような西洋人が、バンコクには、ジプシーのような女性が近寄ってきてスリをするから気をつけろとか、興味深い話をしてくれました。
案内されたホテルは、当時のわたしにとっては、超高級ホテルで、ツインルームに1人。冷房完備にバストイレ付きですし、航空会社の食事クーポンまでついていました。
そして、翌日の朝食後、再びバンコクの空港まで送ってもらい、今度は、VG902便ボーイング747ジャンボジェットで、香港・台北を経由して羽田までの快適な空の旅でした。
生まれて初めて乗ったジェット機が、ハバロフスクからモスクワまで乗ったソ連のイリューシン。機体全体が、ブリキのようなイメージの飛行機でした。フライトアテンダントも中年の通路いっぱい体型のおばさんでした。
次が、ロイヤルヨルダンのボーイング707でかなり狭かったです。それで、エアーサイアムのジャンボですから、まあ、大きさと豪華さに驚きました。タイ人のフライトアテンダントは、若くてスタイルもいいですし、眺めているだけで疲れも癒やされました。
当時は、バンコクから日本までは、香港か台北、または両方に寄港していました。
日本の羽田も生まれて初めてでしたが、そこはすでに日本で、やっと帰ってきたと一安心でした。長くて短かったヨーロッパの約3年、楽しい思い出がほとんどでした。
しかし、今になって思うのは、ヨーロッパに行ってきますと親に告げてでていって、3年間に金の無心以外に手紙もほとんど書かず、電話したのは1度だけでしたから、なんと親不孝をしたことかと、親がいなくなった今でも、大いに反省です。
当時からよく言われていたんですが、最初の3ヶ月を過ぎると、次は3年、それを過ぎると、もう帰国する可能性がどんどん少なくなるといわれていました。
このままでいいのかとか、いろいろと考えた時期で、結論は、帰国でした。
当時はデンマークのコペンハーゲンに滞在していたので、安い片道チケットを探し、ALIA ロイヤルヨルダン航空の事務所で羽田までの片道航空券を購入しました。
チケットには、料金が書かれているのですが、文字が消えかかっていて判読できません。
購入日は、1976年の1月5日で、コペンハーゲン発が、1月25日午前11:00になっています。
チケットにある経由地は、ヨルダンのアンマンとタイのバンコクになっていて、バンコクでは、チャバリットホテルに1泊のストップオーバーとなっています。
バンコクからは、今はもうないタイのAIR SIAM航空に乗り換えて羽田に1月27日に到着予定です。
横浜からの出発も1人でしたが、ナホトカまでの船内で、いろいろな日本人たちと知り合うことが出来、本当の意味では1人でもなかったのですが、日本に帰る時には、正真正銘、日本人はたった1人でした。
帰国するだけなので、淋しくもなかったのですが、ボーイング707の最初の経由地ドイツのフランクフルト空港では、ちょっと身震いすることが起きました。
飛行機が空港に着陸して、窓の外を見ると、外は雪でしたが、飛行機は、なかなか停止せず、空港ビルからどんどん離れていって、まわりに装甲車が止まっているところに停止しました。
すると、自動小銃を持った軍人のような一団が機内に乗り込んできて、機内をチェックしてまわりました。
1972年9月のミュンヘンオリンピック事件のようなことが起きるのかと、本当に怖かったです。
でも何事もなく、飛行機はヨルダンのアンマン空港に向け出発で、一安心でした。こういった時に外国人の中たった1人の日本人というのは、心細いモノでした。
コペンもフランクフルトも雪でしたが、アンマンは、夜中なのに猛暑。厚手のコートを着ていたので、暑かった。
待合室でかなり待たされましたが、そこはまさに中東で、わたしにとっては、アリババと40人の盗賊の世界で、中東の人たちの服装や空港の待合室なのにヒツジを連れた人がいて驚きました。
バンコクも、暑かったですが、空港から用意されたマイクロバスに乗せられて、バンコク市内のホテルへ向かう車内で、ガイドのような西洋人が、バンコクには、ジプシーのような女性が近寄ってきてスリをするから気をつけろとか、興味深い話をしてくれました。
案内されたホテルは、当時のわたしにとっては、超高級ホテルで、ツインルームに1人。冷房完備にバストイレ付きですし、航空会社の食事クーポンまでついていました。
そして、翌日の朝食後、再びバンコクの空港まで送ってもらい、今度は、VG902便ボーイング747ジャンボジェットで、香港・台北を経由して羽田までの快適な空の旅でした。
生まれて初めて乗ったジェット機が、ハバロフスクからモスクワまで乗ったソ連のイリューシン。機体全体が、ブリキのようなイメージの飛行機でした。フライトアテンダントも中年の通路いっぱい体型のおばさんでした。
次が、ロイヤルヨルダンのボーイング707でかなり狭かったです。それで、エアーサイアムのジャンボですから、まあ、大きさと豪華さに驚きました。タイ人のフライトアテンダントは、若くてスタイルもいいですし、眺めているだけで疲れも癒やされました。
当時は、バンコクから日本までは、香港か台北、または両方に寄港していました。
日本の羽田も生まれて初めてでしたが、そこはすでに日本で、やっと帰ってきたと一安心でした。長くて短かったヨーロッパの約3年、楽しい思い出がほとんどでした。
しかし、今になって思うのは、ヨーロッパに行ってきますと親に告げてでていって、3年間に金の無心以外に手紙もほとんど書かず、電話したのは1度だけでしたから、なんと親不孝をしたことかと、親がいなくなった今でも、大いに反省です。
電子体温計
子どものころ、体温計を使うときには、ワキなどに挟んで何分も待っていた記憶があります。しかし、最近の電子体温計は1分も経たずに「ピピピピッ!」と体温を表示してくれますよね。これ、どういう仕組みになっているのでしょう?
子供の頃は、水銀式の体温計で、割れると中から水銀がこぼれ落ちてきて、それがコロコロと転がっておもしろかったですが、水銀は有毒だから、絶対に口に入れてはいけないといわれました。
もしも水銀がでてきたら、水銀からの蒸気を吸わないように気をつけて、ティッシュで包んで、二重のビニール袋に密閉し、電池などと一緒にゴミとして出すのがいいそうです。金属などに触れると、金属が腐蝕したりするから気をつけた方がいいとのこと。
使う前には、必ず体温計を振って表示される温度を下げましたが、あまり強く振ると、中の水銀が、2つとか3つに別れてしまうこともありました。
アメリカ映画とかテレビドラマでは、体温計を口に入れて計るシーンがあって、うらやましかったけど、日本では、脇の下で計るのが普通でした。
一軒に体温計がひとつの時代だと、家族がみんなで使いますから、脇の下が衛生的ですね。
温度計などは、赤いアルコール式だったと記憶します。でも、実は、アルコール温度計、赤液温度計と言われていますが、アルコールが使われていることは少なく、感温液の多くは石油系のものが使用されているそうです。
いつの頃からか、電子式になりましたが、電子式でも、検温に時間がかかるタイプと、あっという間に体温が表示されるタイプとがあります。
一番左のは耳の穴で測るタイプ。
真ん中の2つは時間がかかる。
一番右は、あっという間に検温。
最近のタイの病院では、おでこに赤外線を当てるタイプが多いです。
わたしは、料理の時に油の温度を測ったりするための赤外線温度計を持っていますが、それでおでこの温度を測ると、かなり低めに表示されて、使い物になりません。
一度、あっという間に検温できるタイプを使ってしまうと、いくら時間をかけて計る方が正確度が高いといわれても、古い時間のかかるタイプは、使いたくないです。
上記のサイトを見ると、あっという間に体温が表示されるタイプは、多くのデータからの予測体温だそうで、やはり、本当に正しい体温ではないようですが、だいたいの体温で、例えば39度だったら病院に行くでしょうし、普通の基準にはなるはずです。
電子式の体温計は、電池を替えることが出来るものが多いですから、長く使えます。
子供の頃は、水銀式の体温計で、割れると中から水銀がこぼれ落ちてきて、それがコロコロと転がっておもしろかったですが、水銀は有毒だから、絶対に口に入れてはいけないといわれました。
もしも水銀がでてきたら、水銀からの蒸気を吸わないように気をつけて、ティッシュで包んで、二重のビニール袋に密閉し、電池などと一緒にゴミとして出すのがいいそうです。金属などに触れると、金属が腐蝕したりするから気をつけた方がいいとのこと。
使う前には、必ず体温計を振って表示される温度を下げましたが、あまり強く振ると、中の水銀が、2つとか3つに別れてしまうこともありました。
アメリカ映画とかテレビドラマでは、体温計を口に入れて計るシーンがあって、うらやましかったけど、日本では、脇の下で計るのが普通でした。
一軒に体温計がひとつの時代だと、家族がみんなで使いますから、脇の下が衛生的ですね。
温度計などは、赤いアルコール式だったと記憶します。でも、実は、アルコール温度計、赤液温度計と言われていますが、アルコールが使われていることは少なく、感温液の多くは石油系のものが使用されているそうです。
いつの頃からか、電子式になりましたが、電子式でも、検温に時間がかかるタイプと、あっという間に体温が表示されるタイプとがあります。
一番左のは耳の穴で測るタイプ。
真ん中の2つは時間がかかる。
一番右は、あっという間に検温。
最近のタイの病院では、おでこに赤外線を当てるタイプが多いです。
わたしは、料理の時に油の温度を測ったりするための赤外線温度計を持っていますが、それでおでこの温度を測ると、かなり低めに表示されて、使い物になりません。
一度、あっという間に検温できるタイプを使ってしまうと、いくら時間をかけて計る方が正確度が高いといわれても、古い時間のかかるタイプは、使いたくないです。
上記のサイトを見ると、あっという間に体温が表示されるタイプは、多くのデータからの予測体温だそうで、やはり、本当に正しい体温ではないようですが、だいたいの体温で、例えば39度だったら病院に行くでしょうし、普通の基準にはなるはずです。
電子式の体温計は、電池を替えることが出来るものが多いですから、長く使えます。
2017年8月27日日曜日
The Hollies
昔の写真などを整理していたら、興味深いモノを発見しました。
1960年代に数々のヒットを飛ばしたイギリスのグループThe Holliesのバンコク公演を見に行っていました。
ホリーズといえば、Bus Stopとか、Carrie AnneとかThe Air That I BreatheとかHe Ain't Heavy, He's My BrotherとかSorry Suzanneなどなど、世界中でヒットしました。
古い写真を整理していて、このグループは、誰だろうと、ずっとわからないままでしたが、やっと今日になって、彼らがThe Holliesだったんだとわかりました。
今のバンコクには、巨大なコンサートホールも幾つかありますが、当時は、高校の体育館程度のところでの公演で、タイでは、あまり知っている人たちもいないようで、ガラガラで、世界的なグループに申し訳ない感じでした。
当時は、日本のアリスもバンコクで公演をしていますが、彼らは、記憶に間違いがないのなら、もう少し大きなタマサート大学のホールでの公演でした。
席が悪く、撮った写真は、ほとんど何も見えないモノばかりでした。
今日は、いろいろな捜し物が見付かり、胸のつかえが取れました。
1960年代に数々のヒットを飛ばしたイギリスのグループThe Holliesのバンコク公演を見に行っていました。
ホリーズといえば、Bus Stopとか、Carrie AnneとかThe Air That I BreatheとかHe Ain't Heavy, He's My BrotherとかSorry Suzanneなどなど、世界中でヒットしました。
古い写真を整理していて、このグループは、誰だろうと、ずっとわからないままでしたが、やっと今日になって、彼らがThe Holliesだったんだとわかりました。
今のバンコクには、巨大なコンサートホールも幾つかありますが、当時は、高校の体育館程度のところでの公演で、タイでは、あまり知っている人たちもいないようで、ガラガラで、世界的なグループに申し訳ない感じでした。
当時は、日本のアリスもバンコクで公演をしていますが、彼らは、記憶に間違いがないのなら、もう少し大きなタマサート大学のホールでの公演でした。
席が悪く、撮った写真は、ほとんど何も見えないモノばかりでした。
今日は、いろいろな捜し物が見付かり、胸のつかえが取れました。
2017年8月26日土曜日
日記と写真
人生も終わりが近付いてくると、いろいろと昔のことを思い出します。
ところが、歳をとると記憶力が低下するし、何度かの引っ越しや身の回りのものの整理で、あったはずなんだがなあと思ったものが出てきません。
