2017年9月30日土曜日

「タイで優雅な年金生活」の夢が破綻、大惨事も
物価高騰のバンコクからチェンマイ、チェンライへ、しかし・・・

タイは、70年代から、バックパッカーのパラダイス的なところで、インド旅行やヨーロッパ旅行の途中にタイによって、そのまま沈没する人も少なくありませんでしたし、80年代のバブルの時に、札束をもって、豪遊しにタイに来た人たちも多かったです。

その後、外こもりの流行もあり、早期退職者も夢を抱いてタイに来ました。

そして、団塊の人たちが、定年退職をする頃になって、退職後は、年金でタイで優雅に暮らそう的な流行もありました。

退職者ビザとか、ロングステイビザなどもあって、計算上は、年金で、優雅に暮らせるはずのタイでの暮らしも、いろいろな問題もあるし、物価の上昇もあるし、病気になった時のこともあるしで、なかなか理想通りに暮らしている人たちばかりでもないようです。

たぶん、現地の言葉も話せない日本人でも、日本料理以外は苦手の日本人でも、治安や親日度などを考えても、タイは、世界でも、日本人が暮らしやすいところに間違いは無いと思います。

でも、やはり、言葉が出来なければ、苦労しますし、日本料理しかダメだと、お金も掛かります。病院でも、日本語が話せる医師のいるような病院は、かなり高いです。

現地人価格と外国人価格(特に日本人価格)には、大きな差があることが多いです。

世の中、なかなか甘い話はないのもで、美味しい話には、裏があります。日本人退職者をマーケットとしている、業者も多く、美味しい話をしているときには、気をつけて方がいいかもね。

若いときから、しっかり準備をして、少なくとも、タイ語を不自由なく使えるくらいでないと、よほど、余裕ある貯蓄がない限り、タイでの老後暮らしは、厳しい可能性が高いと思います。

昔から言われてきたことは、タイは、仕事をしたり、暮らしたりするところではなく、たまにお金を持って遊びに来るところかもしれません。

今や、経済的なことだけなら、日本の田舎暮らしの方が安上がりで安心かもね。

今年になって、ビザなしで、隣国との間を行ったり来たりする長期滞在者が、ビザ規制で、帰国しているとの話もあり、日本人相手の商売も過当競争で、店を畳む人が多いそうです。

いい時は、すべてがいい方向に進みますが、いったん潮が引き始めると、下り坂を転げるように、日本人が減っていく可能性もあります。

ちなみに、以前は、隣国マレーシアとタイ入国者数で競っていた日本ですが、今は、中国が1番ですし、日本は、韓国よりも少ないのが現実です。

テレビを見ていても、韓国ヨイショが多いですし、街には中国人が溢れています。




1973年10月のパリ

1973年3月3日に横浜からソ連の客船ジェルジンスキー号に乗ってナホトカに向かった日本人たちの中で、親しくなった人たちと、まだヨーロッパに滞在していたら、半年後の10発6日にパリで再会しようと話あいました。

インツールストの旅程は、ヘルシンキ駅までで、そこからは、各自自由行動でした。

鉄道、フェリー、飛行機、ヒッチなど、いろいろな方法で、ヘルシンキを去って行きました。

わたしは、ヘルシンキのあとは、ストックホルムに2ヶ月くらい滞在し、その後、ドイツを旅行し、スイスに3ヶ月間滞在し、10月にパリに入りました。

パリは、わたしのスイス滞在中に伯父がパリに滞在していると知って、訪ねていったことがあり、10月に行ったときには2度目でした。

伯父さんは、画家だったので、パリに滞在して、デッサンとか写真を撮ったりの滞在でした。手紙にあった住所 Hotel Madeleine Palace、8 Rue Cambon, 75001 Parisの住所だけで、スイスのチューリッヒから列車でパリまで行って、そのあとどうやって行ったのか記憶にないけど、間違いなく、ホテルを見つけて、部屋に泊めてもらい、夕食をご馳走してもらいました。

ホテルは、古い建物で、なかなかいい感じでした。生まれて初めて、便器の横にあるビデを見ました。バスタブも、かっこよかったです。近くには、小さな凱旋門がありました。オペラ座近くの三越と、その近くの日本レストランに連れて行ってもらいました。