1973年3月3日に、横浜大桟橋から5000トン級のソ連の客船ジェルジンスキー号に乗ってナホトカに向かい、そこから、ヘルシンキまで、インツーリストのツアーで生まれて初めての海外旅行をしたわけですが、その時の写真や旅程などが、見付かりません。
パスポートを見ると、日本への帰国は、1976年1月27日でした。
出てきたのは、こちら
乗船券
歓迎のメッセージ
船内での食事時間の案内
船内の写真もないし、列車の写真もないし、飛行機に乗ったときの写真もない。
モスクワでは、写真を撮った記憶はあるのだけど、写真が出てきませんし、泊まったホテル名さえも定かではないです。
人生、日記というほどかしこまったものでないにしても、簡単なメモ程度でも残しておいた方がいいですよね。
ネットで検索すると、同じようなコースでヨーロッパに行った人たちのサイトもたくさん見付かりますが、みんなしっかり写真を撮っているし、細かなことまで記憶しているので、驚きます。
当時は、デジカメではなかったので、現像代もバカにならなかったわけですが、でも、写真も、いっぱい撮って残しておいた方が、老後の楽しみになります。
人生やり直せるのなら、あの時の旅をもう一度やって、メモをしっかりとって、写真をいっぱい撮りたいです。
ジェルジンスキー号の思い出といえば、横浜を出てから船のまわりを飛ぶカモメの数がすごかったこと、津軽海峡を渡る頃には、ものすごい波で、大きな客船が波の上に乗ると、360度、まわりは空ばかりで海が消え、波の下になると、360度まわり全部が海で、恐ろしかったです。
食事の時の牛肉が固かったこと、リンゴジュースばかり出てきて食傷気味になったことなども思い出します。
あと、4人部屋に2人でしたが、同室のSさんが、ひどい船酔いで、一晩中ベッドとトイレを行き来していたこと、船に酔わなかったけど、ベッドの上で左右にゴロゴロと転がされて、嘔吐の音も聞こえたし、ほとんど眠られませんでした。
ところが、歳をとると記憶力が低下するし、何度かの引っ越しや身の回りのものの整理で、あったはずなんだがなあと思ったものが出てきません。
1973年3月3日に、横浜大桟橋から5000トン級のソ連の客船ジェルジンスキー号に乗ってナホトカに向かい、そこから、ヘルシンキまで、インツーリストのツアーで生まれて初めての海外旅行をしたわけですが、その時の写真や旅程などが、見付かりません。
パスポートを見ると、日本への帰国は、1976年1月27日でした。
出てきたのは、こちら
乗船券
歓迎のメッセージ
船内での食事時間の案内
船内の写真もないし、列車の写真もないし、飛行機に乗ったときの写真もない。
モスクワでは、写真を撮った記憶はあるのだけど、写真が出てきませんし、泊まったホテル名さえも定かではないです。
人生、日記というほどかしこまったものでないにしても、簡単なメモ程度でも残しておいた方がいいですよね。
ネットで検索すると、同じようなコースでヨーロッパに行った人たちのサイトもたくさん見付かりますが、みんなしっかり写真を撮っているし、細かなことまで記憶しているので、驚きます。
当時は、デジカメではなかったので、現像代もバカにならなかったわけですが、でも、写真も、いっぱい撮って残しておいた方が、老後の楽しみになります。
人生やり直せるのなら、あの時の旅をもう一度やって、メモをしっかりとって、写真をいっぱい撮りたいです。
ジェルジンスキー号の思い出といえば、横浜を出てから船のまわりを飛ぶカモメの数がすごかったこと、津軽海峡を渡る頃には、ものすごい波で、大きな客船が波の上に乗ると、360度、まわりは空ばかりで海が消え、波の下になると、360度まわり全部が海で、恐ろしかったです。
食事の時の牛肉が固かったこと、リンゴジュースばかり出てきて食傷気味になったことなども思い出します。
あと、4人部屋に2人でしたが、同室のSさんが、ひどい船酔いで、一晩中ベッドとトイレを行き来していたこと、船に酔わなかったけど、ベッドの上で左右にゴロゴロと転がされて、嘔吐の音も聞こえたし、ほとんど眠られませんでした。
ナホトカ港は、メチャクチャ寒かったです。
戦争に負けたあと、満州などからシベリアに連行されて強制労働をさせられた日本兵や民間人たちのことを考えると、本当に大変だったろうなと胸が痛みます。
その後、茶革の手帖がでてきて、以下のことがわかりました、
1973年3月3日 11:00AM 横浜大桟橋出港
3月4日 船中泊
3月5日 17:00 ナホトカ着
20:00 列車にてナホトカ発
3月6日 11:05 ハバロフスク着
15:05 国内線でモスクワへ
16:25 モスクワ着
3月7日 モスクワ泊
3月8日 23:40 モスクワ発の国際列車にて出発
3月9日 15:05 ヘルシンキ着
ケーンの話(ラオスの民話から)
昔々、ある所に小さな村があり、そこに一人の醜い男の子がいました。男の子は、醜い顔をしていましたが、竹笛を吹くことがとても上手でした。村の人々は、この男の子が、上手に竹笛を吹くことは、知っていましたが、その子の醜い顔を誰もみたことがありませんでした。その子は、人前では、醜い顔を誰にも見られないように、いつも俯いていました。その子は、森の中に住んでいて、夜になると、真っ暗な森の中でいつも美しい曲を吹いて、村人たちを楽しませてくれました。
ある時、醜い男の子は、別の村に行って、夜になってから、竹笛を吹き始めました。この村には、とても美しい一人の娘がいました。彼女は、美しい竹笛のメロディーを聞いて、まだ見ぬ竹笛を吹いている人に恋をしました。彼女は、竹笛を吹いている人と結婚したくなり、使いをやって、彼に結婚を申し込みました。彼は、この美しい娘をすでに見ていたので、喜んで承諾しましたが、結婚式を新月の夜にする条件を付けました。娘にとっては、そんなことは、たいした問題ではないので、二人の結婚が決まりました。
暗闇の中での結婚式が終わって、娘が始めて、男の顔をを見たときに、娘は、驚きのあまりに悲鳴を上げました。娘が結婚をしたはずの男ではなく、悪魔が、花婿に代わって、目の前にいると思ったからです。
男は、この結婚が、なりたたないことを感じて、とても悲しみました。
仕方なく、彼は、再び森の中に戻ってゆきました。一人になると、思い出すのは、美しい娘の姿でした。彼は、その思いを竹笛に込めて、一生懸命吹きました。それから、毎晩、彼女の住む村の近くに行って、古い井戸の近くに座って、竹笛を吹くようになりました。満月の夜になると、彼の娘への思いが、いつも以上に高まって、それは、それは、美しいメロディーとなりました。彼が、井戸の中を覗き込むと、水面に娘の顔が浮かんで、彼は、ますますせつなくなりました。
しかし、彼が、娘の顔を見ることは、このようにして、竹笛を吹きながら、井戸の中を覗き込むことだけだとわかっていたので、だんだんとそれに満足するようになりました。その内に、彼がうまく竹笛をふいたときに、娘の顔が、ますます美しくなることを発見して、一つの考えが浮かびました。
何本かの竹笛をつなぎあわせて、それぞれの笛の音程を変えたら、きっとすばらしいメロディーになるに違いないと思いました。早速、男は、何本かの笛をつなぎあわせて、新しい楽器を作り出しました。
それからは、男は、毎晩、いつもの古井戸のある所に座って、新しい楽器を吹いて、美しいメロディーを村人に聞かせるようになりました。彼のメロディーが、流れはじめると、まるで、すべての花が、甘く匂うようでした。村の男たちは、それぞれに村の娘たちに恋をして、みんな幸せに暮らしはじめました。
竹笛を吹く男は、亡くなるその日まで、井戸の中を覗き込んでは、愛しい娘のことを思い、新しいメロディーを吹き続けました。
彼が亡くなった翌日、村人たちは、古井戸のところで息絶えていた、彼を発見しました。彼は、彼が作り出した、何本かの竹笛を連ねて作った新しい楽器を握り締めていました。
これが、ラオスのいたるところで、今でも村人たちが、集まって楽しんでいる、竹笛(ケーン)が、出来あがった物語です。
Copyright(c) 1997 北風剛
無断複製、無断頒布厳禁
ある時、醜い男の子は、別の村に行って、夜になってから、竹笛を吹き始めました。この村には、とても美しい一人の娘がいました。彼女は、美しい竹笛のメロディーを聞いて、まだ見ぬ竹笛を吹いている人に恋をしました。彼女は、竹笛を吹いている人と結婚したくなり、使いをやって、彼に結婚を申し込みました。彼は、この美しい娘をすでに見ていたので、喜んで承諾しましたが、結婚式を新月の夜にする条件を付けました。娘にとっては、そんなことは、たいした問題ではないので、二人の結婚が決まりました。
暗闇の中での結婚式が終わって、娘が始めて、男の顔をを見たときに、娘は、驚きのあまりに悲鳴を上げました。娘が結婚をしたはずの男ではなく、悪魔が、花婿に代わって、目の前にいると思ったからです。
男は、この結婚が、なりたたないことを感じて、とても悲しみました。
仕方なく、彼は、再び森の中に戻ってゆきました。一人になると、思い出すのは、美しい娘の姿でした。彼は、その思いを竹笛に込めて、一生懸命吹きました。それから、毎晩、彼女の住む村の近くに行って、古い井戸の近くに座って、竹笛を吹くようになりました。満月の夜になると、彼の娘への思いが、いつも以上に高まって、それは、それは、美しいメロディーとなりました。彼が、井戸の中を覗き込むと、水面に娘の顔が浮かんで、彼は、ますますせつなくなりました。
しかし、彼が、娘の顔を見ることは、このようにして、竹笛を吹きながら、井戸の中を覗き込むことだけだとわかっていたので、だんだんとそれに満足するようになりました。その内に、彼がうまく竹笛をふいたときに、娘の顔が、ますます美しくなることを発見して、一つの考えが浮かびました。
何本かの竹笛をつなぎあわせて、それぞれの笛の音程を変えたら、きっとすばらしいメロディーになるに違いないと思いました。早速、男は、何本かの笛をつなぎあわせて、新しい楽器を作り出しました。
それからは、男は、毎晩、いつもの古井戸のある所に座って、新しい楽器を吹いて、美しいメロディーを村人に聞かせるようになりました。彼のメロディーが、流れはじめると、まるで、すべての花が、甘く匂うようでした。村の男たちは、それぞれに村の娘たちに恋をして、みんな幸せに暮らしはじめました。
竹笛を吹く男は、亡くなるその日まで、井戸の中を覗き込んでは、愛しい娘のことを思い、新しいメロディーを吹き続けました。
彼が亡くなった翌日、村人たちは、古井戸のところで息絶えていた、彼を発見しました。彼は、彼が作り出した、何本かの竹笛を連ねて作った新しい楽器を握り締めていました。
これが、ラオスのいたるところで、今でも村人たちが、集まって楽しんでいる、竹笛(ケーン)が、出来あがった物語です。
Copyright(c) 1997 北風剛
無断複製、無断頒布厳禁
国際寝台特急列車
1984年11月5日に、16:10バンコク中央駅発、マレーシアのバターワース行きの国際寝台列車に乗りました。
わたしが乗ったのは、1等車両17号車の3号室で、1人部屋でした。
運賃は、874バーツに、1人部屋使用料320バーツと冷房車追加料金30バーツの計、1,224バーツでした。片道料金です。
コンパートメントは、通路に面してドアがあり、そのドアの横には、ネームプレートがあって、わたしの名前が書かれた紙が入っています。
部屋には大きなソファーがあって、そのソファーの背もたれ部分を下にずらして、簡易ベッドにするタイプでした。
ソファーの廊下側と車両の外側に窓があり、外側の窓は二重ガラスになっていました。どちらにもカーテンがついていました。
廊下側の窓の隣には、ベッドランプ。ソファーの上の方には、荷物を置く棚がありました。外側の窓の横には枕。
外側の窓の隣には、引き出し型の洗面器があり、その上にテーブルと、鏡とスイッチ類、そのまた上に、冷房交渉時用の扇風機がついていました。
車内の冷房は、かなり聴いていて、夜はそうとうに寒くなりそうな予感でした。
17号車は、最後尾で、ヨーロッパで乗った普通の列車のコンパートメントと比べると、かなり豪華でした。といっても、寝台車には乗ったことがなくて、向かい合わせの長いすの座る部分をひっぱり出して、身体を伸ばして寝るだけのタイプしか知りません。
列車は、5分遅れで出発しました。マレーシアのバターワースまでは、約26時間の旅になります。
窓から見える風景は、バンコクを抜けると、もう、いつ見ても同じような田園風景で、すぐに飽きました。そのうち外も暗くなって、することもなくなりました。
ひたすら読書。
車掌さんが、焼きめしを販売していましたので、それで夕食。
17号車には、シャワールームとトイレがついていました。
翌朝、10:15に南タイの商業都市ハジャイに到着。
11:20には、国境のパダンベサールに到着後、タイ側の出国手続きをして、マレーシア側の入国手続きと簡単な荷物検査。
14:00発のバターワース行き列車に乗り換えて出発
19:00バターワースに到着