フランス語なんか出来ないのに、若いってのは、怖い物知らずです。

そして、10月に2度目のパリに行ったのですが、カルチェラタンに星なしの安宿を探し、そこに滞在しながら、パリをメトロと徒歩で、歩き回りました。

そして、約束の10月6日には、パリ郊外にあるロンシャン競馬場に行くことが出来ました。


わたしは、カメラマンで、写真には写っていません。ロンシャン競馬場にて




こちらは、誰かに撮ってもらった写真で、場所はたぶんシャンゼリゼのカフェだと思います。
わたしは、左から4人目。名前を思い出せない人もいます。





パリは、郊外のベルサイユ宮殿を含め、多くの見所があって、とても素敵でした。ルーブルも、本当に素晴らしかったです。

当時は、治安もよく、危険な思いをしたこともなかったです。

パリ観光のあとは、パリで落ち合った仲間のうちの数人と列車でロンドンに向かいました。

。。。。。。。。。。。

今日(10月1日)に昔のパスポートを見ていて、フランスのスタンプを発見しました。

記憶では、はじめてチューリッヒから列車でパリに行ったときには、イミグレーションチェックはありませんでした。

ところが、2度目に同じルートで行ったときには、サン・ルイ駅にて、別室に連行されて、荷物検査を受けました。

思い出してみれば、最初に行ったときには、短期間でスイスに戻る予定でショルダーだけでしたが2度目に行ったときには、スイスには戻らず、パリのあとにはロンドンに行くつもりで、すべての荷物を入れたカニ族の登山用リュックを背負っていたので、たぶん、引っかかったのだと思います。

3年間の滞在で、荷物検査は、あの時だけでした。イミグレーションでいろいろと聞かれることは一度もありませんでした。











スイスにオノ・ヨーコさんの2枚組アルバム「Approximately Infinite Universe」を忘れてきたのが、ものすごく残念です。


1971年8月1日

1971年8月1日、ニューヨーク市マンハッタンマジソン・スクエア・ガーデンにてバングラデシュのためのコンサートが開催されました。

当時から世界最貧国のひとつだったバングラデシュですが、元ビートルズのジョージ・ハリソンが、当時大きな影響を受けていたインドの音楽家ラビ・シャンカール(ノラ・ジョーンズのお父さん)の話しを聞いて、バングラデシュの人びとが飢えに苦しんでいることを知り、友人たちに声をかけて、バングラデシュ難民救済チャリティーコンサートを開きました。

当時、すでにビートルズは解散し、メンバーたちは、個々に活躍していましたが、このコンサートに、リンゴ・スターも参加しています。他には、エリック・クラプトンとかレオン・ラッセルとか、昨年ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランも参加しています。みんなノーギャラで。

コンサートの収益やコンサートの映画やDVDやLPなどの収益も、すべてバングラデシュに寄付したそうです。

当時、ジョージは、まだ28歳。政治や信条を越えて、単に善意のコンサートというのが、素晴らしいと思います。日本のミュージシャンも、ロヒンギャ難民救済コンサートとかすればいいのにね。



インパール作戦(日本側作戦名:ウ号作戦)とは、1944年3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。

最悪の作戦で、多くの犠牲者を出した作戦ですが、この援蒋ルートというのが、最近、また注目されてきています。

中国は、一帯一路構想で、中国から内陸と沿岸との2つの大きなルートでヨーロッパや中東やアフリカと結ぼうとしています。

そのうち、昆明からミャンマー西部ラカイン州の州都シットウェ(Sittwe)へのルートは、イギリスが、日本との戦いの中で開拓した援蒋ルートに重なります。

中国は、中東からの石油をこのルートに2つのパイプラインを建設して中国まで運ぼうと計画しているのです。海賊や海難事故の多いマラッカ海峡を通ることなく、短距離でつながります。

ミャンマーとバングラデシュの地図を見ると理解できますが、バングラデシュは、インドに囲まれるような形で、ベンガル湾の部分だけが、ミャンマーと国境を接していますが、バングラデシュの北部と北東部にはインドがあって、インドはミャンマーと国境を接しています。

インドもミャンマーも元はイギリスの植民地であったわけですが、イスラム教徒の多い地区が、東西パキスタンとして独立、その後、東パキスタンがバングラデシュとなっています。その時の混乱で、多くの人びとが飢え苦しんだので、ジョージたちがチャリティーコンサートをしました。

日本は、戦前からインドやミャンマーの独立派と手を結び、インドやミャンマーからイギリスを追い出そうとしていました。インドは、親日国です。東京裁判で、日本の立場を理解したインドのパール判事は、有名ですよね。

極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人で、判事全員一致の有罪判決を目指す動きに反対し、平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)で知られる。

ミャンマーのアウンサン・スー・チーさんのお父さんでミャンマー建国の父といわれるアウンサン将軍も日本の南機関に所属した親日家でした。

アウンサン・スー・チーさんは、日本の京大にも留学経験がありますが、亡くなったご主人はイギリス人で、お子さんたちは、イギリス国籍を持っています。どうも彼女は親日派でもないようです。

ミャンマーは、独立後、社会主義国として、旧ソ連や中国との関係が深かった国です。特に軍事政権時代には、中国の影響力も強くて、その関係は、今も続いているようです。

中国は、今、一帯一路構想といいながら、中国が重要と考える世界中の港湾に巨額の投資をしています。スリランカやオーストラリアの港などが有名ですが、借金漬けにして、中国の言いなりになる港作りと陰口をいわれています。

日本と韓国の例を出すまでもなく、世界中のほとんどの国境を接する国々は、仲がよろしくありません。中国とインドも、インドとパキスタンも、仲はよくないです。そこで、日本は、中国を牽制する意味でも、最近は、インドととても仲良しです。

インドもミャンマーを横断して、タイからベトナムへと続く、東西回廊の構想を日本と手を組んで進めています。こちらも、中国が横やりを入れています。最近のタイは、中国にかなり近寄っています。日本が計画した高速鉄道なども、中国が横入りしてきています。

日本が進めている南部経済回廊は、ミャンマーの南部にあるダウェイ港 (Dawei Port)から、タイの戦場にかける橋で有名なカンチャナブリを経由して、バンコクからカンボジアに入り、ベトナムのホーチミンまで続く道路のことです。

その北にあるのが、東西経済回廊で、ミャンマーのモーラミャインからタイのターク、ムクダハーン、ラオス、ベトナムのダナンへと続く道路構想です。

中国は、日本に主導させてなるものかと、いろいろな国で経済援助をエサに邪魔してきています。

こうした動きを見ると、何となく、戦争中のインパール作戦ではないですが、日本と手を組むインド、中国と手を組むイギリスといった構図を妄想します。

そして、話が、バングラデシュの難民救済に戻りますが、ミャンマーとバングラデシュの国境地帯に住んでいるロヒンギャ(ベンガル人)たちの問題に、中国の一帯一路構想と関係があるのではないかといった説も出でてきています。

中国と手を組んで一帯一路構想を進めるミャンマーの権力者、特に軍部が、計画地域で暮らしている人たちを立ち退かせるために、放火や虐殺をしているという噂もあるようです。

経済発展で、大きな利権も生まれます。大きな利権争いに、一般市民が巻き込まれます。

ミャンマーには、豊富な地下資源が眠っているそうですし、東西の交通の要になってきています。それ以外に、ミャンマーは、麻薬の生産国としても有名で、そういったビジネスに多民族間の争いが利用されることもあるようです。

“ロヒンギャ問題” 調べたら全然違うじゃねーか!