ただただ疲れた列車の旅、一度だけの経験です。
帰りは、ハジャイまで普通列車で戻って、ハジャイで3泊してバンコクまでは、国内線で帰りました。
わたしが乗ったのは、1等車両17号車の3号室で、1人部屋でした。
運賃は、874バーツに、1人部屋使用料320バーツと冷房車追加料金30バーツの計、1,224バーツでした。片道料金です。
コンパートメントは、通路に面してドアがあり、そのドアの横には、ネームプレートがあって、わたしの名前が書かれた紙が入っています。
部屋には大きなソファーがあって、そのソファーの背もたれ部分を下にずらして、簡易ベッドにするタイプでした。
ソファーの廊下側と車両の外側に窓があり、外側の窓は二重ガラスになっていました。どちらにもカーテンがついていました。
廊下側の窓の隣には、ベッドランプ。ソファーの上の方には、荷物を置く棚がありました。外側の窓の横には枕。
外側の窓の隣には、引き出し型の洗面器があり、その上にテーブルと、鏡とスイッチ類、そのまた上に、冷房交渉時用の扇風機がついていました。
車内の冷房は、かなり聴いていて、夜はそうとうに寒くなりそうな予感でした。
17号車は、最後尾で、ヨーロッパで乗った普通の列車のコンパートメントと比べると、かなり豪華でした。といっても、寝台車には乗ったことがなくて、向かい合わせの長いすの座る部分をひっぱり出して、身体を伸ばして寝るだけのタイプしか知りません。
列車は、5分遅れで出発しました。マレーシアのバターワースまでは、約26時間の旅になります。
窓から見える風景は、バンコクを抜けると、もう、いつ見ても同じような田園風景で、すぐに飽きました。そのうち外も暗くなって、することもなくなりました。
ひたすら読書。
車掌さんが、焼きめしを販売していましたので、それで夕食。
17号車には、シャワールームとトイレがついていました。
翌朝、10:15に南タイの商業都市ハジャイに到着。
11:20には、国境のパダンベサールに到着後、タイ側の出国手続きをして、マレーシア側の入国手続きと簡単な荷物検査。
14:00発のバターワース行き列車に乗り換えて出発
19:00バターワースに到着
ただただ疲れた列車の旅、一度だけの経験です。
帰りは、ハジャイまで普通列車で戻って、ハジャイで3泊してバンコクまでは、国内線で帰りました。
2017年8月24日木曜日
パソコン履歴 その6
1996年3月9日にインターネットタイランドの会員になったのですが、当時で会員番号は、すでに4600台ですから、徐々にインターネットをするタイ人も増えていた時期です。
プロバイダーからホームページ用のスペース2MBを無料でもらったので、自分のホームページを作ろうと思い立ちました。
もちろん、ホームページの作り方など知りませんから、本に頼るしかありません。今なら、検索すれば、ためになるサイトはたくさん見付かります。
ホームページの作り方に関する本を読んで、徐々に多少は理解できるようになりましたので、さっそく、本を参考に、自分で、HTML構文を書いてみることにしました。
必要なのは、ウィンドウズ95に入っているメモ帳だけ。
本を手本に
<html>
<head>
<title>~</title>
</head>
<body>
</body>
</html>
プロバイダーからホームページ用のスペース2MBを無料でもらったので、自分のホームページを作ろうと思い立ちました。
もちろん、ホームページの作り方など知りませんから、本に頼るしかありません。今なら、検索すれば、ためになるサイトはたくさん見付かります。
ホームページの作り方に関する本を読んで、徐々に多少は理解できるようになりましたので、さっそく、本を参考に、自分で、HTML構文を書いてみることにしました。
必要なのは、ウィンドウズ95に入っているメモ帳だけ。
本を手本に
<html>
<head>
<title>~</title>
</head>
<body>
</body>
</html>
この<body>と</body>の間に、書き込みたいことを書けばいいとのことで、とりあえずTESTと書きました。
そして、それを適当なフォルダを作って、そこに作ったメモ帳の文書をindex.htmlとして保存ですが、ファイルの種類を「テキスト文書」から「すべてのファイル(*.*)」に変更しておきます。そのへんは、すべて本に書いてある通りにしました。
そして、そのファイルをブラウザーで開けば、しっかり画面にTESTがあらわれました。
思いのほか簡単で、あと、文字に色をつけたり、文字の大きさを変えたり、いろいろなアレンジをしました。
本に書かれているタグをいろいろと試していけば、素人でも、出来ることがどんどん増えていきました。
例えば、こんなサイトに書かれているようなことです。
あとは、プロバイダーからもらっていたWS_FTPというソフトでインターネットに接続して、プロバイダーからもらった説明通りにして、FTPの左側にあるファイルを右側に表示されるプロバイダーのスペースに自分のファイルを送れば、自分のURLに自分の作った文字が出てきて感激します。
写真を入れるのは、スペースの容量が少ないから、大変でした。
しかし、いろいろな人のホームページは、とても複雑で、いろいろと凝っているのがうらやましく、どうしたら、あの様なモノを作れるのだろうかと、試行錯誤の日々で、ブラウザーを右クリックで、そのページのソースを見る事ができることを知り、ソースに何が書かれているのかを調べ、いろいろと真似をしてみました。
知識も無いのに、コピー&ペーストですから、ページが表示されなくなったり、おかしなレイアウトになってしまったり、メチャクチャでしたが、でも、いい勉強になりました。
最初から、メーカーのパソコンではじめていたら、パソコンの中身もわからなかったように、最初から、ホームページビルダーなどのホームページ作成ソフトで作っていたら、基本的なHTMLについて理解できなかったと思います。
今は、時代も変わって、メチャクチャ複雑化していて、もうついていけませんし、勉強するには、頭が働かなくなっています。
今、ブログを書いていますが、簡単に作れるブログでも、HTMLの基本がわかると、多少のアレンジは出来ると思います。
古いファイルなども保存していく方なんですが、時々、バックアップをするときに、まとめて削除してしまうクセがあり、保存しておけばよかったと思うモノも少なくないです。
最初の頃作ったホームページを探しましたが、見付かりません。
パソコンの履歴は、ここまでで小休止とします。
パソコン履歴 その5
「パソコンもソフトがなければただの箱」といわれるように、パソコンは、ハードとソフトでセットになって、いろいろな仕事をします。
ハードは、ケースの中に入っていますが、マザーボードとかメインボートと呼ばれる基本の基盤にCPUやメモリーやグラフィックカードやサウンドカードが取り付けられ、専用のコードでハードディスクやCD-ROMやフロッピーディスクが接続されます。
このマザーボードのケースから出ている部分にいろいろな差し込みがあって、モニターをつないだり、キーボードやマウス、スピーカーをつないだりします。
こうしたハードの部分は、寿命が来るまで、ほとんど壊れることはないです。時々起きるのが、マザーボードに使われているコンデンサーが液漏れすることです。
一般的に、パソコンの弱点は、熱に弱いところです。
写真にある2本の円柱のうち左側が液漏れしているので、ハンダごてで外して、同じモノを探してきて付け替えたら、使えるようになったことがありました。
一般のハンダごてですと、もう非常に苦労しましたけどね。専門家は、業務用のハンダごてを使うようです。
わたしは、電気の基本知識も無いし、専門家ではないけど、好奇心が強いので、何でも自分でやってみます。意外と壊れないモノです。
ただ気をつけることは、まず電源を切っておくこと、落とさないこと、静電気に気をつけること。水をこぼさないことなどです。あと、ハンダ付けの時には、有毒ガスが発生することがあるかもしれないので、換気のいいところで作業すること。
こうしたハードを動かす基本が、OSといわれるオペレーションシステムです。時には、ハード固有のドライバーといわれる、ハードを動かすためのプログラムも必要になります。
そして、ハードも進化しますから、進化したハードに相応しい、進化したOSが必要になり、例えば、ウィンドウズ95が、ウィンドウズ98になり、ウィンドウズMEになり、ウィンドウズXPになってと、どこまでも振り回されます。
OSが新しくなると、今まで使えていたハードが使えなくなることがあって、ドライバーの問題がほとんどです。新しいドライバーを提供していればいいのですが、新しいドライバーがないと、そのハードを新しいものに買い換える必要が出たりして、腹立たしいです。
ハードの心臓は、CPU(中央演算装置)で、それを作っているのが、インテルで、インテルとマイクロソフトが、Wintel同盟と呼ばれ、新しいものをお互いに売るために、協力し合っているという話が、昔からあります。
CPUでは、AMDがインテルのライバルです。
今の主流は、ウィンドウズ10ですが、いまだにウィンドウズ7を使っている人も多いです。
わたしが、ウィンドウズを使っているから、ウィンドウズの話ばかりですが、アップルのマッキントッシュ(マック)は、全く別のOSです。
ハードはほとんど壊れませんが、OSは、よくクラッシュしたり、トラブルを起こしますが、ソフトの問題は、また最初から、インストールし直せば、ほとんどの場合、問題解決です。
パソコンがおかしいと思った時は、まず、その時使っているアプリを閉じて、もう一度立ち上げてみるとか、パソコンを再起動させるとかで、かなりのトラブルは解決します。
ウィルスに感染しても同じで、すべてまっさらにすればいいのですが、その場合には、大切なモノまで消えてしまうから、大切なモノは、常に外付けのHDDなどに保存する必要があります。
つづく
ハードは、ケースの中に入っていますが、マザーボードとかメインボートと呼ばれる基本の基盤にCPUやメモリーやグラフィックカードやサウンドカードが取り付けられ、専用のコードでハードディスクやCD-ROMやフロッピーディスクが接続されます。
このマザーボードのケースから出ている部分にいろいろな差し込みがあって、モニターをつないだり、キーボードやマウス、スピーカーをつないだりします。
こうしたハードの部分は、寿命が来るまで、ほとんど壊れることはないです。時々起きるのが、マザーボードに使われているコンデンサーが液漏れすることです。
一般的に、パソコンの弱点は、熱に弱いところです。
写真にある2本の円柱のうち左側が液漏れしているので、ハンダごてで外して、同じモノを探してきて付け替えたら、使えるようになったことがありました。
一般のハンダごてですと、もう非常に苦労しましたけどね。専門家は、業務用のハンダごてを使うようです。
わたしは、電気の基本知識も無いし、専門家ではないけど、好奇心が強いので、何でも自分でやってみます。意外と壊れないモノです。
ただ気をつけることは、まず電源を切っておくこと、落とさないこと、静電気に気をつけること。水をこぼさないことなどです。あと、ハンダ付けの時には、有毒ガスが発生することがあるかもしれないので、換気のいいところで作業すること。
こうしたハードを動かす基本が、OSといわれるオペレーションシステムです。時には、ハード固有のドライバーといわれる、ハードを動かすためのプログラムも必要になります。
そして、ハードも進化しますから、進化したハードに相応しい、進化したOSが必要になり、例えば、ウィンドウズ95が、ウィンドウズ98になり、ウィンドウズMEになり、ウィンドウズXPになってと、どこまでも振り回されます。
OSが新しくなると、今まで使えていたハードが使えなくなることがあって、ドライバーの問題がほとんどです。新しいドライバーを提供していればいいのですが、新しいドライバーがないと、そのハードを新しいものに買い換える必要が出たりして、腹立たしいです。
ハードの心臓は、CPU(中央演算装置)で、それを作っているのが、インテルで、インテルとマイクロソフトが、Wintel同盟と呼ばれ、新しいものをお互いに売るために、協力し合っているという話が、昔からあります。
CPUでは、AMDがインテルのライバルです。
今の主流は、ウィンドウズ10ですが、いまだにウィンドウズ7を使っている人も多いです。
わたしが、ウィンドウズを使っているから、ウィンドウズの話ばかりですが、アップルのマッキントッシュ(マック)は、全く別のOSです。
ハードはほとんど壊れませんが、OSは、よくクラッシュしたり、トラブルを起こしますが、ソフトの問題は、また最初から、インストールし直せば、ほとんどの場合、問題解決です。
パソコンがおかしいと思った時は、まず、その時使っているアプリを閉じて、もう一度立ち上げてみるとか、パソコンを再起動させるとかで、かなりのトラブルは解決します。