日本は、政治や信条を越えて難民救済や経済協力で、バングラデシュやミャンマーの貧困層や子供たちを救済していって欲しいですね。

国際小包

海外にいると、日本から物を送ってもらったりすることもありますが、ヤフオクで、古いフィルムカメラを落札するのにはまったときには、まとめて、バンコクまで送ってもらいました。

手紙と同じで、小包でも航空便で送ることが出来ますが、大きさや重さに制限があり、料金も高いです。

航空便、SAL便、船便については、こちらに詳しいことがあります。

船便の最大重量は30キロです。昔のカメラは、重たいですから、30キロでも、そんなに数多くは入れられません。











日本からの小包は、自宅まで届けてもらえるとは限りません。航空便でも船便でも、先に書類だけが届いて、どこどこまで取りに来てくださいと書かれている場合があります。

そこに、関税が書かれている場合もあれば、書かれていないこともありますので、ちょっとドキドキします。

私の場合には、家から5キロくらい離れたとことにある大きな郵便局まで取りに行くことが多かったです。そこで、関税を支払って、荷物を受け取ります。

一度、カスク(自転車用の簡易ヘルメット)を日本から送ってもらったときに内容物をヘルメットと書き、価格も正直に書いたために、かなりしっかり税金を取られ、学習をしました。

重さ30キロくらいですと、ドンムアン空港近くの巨大な郵便局の施設まで荷物を取りに来てくださいとの書類が届きました。

施設の中に入るには、身分証明書の提出が必要で、届いた書類をカウンターに出して、番号札をもらい、その番号が、電光板に提示されるまで待ちます。

番号が表示されたら、指定されたカウンター番号のところまで行って、係官が持ってきた荷物をその場で開けて中を調べます。

係官から中身についての質問があり、関税を査定され、支払いのカウンターで支払いを済ませると、荷物を受け取ることが出来ます。

私の場合には、高級なカメラではなくて、ゴミみたいなカメラがほとんどで、自分で修理の真似事をするための教材ということで、関税は安かったです。

何度もいろいろな方法を試し、試行錯誤の末に学習をして、それなりの方法もわかりました。

カメラも重かったですが、LPレコードも100枚くらいで30キロになります。











ヤフオクなど、日本から海外まで送ってくれる業者もあるようですが、時間があれば、自分でやる方が、いろいろと楽しいです。

商売でやっている人たちは、素人には想像も出来ないような方法でやっているのでしょうけどね。

海外引っ越し便

海外での滞在をはじめる人のほとんどがお世話になるのが、海外引っ越し便です。

日本から海外の滞在先まで、家具とか衣類とか食器とか、時には電化製品とか、いろいろと大量に運んでくれるサービスです。

こんな所こんなところが有名です。

わたしは、クロネコヤマトを利用したことがありますが、非常に親切な対応でした。

ネットでいろいろと調べて、希望の商品をお願いすると、梱包に必要なものとか書類を届けてくれ、詳しい説明をしてもらえます。

送り先の国によっては、持ち込めないものもありますので、そこは注意が必要です。意外だったのは、剣道の木刀はやめた方がいいとのことでした。銃剣等にあたる可能性があり、面倒な手続きが必要になることも考えられるからだそうです。

タイは、日本の食品も持ち込みがうるさいです。

日本からタイにものを送るには、普通は、航空便や船便での郵便小包ですが、そちらも、大きさや重さに制限があり、大きなものは送ることが出来ません。

もしかしたら、シッピングの会社にお願いすれば、いい方法もあるのかもしれませんが、自分で、送り状とか、いろいろな書類を書いたりするのは、簡単ではないと思います。

海外引っ越し便ですと、パスポートとか、航空券などがそろっていれば、ほとんどの書類は業者の方でやってくれます。規則や法律は、変わる可能性があるので、専門業者に任せた方が安心です。