ウィルスに感染しても同じで、すべてまっさらにすればいいのですが、その場合には、大切なモノまで消えてしまうから、大切なモノは、常に外付けのHDDなどに保存する必要があります。
つづく
2017年8月23日水曜日
六根清浄
小学校低学年の頃、「疳の虫が強い子」だと、祖母が将来を心配して、夏休みに、御嶽講に参加したことがありました。
疳の虫というのは、簡単に言えば、かんしゃく持ちで、よく言えば、感受性が強い子供ということです。
講というのは、同じ目的を持つ集団というような意味で、アジアでは、どこの国にも、お金を融通し合う講があります。犯罪のネズミ講の講も同じような意味です。
御嶽講というのは、霊山、御嶽山に登るための講で、地方にいる先達さんに連れられて、御嶽山に登り、途中にある多くの霊場めぐりをします。
出発前日の日の出に、参加者全員で近くの海に行って、身体を清めます。
そして、木曽福島までバスで行って、登山を始めるのですが、登山というよりもハイキングでした。といっても3000メートルを超える高さですから、それなりに疲れました。特に下りは、大変でした。
一応、ひのき笠と金剛杖で一緒に行ったおばあさんたちは、白装束でした。
登っていくときには、金剛杖をつきながら、「六根清浄、お山は晴天」と唱えます。
六根とは
眼根(視覚)
耳根(聴覚)
鼻根(嗅覚)
舌根(味覚)
身根(触覚)
意根(意識)
で、それらを清めながら登っていくわけです。途中には、多くの霊場や滝があり、先達さんが、なにやら、呪文を唱えて、同行者の健康を祈ってくれます。
先達さんに霊が乗り移るというクライマックスを覚えていますが、霊が乗り移った先達さんが、わけのわからないことをつぶやくのですが、同行者の中に通訳さんがいて、それをわかりやすく説明してくれるのです。
あれは、子供ながらに、??でした。
わたしは、一種の高山病なのか、途中、何度も鼻血を出して、山小屋では、頭痛に悩まされました。
夏山でも雪渓が残り、天候に恵まれたので、気持ちのいい登山でした。
御嶽山といえば、生薬「お百草」です。
お腹の調子がよくないときの万能薬で、真っ黒の板状の生薬で、必要な分だけ割って飲みますが、とにかく苦かった。
あと、雪解けのわき水を金剛水と呼んで、ありがたく水筒に入れて持ち帰りました。100年腐らないという話で、それを時々、盃程度飲ませてもらいました。
ネパールに行ったときに、やはり、高山病なのか、頭がボ~っとすることがあり、そんな時に、急に御嶽山の山小屋で見た景色を思い出し、ああ、地球上では、どこにいても、つながっているんだなあと感じました。
山岳信仰は、ネパールやブータンやチベットなどと共通点もあるわけで、金剛杖もインドから伝わったのではないかと思います。
三叉戟を持つシヴァとパールヴァティー
ちなみに、先達さんのアドバイスで、ユキノシタの葉っぱの絞り汁が、「疳の虫」にはいいとかで、それから、しばらく、ユキノシタ責めに苦しみました。
その効果があってか、かんしゃくを起こすこともなく、中学に入る頃から、多少はマシになることが出来ました。
疳の虫というのは、簡単に言えば、かんしゃく持ちで、よく言えば、感受性が強い子供ということです。
講というのは、同じ目的を持つ集団というような意味で、アジアでは、どこの国にも、お金を融通し合う講があります。犯罪のネズミ講の講も同じような意味です。
御嶽講というのは、霊山、御嶽山に登るための講で、地方にいる先達さんに連れられて、御嶽山に登り、途中にある多くの霊場めぐりをします。
出発前日の日の出に、参加者全員で近くの海に行って、身体を清めます。
そして、木曽福島までバスで行って、登山を始めるのですが、登山というよりもハイキングでした。といっても3000メートルを超える高さですから、それなりに疲れました。特に下りは、大変でした。
一応、ひのき笠と金剛杖で一緒に行ったおばあさんたちは、白装束でした。
登っていくときには、金剛杖をつきながら、「六根清浄、お山は晴天」と唱えます。
六根とは
眼根(視覚)
耳根(聴覚)
鼻根(嗅覚)
舌根(味覚)
身根(触覚)
意根(意識)
で、それらを清めながら登っていくわけです。途中には、多くの霊場や滝があり、先達さんが、なにやら、呪文を唱えて、同行者の健康を祈ってくれます。
先達さんに霊が乗り移るというクライマックスを覚えていますが、霊が乗り移った先達さんが、わけのわからないことをつぶやくのですが、同行者の中に通訳さんがいて、それをわかりやすく説明してくれるのです。
あれは、子供ながらに、??でした。
わたしは、一種の高山病なのか、途中、何度も鼻血を出して、山小屋では、頭痛に悩まされました。
夏山でも雪渓が残り、天候に恵まれたので、気持ちのいい登山でした。
御嶽山といえば、生薬「お百草」です。
お腹の調子がよくないときの万能薬で、真っ黒の板状の生薬で、必要な分だけ割って飲みますが、とにかく苦かった。
あと、雪解けのわき水を金剛水と呼んで、ありがたく水筒に入れて持ち帰りました。100年腐らないという話で、それを時々、盃程度飲ませてもらいました。
ネパールに行ったときに、やはり、高山病なのか、頭がボ~っとすることがあり、そんな時に、急に御嶽山の山小屋で見た景色を思い出し、ああ、地球上では、どこにいても、つながっているんだなあと感じました。
山岳信仰は、ネパールやブータンやチベットなどと共通点もあるわけで、金剛杖もインドから伝わったのではないかと思います。
三叉戟を持つシヴァとパールヴァティー
ちなみに、先達さんのアドバイスで、ユキノシタの葉っぱの絞り汁が、「疳の虫」にはいいとかで、それから、しばらく、ユキノシタ責めに苦しみました。
その効果があってか、かんしゃくを起こすこともなく、中学に入る頃から、多少はマシになることが出来ました。
2017年8月22日火曜日
本当の友情(ベトナムの民話から)
ルウ・ビンとディオン・リーは、学生でした。ルウ・ビンは、裕福な家庭に育ち、ディオン・リーは、貧しい家庭の生まれでした。育ちは、違いましたが、子どものころから仲良しで、一生の友情を誓いあっていました。ディオン・リーの両親が、亡くなった後で、ルウ・ビンは、父親からの提案で、ディオン・リーを家に呼んで、一緒に暮らしはじめましたので、二人は、本当の兄弟のように仲良しでした。
ルウ・ビンは、父親がお金持ちなので、人生をあまり真剣に考えるタイプではありませんでした。ですから、勉強の方も、しばしば怠けていました。彼が、真剣になるのは、遊ぶ時とお祭りの時でした。こうした生き方は、大人になっても変わりませんでした。
それに比べて、ディオン・リーの方は、何事にも勤勉でした。勉強も一生懸命、時間を惜しんでしました。彼は、時々、ルウ・ビンに、もう少し勉強にも力を入れるようにいいましたが、ルウ・ビンは、余計なことを考えないで、自分のことだけ心配するようにいい返しました。
しばらくして、ディオン・リーは、努力のかいあって、無事に役人の試験に合格しました。彼は、お世話になったルウ・ビンの両親にお礼を言い、ルウ・ビンに別れを告げ、まもなく、地方へ役人として赴してゆきました。別れる時に、もう一度ルウ・ビンにまじめになって、勉強するようにいいました。
ルウ・ビンは、いつまで経っても、役人の試験に合格することが出来ませんでした。しかし、親のおかげで、仕事をする必要もなく、気ままに暮らしていました。
しかし、彼の両親が死んでしまってからは、彼は、一人ぼっちになり、守ってくれる人もなく、真剣に彼の相談に乗ってくれる人もなく、彼は、淋しさをまぎらわせるために、博打にのめり込んでゆきました。
そして、両親の財産を現金ばかりでなく、土地も少しずつ売り払って、すっかり使い果たしてしまいました。最後に、借りた金を精算する為に、両親やディオン・リート過ごした、大きな邸宅も売り払ってしまい、残った金も博打で使い、とうとう乞食になってしまいました。
今になって、彼は、自分の愚かさに気がつきましたが、もうまわりには誰にいなくなっていました。お金があった時には、一緒に飲み食いをしたり、博打仲間だった友達も、お金がなくなってしまったら、みんな彼のまわりから去っていってしまいました。
ルウ・ビンは、急にディオン・リーのことを思い出しました。以前に耳にした噂では、ディオン・リーは、今では、たいそう出世して、お金持ちになっているようでした。今すぐ、ディオン・リーに会いに行こう、彼こそは、唯一の親友だから、と考えました。彼だけは、ルウ・ビンののお金だけに興味があるような、他の友達とは違って、困った時に助けてくれるだろうと思いました。
彼は、物乞いをして、その日の糧にありつきながら、ディオン・リーの住む町を目指しました。何週間も掛かって、やっとのことで、目的の町に辿り着くことが出来ました。
彼は、寒さと空腹に震っていましたが、ディオン・リーの住む家の門の前で、これから始まる親友との再会を思って、だんだんと元気が出てくるような気がしました。家の中に招き入れられれば、きっと、寒さからも飢えからも開放されるはずだと思いました。これから始まる、歓迎の夕食会のことや、友人の援助ではじめる、快適な暮らしのことなど、楽しいことばかりを考えていました。
ところがどうでしょう、門番の男は、彼が、ディオン・リーの古くからの親友だといっても、決して、中に入れてくれようとはしません。ルウ・ビンが来ていると、ディオン・リーに伝えてくれと頼んでも、ディオン・リーが出迎えに現れないばかりか、いっこうに返事がありません。彼は、どうしてなのかわけもわからないまま、一度は引っ返しましたが、夕方になって、もうディオン・リーも家に帰っている頃だからと、もう一度訪ねて行きました。しかし、今度は、門番が、彼を無視するだけではなく、この家のご主人は、政府の偉い役人で、お前のような乞食の友人はいないと、彼を追い返したのです。
ルウ・ビンは、希望を失いました。俺の両親から、本当の子どものように親切にされ、子どもの頃から、二人は、永遠に友達だと誓い合った、あのディオン・リーでさえ、こんな落ちぶれた俺には、会おうともしてくれない。もう本当に、これから先どうしたらいいのかわからなくなってしまいました。俺には、金もなく、今夜の寝る場所もなく、一人の友達もいない。もうこうなったら、何の希望もないから、これから、川に飛び込んで、死んでしまおうと考えました。
彼は、とぼとぼと、町外れにあった、古い橋を目指して歩きはじめました。橋に辿り着いて、下をながめると、流れはかなり急でした。これなら、間違いなく死ねるだろうと、飛び込もうとした時に、後ろから、優しい声が聞こえてきました。驚いて、後ろを振り返ると、なんとも美しい女性が、彼の目の前に立っていました。
女性は、彼に向かって、「どうして、そんなに先をお急ぎになるのでしょうか? 人生は、そんなに捨てたものでは、ないと思います。」といいました。
ルウ・ビンは、「わたしには、もう誰もいないのです。愛する両親も死んでしまったし、今までの友人たちも去っていってしまったし、一番悲しいのは、子どもの頃からの親友からも見捨てられてしまったのです。もう、生きる望みを失ってしまったのです。」と悲しい声で囁きました。
「わたしの名前は、チャウ・ロンといいます。わたしは、生まれた時からの孤児ですが、今日まで、がんばって生きてきました。もっと勇気をお出しなさい。天は、決して、あなたを見捨てたりはしないものですから。もし、よろしかったら、わたしの家に来て、もう少しお話しませんか?」とその女性はいいました。
ルウ・ビンは、この女性の家に行くことにしました。そこで、彼は、今までのことを、この美しい女性に話して聞かせました。長い物語でしたが、女性は、真剣に話しを聞いてくれました。話を聞きおわって、女性は、「どうして、ここでもう一度人生をやり直してみないのですか?もしよろしかったら、ここに寝泊まりして、もう一度役人になる為に勉強し直してはいかがでしょう。来年になれば、役人になる為の試験があります。役人の試験に合格して、一生懸命働いて、出世することで、あなたを見下したまわりの人に一泡吹かせるというのは、自殺か考えるよりは,ましな考えだとは思いませんか?」といいました。
ルウ・ビンは、しばらく考えましたが、この女性の言っていることが、正しいとわかりました。ルウ・ビンは、この女性の家で、もう一度人生をやり直すことに決めました。
女性は、ルウ・ビンの必要なものは、すべてそろえてくれました。ですから、彼は、彼女の親切に応える為にもと、昼も夜も、今まで経験したことのないほど一生懸命に勉強しました。彼は、必ず試験に合格して、役人になったら、彼女にお世話になった費用は、必ず返しますといいましたが、彼女は、ただ微笑んでいるだけでした。
数ヶ月後、ルウ・ビンは、都に行って、試験を受ける為に、チャウ・ロンの家をあとにすることになりました。出発する時に、彼は、チャウ・ロンに、必ず試験に合格して戻ってきますから、その時には、わたしと結婚してくださいと告げました。