あとは、送る荷物をまとめて、必要に応じて段ボール箱に詰めるだけです。段ボールのサイズと個数は、事前に指定できます。

あとは、段ボールごとにおおざっぱに何がどのくらい入っているかをメモしておきます。

大きなものは、実際に引き取りに来てくれるときに、業者の方で安全に梱包をしてくれます。

そして、到着日を指定しておけば、それにあわせて発送してくれます。

現地では、現地に着いた日付の入ったパスポートのページなどを業者にファックスで送っておけば、手続きは全部やってくれて、指定の住所まで届けてくれます。











私の場合には、全く税金はかかりませんでした。

料金は安くはないですが、いろいろな面倒なことを自分でする必要が無いから、妥当だと思います。

もし、もっといい方法をご存じの方が、いらっしたら、教えて欲しいです。


2017年9月29日金曜日

自転車の話

中学生だった頃は、学習塾に通うため、毎日のように自転車に乗っていましたが、大人になってからは、ほとんど乗らなくなっていました。

50年前から、変速機付きの自転車はありましたが、自転車は、坂道と強風に弱いというか、疲れました。

ですから、電動補助のついた自転車も売れるんでしょうね。

6年ほど前に、タイでも芸能人などの間に自転車ブームが起き始め、いろいろな種類の自転車も売られはじめました。

日本から中古の自転車も大量にタイに入ってきていました。何度も見に行きましたが、三連勝とか、SPECIALIZEDとか、高級自転車も売っていました。

ただ、あくまで中古ですし、日本からコンテナに詰め込んだり、分解して運び、こちらで組み立て直したりで、バランスはよくないようでした。

最初は、オシャレな自転車をと思って、イギリスの折りたたみ自転車Bromptonを買いましたが、タイの道路事情を考えて、タイヤの太いマウンテンバイクを買い、それをメインに乗っていました。

かなりわかりづらいですが、手前が、折りたたみのブロンプトンで、奥が29インチのタイヤのマウンテンバイクのメリダ







Brompton






マウンテンバイクは、安定度抜群で、バンコクの悪路に相応しいのですが、車体が重くタイヤも大きくて太いので、漕ぐのが重いですし、スピードも出ません。

自転車に乗り始めは、自転車専用コースなどで他の自転車にスイスイと抜かれるのが、ちょっと悔しいわけです。

そこで、次に買ったのが、チネリのロードバイクでした。これは、スピードは出やすいのですが、いくら自転車の性能が上がっても、漕ぎ手は老いぼれですから、若者たちにはどんどん抜かれますし、タイヤが細いので、普通の道路では、かなり怖いです。

ハンドルも、ロードバイク用のドロップハンドル(?)は苦手でした。


こちらは、ほどなく売ってしまいました。





そして、これを日本のヤフオクで落として持ってきました。
ハンドルを棒ハンドルに替えました。





でも、やっぱり、タイヤが細いのは怖いし、クロモリのフレームでXTのコンポで組み立ててもらいました。











自転車を組み立ててもらうには、自分にあったフレームの大きさ、自分の目的に合ったフレームの材質を選びます。軽いカーボンとか、一般的なアルミとか、重いけど、しなやかなクロモリとかがあります。

そして、起動部が重要で、以下のようなものがあります。

シマノ

ロードバイク用

DURA-ACE
ULTEGRA
105
Tiagra
SORA
Claris
Tourney

マウンテンバイク用

XTR
Deore XT
SAINT
SLX
Deore LX
Deore
スタンダード9スピード
Alivio
M410
Acera
M360
Altus
Tourney


イタリア・カンパニョーロのパーツセット

Super Record
Record
Chorus
Athena
Centaur
Veloce
Comp


米国SRAMのパーツセット

マウンテンバイク用

レッド
フォース
ライヴァル
エイペックス


こうしたセットの中にある、クランクセット、ボトムブラケット、変速レバー、ブレーキ、ブレーキレバー、前後変速機、ハブ、多段ギアなどの部品を選び、組み立てます。

車輪の大きさやタイヤの細さなども選びますし、ハンドルやサドルやペダルなども選びます。

パソコンを組み立てるような楽しさがあります。

でも、自転車も、危険が伴い、転んだり、ぶつかったりすれば、自分だけでなく他人に怪我をさせることもあります。

わたしは、雨上がりに、自転車で、かなり派手にすってんころりをしてしまい、大きな怪我はなかったものの、それ以来怖くなって、自転車に乗ることも少なくなってしまいました。

一般道で乗るのなら、やはり、なるべく安全な自転車いいと思いますが、スピードの出る高級自転車を買ったら、やはり、それに乗って颯爽と走りたいでしょうね。

折りたたみの自転車は、持ち運びは出来ますが、車輪が小さいし、乗りにくいです。

バンコクで自転車に乗るのなら、高級な自転車は、盗まれそうで、心配でなりませんし、近距離を乗るだけなら、中古の安物の方が気楽だと思います。

わたしのは超高級ではないですが、それでも、小型バイクが買えるような値段ですから、盗まれる心配がある時には、自転車には乗らず、歩きます。

2017年9月28日木曜日

この写真はどこ?