ルウ・ビンは、試験に最高得点で合格し、王宮内の重要な地位につくことになりました。ルウ・ビンは、喜び勇んで、チャウ・ロンを迎えに来ましたが、チャウ・ロンのいるはずの小さな家には、誰も住んでいませんでした。まわりの人に聞いても、誰もチャウ・ロンの消息を知りません。町中を探しましたが、何の手がかりも見付かりません。ルウ・ビンは、悲しみを抱いて、都に帰ってきました。「たぶん、彼女は、この俺を、正しい道に導く為に現れたのだろう。」と、彼は歩きながら考えました。
しかし、ルウ・ビンは、彼女のことを忘れ去ることが出来ません。日が経てば経つほど、彼女への思いは、募って来ます。彼は、お暇をもらって、もう一度、彼女を探しに行くことにしました。そして、今度は、ディオン・リーを訪ねて行って、彼がどんな対応をするかも確かめることにしました。
やはり彼女の消息がつかめず、ルウ・ビンは、ディオン・リーを訪ねて行きました。今度は、この前とうってかわって、ルウ・ビンは、召し使いや手下のものを引き連れて、ディオン・リーを訪ねていったのです。着ているものも、ボロではなく、絹の上等な着物に、貴金属までつけて行きました。彼は、もはや、乞食ではなく、上級役人でした。
迎えるディオン・リーも、前回とは違っていました。門番が、彼を追いかえすこともなく、衛兵が、整列して、彼を迎え入れました。そして、ディオン・リーが、出て来て、ルウ・ビンを暖かく迎え入れました。俺の身分で、こうも対応を変えるのかと思っていた時、彼は、ディオン・リーの後ろで、彼に微笑みかける美しい二人の女性が、いることに気がつきました。なんと、一人は、彼が捜し求めている、チャウ・ロンではありませんか。彼は、もうびっくりして、体が震えて来ました。こんなところで、彼女にあえるとは、夢にも思っていなかったので、喜びがわいてくるまでに、かなりの時間が必要でした。彼女のとなりにいる彼女によく似ている女性が、たぶんディオン・リーの奥さんだと思った瞬間、彼は、すべてを理解しました。
ディオン・リーは、ルウ・ビンを家に案内して、歓迎の食事を用意しました。そこで、ディオン・リーは、前回の非を詫び、その説明をしました。
「わたしは、あなたが、わたしを訪ねて来たと知った時に、わたしは嬉しくて、もう少しで、あなたを迎え入れるところでした。しかし、わたしが、あなたを助けたとしても、あなたは、昔のあなたでしかないと思い、つらい思いでしたが、わたしは、あなたを追い返しました。その代わりに、わたしは、わたしの妻の妹のチャウ・ロンに言いつけて、あなたを助けるように指示をしました。」
「その後は、あなたの知っているように、あなたは、生まれ変わって、このように立派な人生を歩むようになりました。このようにして、あなたが、立派な役人になることを、あなたのご両親は、どんなに望んでいたことでしょうか。」
ルウ・ビンは、この親友の話に、一言もありませんでした。ただ俯いて、聞いているだけでした。「でも、あなたは、本当に立派でした。」と、チャウ・ロンが、頬を赤らめながら、語るのを聞いて、ルウ・ビンは、はじめて、口を開きました。「あなたが、いたから、わたしは、がんばれたし、生まれ変わることが出来たのです。どうか、わたしと結婚してください。」
そして、二人は、めでたく結婚して、末永く幸せに暮らしました。
Copyright(c) 1997 北風剛
無断複製、無断頒布厳禁
ルウ・ビンは、父親がお金持ちなので、人生をあまり真剣に考えるタイプではありませんでした。ですから、勉強の方も、しばしば怠けていました。彼が、真剣になるのは、遊ぶ時とお祭りの時でした。こうした生き方は、大人になっても変わりませんでした。
それに比べて、ディオン・リーの方は、何事にも勤勉でした。勉強も一生懸命、時間を惜しんでしました。彼は、時々、ルウ・ビンに、もう少し勉強にも力を入れるようにいいましたが、ルウ・ビンは、余計なことを考えないで、自分のことだけ心配するようにいい返しました。
しばらくして、ディオン・リーは、努力のかいあって、無事に役人の試験に合格しました。彼は、お世話になったルウ・ビンの両親にお礼を言い、ルウ・ビンに別れを告げ、まもなく、地方へ役人として赴してゆきました。別れる時に、もう一度ルウ・ビンにまじめになって、勉強するようにいいました。
ルウ・ビンは、いつまで経っても、役人の試験に合格することが出来ませんでした。しかし、親のおかげで、仕事をする必要もなく、気ままに暮らしていました。
しかし、彼の両親が死んでしまってからは、彼は、一人ぼっちになり、守ってくれる人もなく、真剣に彼の相談に乗ってくれる人もなく、彼は、淋しさをまぎらわせるために、博打にのめり込んでゆきました。
そして、両親の財産を現金ばかりでなく、土地も少しずつ売り払って、すっかり使い果たしてしまいました。最後に、借りた金を精算する為に、両親やディオン・リート過ごした、大きな邸宅も売り払ってしまい、残った金も博打で使い、とうとう乞食になってしまいました。
今になって、彼は、自分の愚かさに気がつきましたが、もうまわりには誰にいなくなっていました。お金があった時には、一緒に飲み食いをしたり、博打仲間だった友達も、お金がなくなってしまったら、みんな彼のまわりから去っていってしまいました。
ルウ・ビンは、急にディオン・リーのことを思い出しました。以前に耳にした噂では、ディオン・リーは、今では、たいそう出世して、お金持ちになっているようでした。今すぐ、ディオン・リーに会いに行こう、彼こそは、唯一の親友だから、と考えました。彼だけは、ルウ・ビンののお金だけに興味があるような、他の友達とは違って、困った時に助けてくれるだろうと思いました。
彼は、物乞いをして、その日の糧にありつきながら、ディオン・リーの住む町を目指しました。何週間も掛かって、やっとのことで、目的の町に辿り着くことが出来ました。
彼は、寒さと空腹に震っていましたが、ディオン・リーの住む家の門の前で、これから始まる親友との再会を思って、だんだんと元気が出てくるような気がしました。家の中に招き入れられれば、きっと、寒さからも飢えからも開放されるはずだと思いました。これから始まる、歓迎の夕食会のことや、友人の援助ではじめる、快適な暮らしのことなど、楽しいことばかりを考えていました。
ところがどうでしょう、門番の男は、彼が、ディオン・リーの古くからの親友だといっても、決して、中に入れてくれようとはしません。ルウ・ビンが来ていると、ディオン・リーに伝えてくれと頼んでも、ディオン・リーが出迎えに現れないばかりか、いっこうに返事がありません。彼は、どうしてなのかわけもわからないまま、一度は引っ返しましたが、夕方になって、もうディオン・リーも家に帰っている頃だからと、もう一度訪ねて行きました。しかし、今度は、門番が、彼を無視するだけではなく、この家のご主人は、政府の偉い役人で、お前のような乞食の友人はいないと、彼を追い返したのです。
ルウ・ビンは、希望を失いました。俺の両親から、本当の子どものように親切にされ、子どもの頃から、二人は、永遠に友達だと誓い合った、あのディオン・リーでさえ、こんな落ちぶれた俺には、会おうともしてくれない。もう本当に、これから先どうしたらいいのかわからなくなってしまいました。俺には、金もなく、今夜の寝る場所もなく、一人の友達もいない。もうこうなったら、何の希望もないから、これから、川に飛び込んで、死んでしまおうと考えました。
彼は、とぼとぼと、町外れにあった、古い橋を目指して歩きはじめました。橋に辿り着いて、下をながめると、流れはかなり急でした。これなら、間違いなく死ねるだろうと、飛び込もうとした時に、後ろから、優しい声が聞こえてきました。驚いて、後ろを振り返ると、なんとも美しい女性が、彼の目の前に立っていました。
女性は、彼に向かって、「どうして、そんなに先をお急ぎになるのでしょうか? 人生は、そんなに捨てたものでは、ないと思います。」といいました。
ルウ・ビンは、「わたしには、もう誰もいないのです。愛する両親も死んでしまったし、今までの友人たちも去っていってしまったし、一番悲しいのは、子どもの頃からの親友からも見捨てられてしまったのです。もう、生きる望みを失ってしまったのです。」と悲しい声で囁きました。
「わたしの名前は、チャウ・ロンといいます。わたしは、生まれた時からの孤児ですが、今日まで、がんばって生きてきました。もっと勇気をお出しなさい。天は、決して、あなたを見捨てたりはしないものですから。もし、よろしかったら、わたしの家に来て、もう少しお話しませんか?」とその女性はいいました。
ルウ・ビンは、この女性の家に行くことにしました。そこで、彼は、今までのことを、この美しい女性に話して聞かせました。長い物語でしたが、女性は、真剣に話しを聞いてくれました。話を聞きおわって、女性は、「どうして、ここでもう一度人生をやり直してみないのですか?もしよろしかったら、ここに寝泊まりして、もう一度役人になる為に勉強し直してはいかがでしょう。来年になれば、役人になる為の試験があります。役人の試験に合格して、一生懸命働いて、出世することで、あなたを見下したまわりの人に一泡吹かせるというのは、自殺か考えるよりは,ましな考えだとは思いませんか?」といいました。
ルウ・ビンは、しばらく考えましたが、この女性の言っていることが、正しいとわかりました。ルウ・ビンは、この女性の家で、もう一度人生をやり直すことに決めました。
女性は、ルウ・ビンの必要なものは、すべてそろえてくれました。ですから、彼は、彼女の親切に応える為にもと、昼も夜も、今まで経験したことのないほど一生懸命に勉強しました。彼は、必ず試験に合格して、役人になったら、彼女にお世話になった費用は、必ず返しますといいましたが、彼女は、ただ微笑んでいるだけでした。
数ヶ月後、ルウ・ビンは、都に行って、試験を受ける為に、チャウ・ロンの家をあとにすることになりました。出発する時に、彼は、チャウ・ロンに、必ず試験に合格して戻ってきますから、その時には、わたしと結婚してくださいと告げました。
ルウ・ビンは、試験に最高得点で合格し、王宮内の重要な地位につくことになりました。ルウ・ビンは、喜び勇んで、チャウ・ロンを迎えに来ましたが、チャウ・ロンのいるはずの小さな家には、誰も住んでいませんでした。まわりの人に聞いても、誰もチャウ・ロンの消息を知りません。町中を探しましたが、何の手がかりも見付かりません。ルウ・ビンは、悲しみを抱いて、都に帰ってきました。「たぶん、彼女は、この俺を、正しい道に導く為に現れたのだろう。」と、彼は歩きながら考えました。
しかし、ルウ・ビンは、彼女のことを忘れ去ることが出来ません。日が経てば経つほど、彼女への思いは、募って来ます。彼は、お暇をもらって、もう一度、彼女を探しに行くことにしました。そして、今度は、ディオン・リーを訪ねて行って、彼がどんな対応をするかも確かめることにしました。
やはり彼女の消息がつかめず、ルウ・ビンは、ディオン・リーを訪ねて行きました。今度は、この前とうってかわって、ルウ・ビンは、召し使いや手下のものを引き連れて、ディオン・リーを訪ねていったのです。着ているものも、ボロではなく、絹の上等な着物に、貴金属までつけて行きました。彼は、もはや、乞食ではなく、上級役人でした。
迎えるディオン・リーも、前回とは違っていました。門番が、彼を追いかえすこともなく、衛兵が、整列して、彼を迎え入れました。そして、ディオン・リーが、出て来て、ルウ・ビンを暖かく迎え入れました。俺の身分で、こうも対応を変えるのかと思っていた時、彼は、ディオン・リーの後ろで、彼に微笑みかける美しい二人の女性が、いることに気がつきました。なんと、一人は、彼が捜し求めている、チャウ・ロンではありませんか。彼は、もうびっくりして、体が震えて来ました。こんなところで、彼女にあえるとは、夢にも思っていなかったので、喜びがわいてくるまでに、かなりの時間が必要でした。彼女のとなりにいる彼女によく似ている女性が、たぶんディオン・リーの奥さんだと思った瞬間、彼は、すべてを理解しました。
ディオン・リーは、ルウ・ビンを家に案内して、歓迎の食事を用意しました。そこで、ディオン・リーは、前回の非を詫び、その説明をしました。
「わたしは、あなたが、わたしを訪ねて来たと知った時に、わたしは嬉しくて、もう少しで、あなたを迎え入れるところでした。しかし、わたしが、あなたを助けたとしても、あなたは、昔のあなたでしかないと思い、つらい思いでしたが、わたしは、あなたを追い返しました。その代わりに、わたしは、わたしの妻の妹のチャウ・ロンに言いつけて、あなたを助けるように指示をしました。」
「その後は、あなたの知っているように、あなたは、生まれ変わって、このように立派な人生を歩むようになりました。このようにして、あなたが、立派な役人になることを、あなたのご両親は、どんなに望んでいたことでしょうか。」
ルウ・ビンは、この親友の話に、一言もありませんでした。ただ俯いて、聞いているだけでした。「でも、あなたは、本当に立派でした。」と、チャウ・ロンが、頬を赤らめながら、語るのを聞いて、ルウ・ビンは、はじめて、口を開きました。「あなたが、いたから、わたしは、がんばれたし、生まれ変わることが出来たのです。どうか、わたしと結婚してください。」
そして、二人は、めでたく結婚して、末永く幸せに暮らしました。
Copyright(c) 1997 北風剛
無断複製、無断頒布厳禁
2017年8月21日月曜日
箸休め
1973年のパリ
ベルサイユ宮殿の敷地内で
パリ市内カルチェラタンにあった1泊11フラン朝食付きの星なしホテルの窓から
朝食は、カフェオレとクロワッサン
当時、オリンパスペンSにて撮影したフィルムをフィルムスキャナーでスキャンしています。
ベルサイユ宮殿の敷地内で
パリ市内カルチェラタンにあった1泊11フラン朝食付きの星なしホテルの窓から
朝食は、カフェオレとクロワッサン
当時、オリンパスペンSにて撮影したフィルムをフィルムスキャナーでスキャンしています。
パソコン履歴 その4
いよいよサッカー日本代表が、ワールドカップ出場をかけての大一番が近付いてきていますが、ハリルホジッチ監督といえば、「デュエル」ですね。
球際の争いということらしいのですが、体格で劣る日本は、テクニックや頭脳や連携で、オーストラリアに勝利して欲しいです。
さて、少し違いますが、「デュアルブート」という言葉があります。デュアルは、ふたつのという意味で、二つのOSをスタート時に選択できる環境をデュアルブートと呼ぶそうです。
私の場合には、タイで暮らしているので、出来れば、日本語とタイ語とを使いたいわけですが、当時のウィンドウズ95環境では、まだ、マルチ言語対応は出来ていませんでした。
そこで、考えたのが、PC-DOSにあるコマンドのswitchを使い、日本語と英語とを切り替え、日本語バージョンにウィンドウズ95の日本語版を、そして、switchで英語に切り替えたのち、そこにウィンドウズ95のタイ語版を入れることにしました。
全部フォーマットして、最初からOSを入れる作業は、もう何百回もやってきたことで、プロ並みです。
」
これは、意外とうまくいきました。我ながら、誰に教えてもらったわけでもなかったわけで、天才ではないかと思うくらいでした。
細かなことは忘れてしまいましたが、日本語版には、日本語のソフトを入れて、タイ語版には、タイ語のソフトを入れれば、それぞれ、ほとんど完全に使えました。
ウィンドウズXPになると、マルチ言語に対応して、実に便利になりました。
昔のモノを整理しているのですが、このminiノートは、HDDが、ダメになっているようで、BIOSでHDDを認識できていません。
タワーケースのパソコンは、ほとんど整理してしまって、もう現物は残っていません。
3台目くらいからは、パソコンも、全部を買い換えるのではなくて、必要な部分だけを買い、使えるものは、使っていく方式にしました。
2001年の8月25日に買った、こちらのパソコンが、お気に入りで、長いこと使いました。
M/B ASUS P4T
CPU P.4 1.8GHZ
RD-RAM 128/800X2
FDD 1.44
CD-ROM
CASE
28,500 BHT
ビデオカードは、マザーボートを変えると、新しい規格で古いタイプが使えなくなり、新しいものに換えることもありました。
この頃からモニターも液晶になり、CD-RからDVD-Rなどに書き込める時代になったと記憶します。
書き込み用のCDドライブも最初は、書き込みにメチャ時間がかかりましたし、とにかく高かったのですが、あっという間に安くなりました。
OSは、ウィンドウズXPで、かなり使い易かったです。
HDDも内蔵で2つ入れ、パワーユニットも、別に購入しました。
つづく
球際の争いということらしいのですが、体格で劣る日本は、テクニックや頭脳や連携で、オーストラリアに勝利して欲しいです。
さて、少し違いますが、「デュアルブート」という言葉があります。デュアルは、ふたつのという意味で、二つのOSをスタート時に選択できる環境をデュアルブートと呼ぶそうです。
私の場合には、タイで暮らしているので、出来れば、日本語とタイ語とを使いたいわけですが、当時のウィンドウズ95環境では、まだ、マルチ言語対応は出来ていませんでした。
そこで、考えたのが、PC-DOSにあるコマンドのswitchを使い、日本語と英語とを切り替え、日本語バージョンにウィンドウズ95の日本語版を、そして、switchで英語に切り替えたのち、そこにウィンドウズ95のタイ語版を入れることにしました。
全部フォーマットして、最初からOSを入れる作業は、もう何百回もやってきたことで、プロ並みです。
」
これは、意外とうまくいきました。我ながら、誰に教えてもらったわけでもなかったわけで、天才ではないかと思うくらいでした。
細かなことは忘れてしまいましたが、日本語版には、日本語のソフトを入れて、タイ語版には、タイ語のソフトを入れれば、それぞれ、ほとんど完全に使えました。
ウィンドウズXPになると、マルチ言語に対応して、実に便利になりました。
昔のモノを整理しているのですが、このminiノートは、HDDが、ダメになっているようで、BIOSでHDDを認識できていません。
タワーケースのパソコンは、ほとんど整理してしまって、もう現物は残っていません。
3台目くらいからは、パソコンも、全部を買い換えるのではなくて、必要な部分だけを買い、使えるものは、使っていく方式にしました。
2001年の8月25日に買った、こちらのパソコンが、お気に入りで、長いこと使いました。
M/B ASUS P4T
CPU P.4 1.8GHZ
RD-RAM 128/800X2
FDD 1.44
CD-ROM
CASE
28,500 BHT
ビデオカードは、マザーボートを変えると、新しい規格で古いタイプが使えなくなり、新しいものに換えることもありました。
この頃からモニターも液晶になり、CD-RからDVD-Rなどに書き込める時代になったと記憶します。
書き込み用のCDドライブも最初は、書き込みにメチャ時間がかかりましたし、とにかく高かったのですが、あっという間に安くなりました。
OSは、ウィンドウズXPで、かなり使い易かったです。
HDDも内蔵で2つ入れ、パワーユニットも、別に購入しました。
つづく
パソコン履歴 その3
時代は、ウィンドウズ95です。
日本に帰国したときに、パソコンショップに入り浸り、ウィンドウズ95はじめ、オフィス95やペイントシップ、辞書、こりゃ英和、読んでココ、ホームページ作成ソフトなど、大量に購入してきました。
ウィンドウズ3.14のパソコンにウィンドウズ95を入れるのは、簡単な作業でした。
アプリをインストールするのも簡単で、いろいろなアプリを試して遊びました。
当時、東南アジアの民話を集めていたので、タイ語や英語の民話の本を買ってきて、スキャンして、OCRというアプリで文字を読み取ってテキストとして保存するということを考えて、やってみましたが、当時の精度からして、ほとんど使い物になりませんでした。
タイ語のOCRソフトは、けっこう高かったのですが、全く使い物になりませんでした。
あと、音声ソフトも試しましたが、テキストを合成の音声で読み取るソフトは、かなりの将来性を感じ、その後、スマホのアプリなどで活躍していますよね。
おもしろかったのは、画像の加工で、特にモーフィーなどの写真加工は、飽きませんでした。そうした中で、レイヤーという概念を理解できました。
当時遊んだ画像の加工は、今のスマホのアプリの中に取り入れられて、操作も簡単になっています。
辞書アプリも、今は、ネットで検索すれば一発ですから、使わないです。
インターネットをはじめて、ブラウザーでの日本語表示は、ほぼ問題なかったけど、メールで使っていたこちらのプロバイダーからもらった英語版のユードラは、日本語が、全部文字化けしてしまって、ダメでした。
メールは、当初、メールを送る相手もいなかったので、自分で自分にメールを送って、いろいろとやってみました。
結局、日本から日本語版のユードラを買って送ってもらいました。ところが、CDを入れても、シリアルナンバーを入れるところから先に進めません。何度やってもダメで、よく見たら、なんと、送ってもらったのは、マック用のユードラでした。
わたしも初心者ですし、頼んだ人も初心者で、確認などしなかったのです。それで困り果てて、会社に下手な英語でメールを書いて、事情を説明したのですが、ソフトの会社は、なかなかうるさくて、どうにもならなかったのですが、とにかく食い下がって、初心者を大切にしないのは、どうのとか、あの手この手でお願いした結果、ウィンドウズ用のシリアル番号を送ってもらうことが出来ました。
パソコン関係の雑誌などで、メール友達を見つけて、メール友達も出来ました。当時の友達の中で、3人は、今でも続いています。
いろいろなメール友達がいましたが、多くは、長続きしませんでした。メールは、相性ですね。
わたしのような変人でも、お相手を続けてくださっているメール友達たちには、ただただ感謝です。
つづく
日本に帰国したときに、パソコンショップに入り浸り、ウィンドウズ95はじめ、オフィス95やペイントシップ、辞書、こりゃ英和、読んでココ、ホームページ作成ソフトなど、大量に購入してきました。
ウィンドウズ3.14のパソコンにウィンドウズ95を入れるのは、簡単な作業でした。
アプリをインストールするのも簡単で、いろいろなアプリを試して遊びました。
当時、東南アジアの民話を集めていたので、タイ語や英語の民話の本を買ってきて、スキャンして、OCRというアプリで文字を読み取ってテキストとして保存するということを考えて、やってみましたが、当時の精度からして、ほとんど使い物になりませんでした。
タイ語のOCRソフトは、けっこう高かったのですが、全く使い物になりませんでした。
あと、音声ソフトも試しましたが、テキストを合成の音声で読み取るソフトは、かなりの将来性を感じ、その後、スマホのアプリなどで活躍していますよね。
おもしろかったのは、画像の加工で、特にモーフィーなどの写真加工は、飽きませんでした。そうした中で、レイヤーという概念を理解できました。
当時遊んだ画像の加工は、今のスマホのアプリの中に取り入れられて、操作も簡単になっています。
辞書アプリも、今は、ネットで検索すれば一発ですから、使わないです。
インターネットをはじめて、ブラウザーでの日本語表示は、ほぼ問題なかったけど、メールで使っていたこちらのプロバイダーからもらった英語版のユードラは、日本語が、全部文字化けしてしまって、ダメでした。
メールは、当初、メールを送る相手もいなかったので、自分で自分にメールを送って、いろいろとやってみました。
結局、日本から日本語版のユードラを買って送ってもらいました。ところが、CDを入れても、シリアルナンバーを入れるところから先に進めません。何度やってもダメで、よく見たら、なんと、送ってもらったのは、マック用のユードラでした。
わたしも初心者ですし、頼んだ人も初心者で、確認などしなかったのです。それで困り果てて、会社に下手な英語でメールを書いて、事情を説明したのですが、ソフトの会社は、なかなかうるさくて、どうにもならなかったのですが、とにかく食い下がって、初心者を大切にしないのは、どうのとか、あの手この手でお願いした結果、ウィンドウズ用のシリアル番号を送ってもらうことが出来ました。
パソコン関係の雑誌などで、メール友達を見つけて、メール友達も出来ました。当時の友達の中で、3人は、今でも続いています。
いろいろなメール友達がいましたが、多くは、長続きしませんでした。メールは、相性ですね。
わたしのような変人でも、お相手を続けてくださっているメール友達たちには、ただただ感謝です。
つづく
パソコン履歴 その2
タイ語と英語のパソコンでは、操作も面倒でわかりにくいので、なんとか日本語化できないモノだろうかと、日本から、わけもわからず、ウィンドウズ3.14の日本語バージョンを買ってきてもらいました。
そしたら、なんでも、PC-DOSというのを買って、それからウィンドウズにアップした方が安いと店員にいわれたそうで、それが手元に届きました。
わたしも、買い物をお願いした人も、パソコンの知識が無いから、店員のいわれるがままでした。
それで、PC-DOS J6.3/V が手元に届きました。届いたはいいけど、それをどうしたらいいのかわからなかったので、パソコンを買った店に持って行って、その日本語のフロッピーディスクをインストールしてもらい、そのやり方を教えてもらいました。
途中、CD-ROMのドライバーが、日本語に対応していなかったようで、AUTOEXEC.BATの中のCD-ROMのドライバー部分の位置を変えなければならなかったと記憶します。