1973年から1976年にかけてのヨーロッパ旅行中にフィルムを現像したことは1度しかありませんでした。ほとんどのフィルムは、日本に帰ってから現像に出しました。

その結果、写真を見ても、どこかわからない写真がたくさんあります。旅行したところ、滞在したところは、わかっているので、そのどこかなんですが、正確な場所がわかりません。


スイスからリヒテンシュタインへと旅行したときに撮った写真のような気がします。
 これは、スイスかドイツかオーストリアか
これは、たぶん、北ドイツのリューベックで間違いないと思われます。

 ホルステン門については、また機会をあらためて書くつもりです。
 こちらは、リューベックかリューネブルグ
 こちらは、全くわかりません。

ドイツかベルギーか?
 こちらもどこかわかりません。

フランスかベルギーか?
 これもはっきりわかりませんが、もしかするとドイツのオスナビューリックかミュンスターあたりか?
 これもわかりません。

フランスかベルギーかドイツか?
 こちらは、写真に路上の売店が写っているから、たぶんパリ市内。
 これは凱旋門が写っているからパリ
 こちらもパリの裏通り
 こちらもパリだと思うけど、もしかするとルクセンブルグか?
 どこか、全くわかりません。
こちらは、ドイツのブレーメンかベルリンだと思う。









ヨーロッパで撮った写真の多くが、行方不明で、とても残念です。

フィルムが見付かると、フィルムスキャナーでスキャンして保存するようにしています。

元気になった4匹のネコたち

今月の初めに飼っている4匹の避妊手術を順番に行っていきました。

自分も何度も開腹手術を受けてきたし、タイ人は殺生や生き物を苦しめることを嫌うからか、避妊手術には、かみさんが、なかなかOKを出しませんでした。

もともと、この4匹のネコたちは、息子が連れてきたネコたちで、息子は猫かわいがりだけで、トイレとか予防注射とか、なんの世話もしないので、仕方なく、親が世話をし始めてきたわけです。

飼えば可愛いのが当然ですし、子供の頃から家にはネコがいっぱいいたし、動物は、爬虫類と両生類以外はだいたい好きですし、今までかわいがってきていますが、やはり、万が一外に逃げ出して、妊娠して帰ってきた時を考えると、たった4匹でも振り回されているのに、4匹が8匹、16匹と増える悪夢を考えると、やはり避妊手術は、飼い主の義務ではないかと思うわけです。

日本でもタイでも、猫が増えすぎてのトラブルは多いです。子猫の時は可愛いですが、すぐに発情するし、ものすごい勢いで数は増えて、もう飼い主もお手上げになります。

そういったニュースがあるごとに、もしも、うちのネコたちが妊娠をしたら、飼いきれないとか、もらい手もないだろうとか、捨てるわけにもいかないから、我々も、もっと大変になるだろうなとか、いろいろと説明してきました。

そして、4匹の手術をしたわけですが、順調に快復した3匹に対して、最後に手術を受けたミミだけが、普段から行動的というか、攻撃的で、自分のお腹にあるプラスターを歯で噛みついて剥がしてしまい、傷あとを舐めるから、なかなか傷あとの化膿が治りませんでした。

かわいそうでしたが、エリザベスカラーをつけて、化膿止めや痛み止めの薬を飲ませ続けて、やっと、腫れも引いて、傷あともきれいになってきました。

他の3匹が1週間でほとんどきれいになったのに、ミミだけが、2週間以上かかっています。

それで、最初に手術を受けたクロが、食欲旺盛でちょっと体重が増えてきています。

このTanitaの体重計が便利で、猫を抱いて体重計に乗ったあと、猫を放して、自分だけで体重計に乗ると、猫の体重が表示されます。

現在クロの体重は3.5キロです。




クロは、手術前、ほぼ毎日のように、トイレ以外で排便や排尿をしていましたが、手術後は、2階だけ失敗をしただけで、あとは、きちんとトイレでしています。

これは手術をしてよかったことの一つです。

そして、今まで、他のネコの上位にいたミミが、傷の治りが悪かったためか、首にエリザベスカラーをつけている時期が長かったためなのか、序列に変化があるようで、他のネコたちを威嚇しなくなっています。