途中、CD-ROMのドライバーが、日本語に対応していなかったようで、AUTOEXEC.BATの中のCD-ROMのドライバー部分の位置を変えなければならなかったと記憶します。
BIOSに入るとか、ドライブAとか、まあ、興味深かったです。このときに、DOSコマンドも少しだけお勉強できました。
その作業で、今までパソコンに入っていたモノは、すべて消えてしまいました。
でも、無事に日本語のDOSが入り、今度は、その環境で、ウィンドウズ3.14のCDを入れ、SETUPしてもらいました。
日本語の画面を見て、店員たちは、なにやら面白がっていました。
でも、なんの苦労もなく、ウィンドウズ3.14が入り、日本語環境になりました。
家に帰り、復習として、また、同じようにフロッピーを入れるところから、自分でやってみました。すでに、中身は、空っぽですし、恐れることはないわけです。
DOSからウィンドウズにするだけなら、時間がかかるだけで、画面を見ているだけで、全く問題は無く、わたしにも出来ました。
パソコンは、印刷機ということで、日本語ワープロの一太郎6も買ってきてもらっていたので、それをインストールしようとして、躓きました。
インストールしても立ち上がりません。
困った時には、買った店の店員さんで、相談に行きました。
そしたら、いろいろと考えた末、AUTOEXEC.BATとCONFIG.SYSを書き換えなければいけないんじゃないかということを教えてくれました。
それで、家に戻って、一太郎のマニュアルを読んでみたら、その辺りのことが書かれていたので、いろいろと試行錯誤しながら、やってはみましたが、間違って訂正すると、立ち上がらなくなって、また最初からやり直しとか、まあ、苦労しました。
基礎知識の無いど素人には、無謀でしかなかったわけですが、でも、必死で試行錯誤を繰り返しました。
一太郎が立ち上がっても、今度は、メモリー不足なのか、動きがメチャ重くて、何も出来ないと言ってもいいくらいでした。
まだ、パソコンで、何かの作業をする以前のパソコンにOSやアプリを入れるところで、行ったり戻ったりを繰り返すだけでした。
あの頃は、徹夜もよくしていました。でも、楽しかった。
つづく
パソコン履歴 その1
生まれて初めてコンピューターをいじったのは、今から50年以上前の中学生の頃です。
友達の家で、友達のお兄さんのコンピューターをいじらせてもらい、小さなモニター上に線を引くためには、どんな数式を書けばいいのかを教えてもらいました。
ただそれだけでしたが、数式を書くと画面に線を引くことが出来ることは、驚きでした。
それから月日は流れ、バンコクで住み始めていた1995年の7月25日に、生まれて初めてパソコンを買いました。パンティッププラザという、電脳ビルにあるお店で買いました。
パソコンに関する知識はゼロで、ただ、何となくおもしろそうだからと買いましたが、お店の人からなんのために使うのかと聞かれても、目的なんかなかったので、答えることが出来ませんでした。
とにかく、お店のパンフレットにあるセットにお店の人のアドバイスで、CD-ROMとスピーカーとサウンドカードとメモリーの増設をお願いし、組んでもらいました。
AMD 486DX-100VLB
RAM 72PIN 4MB+4MB
FLOPPY DRIVE 1.44
IDE VLB MODE3
US 101KEYBOARD
CASE MINI 200W
MONITOR 14"
ARK VLB 1MB
HARD DISK 1.2GB CONNER
SOUND CARD MADD 16PRO
CD-ROM 4X
AIWA SPEAKER 5X5W
MOUSE
42,842BHT
当時の為替を覚えてはいませんが、感覚的には、1バーツ約10円の時代だったと思いますから、かなりの値段でした。
注文をすると、お店の中で、ケースに部品を入れていって、組み立ててくれますので、それをじっと見ていました。見ていたら、ケースの中は、思いのほかスカスカでした。
そして、組み立てが終わったら、何か器械を持ってきて接続して、キーボードでガチャガチャと操作をしていました。それが、かなり時間がかかったので、店をでて、まわりの店を見てまわりながら暇潰しをしました。
当時は、ちょうどパソコンブームの前夜という感じで、まだコンピューター関係の店も少なかったのです。
そして、1時間ほどで店に戻ると出来上がっていたので、支払いを済ませ、持ち帰りました。
家に帰って、スイッチを入れると、なにやら文字が出て、立ち上がりましたが、何が何だか、さっぱりわかりませんでした。
あとからわかったのですが、Windows NT 3.5 WorkstationというOSが入っていました。
もちろん、言語は、タイ語と英語だけで、日本語はダメ。
中には、Lotus123とか、Amiproとかグラフィックアプリやゲームなども入っていました。これもあとからわかったのですが、すべて、海賊版。
当時は、インターネットで検索することも出来ず、日本から本を取り寄せて、独学をはじめました。
当時の解釈としては、パソコンは、印刷機ということで、プリンターも買いましたが、8月5日に買ったキャノンのインクジェットプリンターBJC-4000は、なんと15,500バーツもしました。
あの年は、ウィンドウズ95がでて、パソコンブーム元年という感じで、毎月のように、新しいハードやソフトがでて、値段もどんどん安くなっていきました。
CPUもペンティアムが、100,133,166とどんどん新しくなっていって、ペンティアム2,ペンティアム3,ペンティアム4と進化していきました。
ハードディスクも、あっという間に2.1GBから20GB、80GB、120GBと巨大化していきました。
私が買った時が、一番タイミング的にはよくなかったと思います。
時代は、すでにインターネットの幕を開け、バンコクでも、徐々に話題になってきましたので、1996年3月9日にインターネットタイランドの会員になりました。
半年間で、9,600バーツでした。
こちらも、会員になったはいいけど、使い方が、なかなかわからず、苦労しました。
当時、パソコンにしても、インターネットにしても、まだ、ど素人がやる時代ではなくて、簡単な説明会だけでは、なかなか理解できませんでした。まして、説明は、タイ語と時によっては英語という感じでしたからね。
ダイアルアップ接続のあの独特の雑音は、期待感を膨らませてくれました。
プロバイダーからもらったのは、メール用にEUDORAとブラウザーは、ネットスケープバージョンは、2だった記憶がありますが、フロッピーが見付かりません。
ホームページ用のフリースペースももらったので、ホームページにも興味を持ちました。
でも、生まれて初めて、インターネットにつながって、画面に文字や写真が出てきたときには、感激しました。
とにかく、パソコンをなんとか日本語化しようと思い立ち、わたしの苦労が始まりましたが、その話は、また別の機会にします。
わたしのパソコンは、すでにスペック的には、時代遅れ感もありました。
そんなことがわかってきて、1997年5月14日に2台目のパソコンを組んでもらいました。
PENTIUM 166MHZ
M/B ASUS 512VX
RAM 32MB EDO
FDD 1.44
HDD 2.1GB SEAGATE
VGA PCI 2MB
MONITOR MAG 15"
MIDIUM CASE
KEYBOARD
MOUSE
CD-ROM 12X
SOUND CARD 16
SPEAKER
36,500 バーツでした。
つづく
友達の家で、友達のお兄さんのコンピューターをいじらせてもらい、小さなモニター上に線を引くためには、どんな数式を書けばいいのかを教えてもらいました。
ただそれだけでしたが、数式を書くと画面に線を引くことが出来ることは、驚きでした。
それから月日は流れ、バンコクで住み始めていた1995年の7月25日に、生まれて初めてパソコンを買いました。パンティッププラザという、電脳ビルにあるお店で買いました。
パソコンに関する知識はゼロで、ただ、何となくおもしろそうだからと買いましたが、お店の人からなんのために使うのかと聞かれても、目的なんかなかったので、答えることが出来ませんでした。
とにかく、お店のパンフレットにあるセットにお店の人のアドバイスで、CD-ROMとスピーカーとサウンドカードとメモリーの増設をお願いし、組んでもらいました。
AMD 486DX-100VLB
RAM 72PIN 4MB+4MB
FLOPPY DRIVE 1.44
IDE VLB MODE3
US 101KEYBOARD
CASE MINI 200W
MONITOR 14"
ARK VLB 1MB
HARD DISK 1.2GB CONNER
SOUND CARD MADD 16PRO
CD-ROM 4X
AIWA SPEAKER 5X5W
MOUSE
42,842BHT
当時の為替を覚えてはいませんが、感覚的には、1バーツ約10円の時代だったと思いますから、かなりの値段でした。
注文をすると、お店の中で、ケースに部品を入れていって、組み立ててくれますので、それをじっと見ていました。見ていたら、ケースの中は、思いのほかスカスカでした。
そして、組み立てが終わったら、何か器械を持ってきて接続して、キーボードでガチャガチャと操作をしていました。それが、かなり時間がかかったので、店をでて、まわりの店を見てまわりながら暇潰しをしました。
当時は、ちょうどパソコンブームの前夜という感じで、まだコンピューター関係の店も少なかったのです。
そして、1時間ほどで店に戻ると出来上がっていたので、支払いを済ませ、持ち帰りました。
家に帰って、スイッチを入れると、なにやら文字が出て、立ち上がりましたが、何が何だか、さっぱりわかりませんでした。
あとからわかったのですが、Windows NT 3.5 WorkstationというOSが入っていました。
もちろん、言語は、タイ語と英語だけで、日本語はダメ。
中には、Lotus123とか、Amiproとかグラフィックアプリやゲームなども入っていました。これもあとからわかったのですが、すべて、海賊版。
当時は、インターネットで検索することも出来ず、日本から本を取り寄せて、独学をはじめました。
当時の解釈としては、パソコンは、印刷機ということで、プリンターも買いましたが、8月5日に買ったキャノンのインクジェットプリンターBJC-4000は、なんと15,500バーツもしました。
あの年は、ウィンドウズ95がでて、パソコンブーム元年という感じで、毎月のように、新しいハードやソフトがでて、値段もどんどん安くなっていきました。
CPUもペンティアムが、100,133,166とどんどん新しくなっていって、ペンティアム2,ペンティアム3,ペンティアム4と進化していきました。
ハードディスクも、あっという間に2.1GBから20GB、80GB、120GBと巨大化していきました。
私が買った時が、一番タイミング的にはよくなかったと思います。
時代は、すでにインターネットの幕を開け、バンコクでも、徐々に話題になってきましたので、1996年3月9日にインターネットタイランドの会員になりました。
半年間で、9,600バーツでした。
こちらも、会員になったはいいけど、使い方が、なかなかわからず、苦労しました。
当時、パソコンにしても、インターネットにしても、まだ、ど素人がやる時代ではなくて、簡単な説明会だけでは、なかなか理解できませんでした。まして、説明は、タイ語と時によっては英語という感じでしたからね。
ダイアルアップ接続のあの独特の雑音は、期待感を膨らませてくれました。
プロバイダーからもらったのは、メール用にEUDORAとブラウザーは、ネットスケープバージョンは、2だった記憶がありますが、フロッピーが見付かりません。
ホームページ用のフリースペースももらったので、ホームページにも興味を持ちました。
でも、生まれて初めて、インターネットにつながって、画面に文字や写真が出てきたときには、感激しました。
とにかく、パソコンをなんとか日本語化しようと思い立ち、わたしの苦労が始まりましたが、その話は、また別の機会にします。
わたしのパソコンは、すでにスペック的には、時代遅れ感もありました。
そんなことがわかってきて、1997年5月14日に2台目のパソコンを組んでもらいました。
PENTIUM 166MHZ
M/B ASUS 512VX
RAM 32MB EDO
FDD 1.44
HDD 2.1GB SEAGATE
VGA PCI 2MB
MONITOR MAG 15"
MIDIUM CASE
KEYBOARD
MOUSE
CD-ROM 12X
SOUND CARD 16
SPEAKER
36,500 バーツでした。
つづく
2017年8月19日土曜日
デジタルカメラ
最初に買ったデジタルカメラは、Casio F100でした。いろいろと探しましたが、どこかに行ってしまったようで、現物は見付かりませんでしたが、確か36万画素だったと思います。
はっきり言って、オモチャでしたが、次に買ったFuji FinePix2700は、素晴らしいデジカメでした。
あとからオプションで、広角レンズと望遠レンズを買いました。
当時は、ホームページをなんとか作ろうとして、こんなソフトも買いましたが、全く使い物にならず、自分で本をかってきて、HTMLタグのお勉強をしました。
その後、finepix f420を買い、ズームが欲しくなって、Olympus Camedia C760 Ultra Zoomを買いました。
コンパクトデジカメは、そのあとソニーのWX7が、素晴らしく使い易く、今でも、ブログに使う写真のほとんどを撮影しています。
はっきり言って、オモチャでしたが、次に買ったFuji FinePix2700は、素晴らしいデジカメでした。
あとからオプションで、広角レンズと望遠レンズを買いました。
当時は、ホームページをなんとか作ろうとして、こんなソフトも買いましたが、全く使い物にならず、自分で本をかってきて、HTMLタグのお勉強をしました。
その後、finepix f420を買い、ズームが欲しくなって、Olympus Camedia C760 Ultra Zoomを買いました。
コンパクトデジカメは、そのあとソニーのWX7が、素晴らしく使い易く、今でも、ブログに使う写真のほとんどを撮影しています。
利口な猿
ある日、一匹のサルが木から木へと飛び移っているときに、しっぽに棘が刺さってしまい、じぶんではどうしても抜くことが出来ませんでした。
サルは、困った挙げ句、いつもお世話になっている床屋に行って、このしっぽに刺さった刺を抜いてくれと頼みました。うまく抜いてくれたら、お礼をするからと床屋に言いました。
床屋は、サルの望みをかなえるために、かみそりを使って棘を抜こうとしました。棘を抜くことは出来ましたが、床屋は、ついうっかりサルのしっぽの先を少し切り落としてしまいました。
サルは、もちろん怒って、床屋に俺のしっぽを元通りにするか、もしそれが出来ないのなら、おまえの大切なかみそりをよこせと叫びました。
床屋は、もちろんしっぽを元通りにすることは出来ませんから、ここは、喧嘩をしても勝ち目はないからと、大切なかみそりを、このサルにくれてやることにしようと、サルにかみそりを渡しました。サルは、かみそりをもらって、儲かったと喜びました。
その帰り道、サルは、年老いたおばあちゃんが、薪を切っているところに差し掛かりました。サルは、おばあちゃんに向かって、このかみそりを使えば、もっと簡単に薪が切れるよと、かみそりを渡しました。おばあちゃんは、かみそりを使って薪をきろうとして、かみそりの刃を折ってしまいました。サルは、それを見て、おばあちゃんに怒りました。
おばあちゃん、かみそりを元通りにするか、おばあちゃんの薪を全部俺にくれるかのどちらを選んでくれといいました。おばあちゃんは、折れたかみそりを元通りにすることは出来ませんから、サルに謝りながら一生懸命集めた薪を全部このサルにあげました。
サルは、薪を背負って歩きながら、「どうだい俺はたいしたものだろ。一銭のお金を使うこともなく、こんなにたくさんの薪を手に入れることが出来た。」と心の中で喜びました。
しばらくして、今度は、もう一人のおばあちゃんが、美味しそうな魚料理を作っているところに出くわしました。サルは、おばあちゃんに料理をごちそうしてくれといってもくれるわけがないから、その料理をごちそうになるための作戦を考えました。なんてたって、「俺は利口なサルだから、こんなおばあちゃんを騙すことぐらい簡単なことだ。」と思いました。
サルは、おばあちゃんのところに行って、おばあちゃん、もう火が消えかけているから、俺の持っている薪を少し使ったらどうかといいました。おばあちゃんは喜んで、サルからもらった薪を使って料理を続けました。おばあちゃんは、サルの持っていたすべての薪を使ってしまいました。サルは、怒って、おばあちゃんの作っていた料理を、その償いに全部持っていってしまいました。
サルは、急いで帰ってこの美味しそうな料理を食べようと、家に向かいました。
ちょうどその時、一匹の恐ろしい犬が、サルの持っている料理のいい匂いを嗅いで追いかけてきて、突然サルに襲い掛かりました。
サルは、驚いて、急いで木に登って、難を逃れましたが、料理は、犬に取られてしまいました。
おいしそうに料理を食べている犬を見ながら、サルは、「世の中には、利口なやつがたくさんいる。自分1人だけが、利口ではない。」と悟りましたとさ。
Copyright(c) 1997 北風剛
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2017年8月17日木曜日
高校女子柔道と女子バレーボール
金鷲旗を目指して戦う高校柔道ですが、やはり、阿部詩選手と素根輝選手が、ずば抜けていました。
2人とも、まだ2年生で、すでに高校レベルではなく、全日本レベルのようで、阿部選手は、決勝で4人抜き、素根選手は、なんと5人抜き、すべて1本勝ちでした。
2020年の東京オリンピックで、金メダル候補間違いないと思いますが、とにかく、大怪我だけはしないで欲しいです。
マニラで行われた女子バレーボールの第19回アジア女子選手権大会決勝で、日本はタイと当たりました。
第1セットは、どちらも譲らず、セットポイントの応酬で、最終的に、タイが28-26で日本に勝ちました。
第2セットもタイは、やることなすことうまくいって、かなりの得点差がつくかと思われましたが、それでも徐々に追い上げ、25-20で負け、2-0で、もはやダメかと思いましたが、第3セットから、サーブと速攻がさえ、16-25で日本がとりました。
勢いに乗ってきた日本は、第4セットも16-25で勝って、2-2のイーブンまで追いつき、最終の第5セットに入りました。
流れは、完全に日本で、危ないところもなく、7-15で日本が勝ち、アジアチャンピオンになりました。
タイは、2セット連取して、少し慢心したのか、失速し、コーチも感情的になってしまっていました。
これからは、韓国よりも中国よりもタイが、日本のライバルになりそうです。
女子バレーボールは、選手層も厚く、東京オリンピックまでには、まだまだ新人もでてきそうで、楽しみです。
2人とも、まだ2年生で、すでに高校レベルではなく、全日本レベルのようで、阿部選手は、決勝で4人抜き、素根選手は、なんと5人抜き、すべて1本勝ちでした。
2020年の東京オリンピックで、金メダル候補間違いないと思いますが、とにかく、大怪我だけはしないで欲しいです。
マニラで行われた女子バレーボールの第19回アジア女子選手権大会決勝で、日本はタイと当たりました。
第1セットは、どちらも譲らず、セットポイントの応酬で、最終的に、タイが28-26で日本に勝ちました。
第2セットもタイは、やることなすことうまくいって、かなりの得点差がつくかと思われましたが、それでも徐々に追い上げ、25-20で負け、2-0で、もはやダメかと思いましたが、第3セットから、サーブと速攻がさえ、16-25で日本がとりました。
勢いに乗ってきた日本は、第4セットも16-25で勝って、2-2のイーブンまで追いつき、最終の第5セットに入りました。
流れは、完全に日本で、危ないところもなく、7-15で日本が勝ち、アジアチャンピオンになりました。
タイは、2セット連取して、少し慢心したのか、失速し、コーチも感情的になってしまっていました。
これからは、韓国よりも中国よりもタイが、日本のライバルになりそうです。
女子バレーボールは、選手層も厚く、東京オリンピックまでには、まだまだ新人もでてきそうで、楽しみです。
2017年8月16日水曜日
傷はなめると治る
チリ大学歯科学部の研究チームが、唾液は抗菌作用だけでなく、唾液の成分に細胞組織をつなぎ合わせ、傷をふさぐ働きがあることを発見した。
子供の頃、転んで怪我をすると、親から、そのくらい、なめておけば治るといわれました。怪我の程度にもよりましたが、出血でも、なめたり、吸ったりしていると止血されたことを覚えています。
ネコなんかを見ていても、毛繕いだけでなく、怪我をしたときもよくなめます。
でも、猫の避妊手術などの場合には、なめないように首に漏斗のようなモノを取り付けますよね。
ですから、唾液も万能ではなくて、皮膚の浅い傷なんかには効果があっても、深い傷ですと、唾液に含まれている雑菌の方が恐ろしい結果に結びつくんでしょうね。
擦り傷程度なら、別に唾液でなくても、きれいな水で洗うだけでも効果はあるような気もします。
怪我といえば、昔は、すぐにオキシフルで消毒して、赤チンを塗るというのが、基本だったと思います。消毒には、ヨードチンキなんかもありましたが、あれは、臭いし、しみて痛かったです。
飲み薬も苦い粉薬はオブラートで包んで飲んでいました。あれも、喉にくっついたりして、上手に呑み込むのは大変でした。オブラートというのは、オランダ語だそうです。知りませんでした。
暑い夏には、ベビーパウダーのシッカロールも大活躍でした。
子供の頃、転んで怪我をすると、親から、そのくらい、なめておけば治るといわれました。怪我の程度にもよりましたが、出血でも、なめたり、吸ったりしていると止血されたことを覚えています。
ネコなんかを見ていても、毛繕いだけでなく、怪我をしたときもよくなめます。
でも、猫の避妊手術などの場合には、なめないように首に漏斗のようなモノを取り付けますよね。
ですから、唾液も万能ではなくて、皮膚の浅い傷なんかには効果があっても、深い傷ですと、唾液に含まれている雑菌の方が恐ろしい結果に結びつくんでしょうね。
擦り傷程度なら、別に唾液でなくても、きれいな水で洗うだけでも効果はあるような気もします。
怪我といえば、昔は、すぐにオキシフルで消毒して、赤チンを塗るというのが、基本だったと思います。消毒には、ヨードチンキなんかもありましたが、あれは、臭いし、しみて痛かったです。
飲み薬も苦い粉薬はオブラートで包んで飲んでいました。あれも、喉にくっついたりして、上手に呑み込むのは大変でした。オブラートというのは、オランダ語だそうです。知りませんでした。
暑い夏には、ベビーパウダーのシッカロールも大活躍でした。
WI-FI
私の場合は、有線でつないでいるので、かなりのスピードが出ています。
ところが、Wi-Fiルーターから10メートルほど離れた部屋では、無線Lanの受信スピードが遅いので、なんとかならないかと、試行錯誤しています。
ネットで調べたら、アルミフォイルを使う方法があったので試してみました。
wi-fiアナライザーというスマホアプリで調べたら
アルミを使わない状態
アルミを使っていい状態の時
よくない状態というか、ほとんどが
アンテナの角度とか、アルミの位置とか、いろいろと動かしましたが、もう少し、試行錯誤を続けないと
ちなみに、電波を強める装置は、4700バーツ(約1万5千円)で売っているそうです。
ところが、Wi-Fiルーターから10メートルほど離れた部屋では、無線Lanの受信スピードが遅いので、なんとかならないかと、試行錯誤しています。
ネットで調べたら、アルミフォイルを使う方法があったので試してみました。
wi-fiアナライザーというスマホアプリで調べたら
アルミを使わない状態
アルミを使っていい状態の時
よくない状態というか、ほとんどが
アンテナの角度とか、アルミの位置とか、いろいろと動かしましたが、もう少し、試行錯誤を続けないと
ちなみに、電波を強める装置は、4700バーツ(約1万5千円)で売っているそうです。
2017年8月13日日曜日
スターバックス
ほとんど外ではコーヒーを飲まないのですが、スターバックスにSTARBUCKS RESERVE®があり、サイフォンとドリップのコーヒーがあったので、サイフォンを注文してみました。
スターバックスは、マニュアルがしっかり出来上がっているようで、注文から、親切丁寧に説明してくれたし、コーヒー豆の重さもしっかり計量していたし、温度管理から沸騰させてからの時間も計っていました。
ちなみに注文した豆は、CONGOでした。
かなりフルーティーでコーヒーらしい香りとはちょっと違う感じでした。
自然な甘さがあるので、ブラックでおいしく飲めます。量がかなり多めでした。
お値段は、ちょっと高めの200バーツ(約600円)。
スターバックスは、マニュアルがしっかり出来上がっているようで、注文から、親切丁寧に説明してくれたし、コーヒー豆の重さもしっかり計量していたし、温度管理から沸騰させてからの時間も計っていました。
ちなみに注文した豆は、CONGOでした。
かなりフルーティーでコーヒーらしい香りとはちょっと違う感じでした。
自然な甘さがあるので、ブラックでおいしく飲めます。量がかなり多めでした。
お値段は、ちょっと高めの200バーツ(約600円)。
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