そして、チャチャー以外の3匹が、なんか、以前にも増して、スキンシップをしてくるようになっていて、特に、ミミが、うるさいくらい、つきまとってきます。まるでストーカーで、みゃあみゃあうるさいです。

でも、4匹とも元気になって、本当によかったです。

タイでの暮らし

タイで暮らしはじめたのは、1977年でしたから、タイ滞在は、およそ40年になります。

ずっと仕事をしていましたが、昨年からは、無職です。収入は、日本から送金されてくる年金が、月に4万円弱で、それ以外に多少の収入があります。

仕事をしていたとき、日系の会社ではなかったので、厚生年金には加入しておらず、父から日本人としての義務だから国民年金は、しっかり払うようにと言われ、いやいや受け取りの権利が発生する25年間支払い続けました。

ちょうど円高の時期が長く、メチャクチャ苦しかったのですが、海外で得た収入を日本に帰国したときに自分の口座に入金しておき、そこから自動引き落としで国民年金を支払ってきました。

海外に滞在している期間は、支払免除もあって、支払わない期間も支払った期間に含まれるそうですが、当然、受け取る金額は、その支払っていなかった分だけ少なくなるそうです。

今年から、25年が10年に短縮されたそうです。この辺の詳しいことは、こちらに書かれています。

老後を海外でといったブームもあったそうですが、日本でしっかり国民年金や厚生年金を支払ってきた人たちなら、経済的には、物価の安い国に住むことはメリットがあると思います。

ただし、人生は経済的なことだけではありませんし、いざ病気になった時など、問題もあります。

わたしは、海外で寝たきりになったり、障害者になったりしたら、どうなるのだろうかという不安を常に持っています。

日本はいい国ですから、日本人が世界中どこに行っても、ほとんど嫌な思いをすることは少ないでしょうけど、でも、差別とかトラブルが皆無ともいえませんし、為替問題に象徴されるように、将来どうなっていくのかは誰にもわかりません。

治安の問題や食の安全問題、大気汚染などもあります。

日常生活では、言葉の問題、食の問題、人間関係や、習慣の違いなどもあるでしょうし、時には、宗教問題もあるかもしれません。滞在ビザなど、法律の変更もあるでしょうね。

寒いのが嫌だから暖かいところで暮らしたいとか、ゴルフや魚釣りなど趣味を楽しめる環境だからとか、語学の勉強のためとか、求めるものはそれぞれでしょうから、自分にとってのメリットが多ければ、老後を海外で過ごすのもいいかもしれません。

海外で暮らすときに、まず、衣食住のうち、住むところが問題になります。住居にかかる費用は、まちまちで、タイの場合には、安いところなら、それこそ月に1万円くらいからありますし、高級マンションなら、日本よりは広いと思うけど、日本と同じくらいの家賃の所もあります。

住居に20万円以上かけたら、いくら共済年金をもらっていても、夫婦で公務員だったとかのケース以外では、それほど余裕はないかもしれません。

私の場合には、国際結婚をしているので、かみさん名義の住居は、基本ただです。これが大きいです。

必要なのは、食費と電気代が大きく、あとは、通信費くらいです。酒もタバコもたしなまないし、外食も遊興もほとんどなしですから、お金は使わないです。

でも、わたしのような人は少なく、もっと人生を謳歌している人が多いでしょうから、もっとお金は掛かると思います。

わたしは、暑がりで、クーラーは、ほぼつけっぱなしですから、電気代は、毎月1万5千円前後かかります。

食事は、自炊とか、かみさんが買ってきてくれるものを食べていますが、食費としては2万円強くらいかな。

タイでは、今のところ固定資産税もないですし、市町村税もないですし、無職の場合、消費税以外に税金はなしです。

仕事をしていたときには、当然所得税を支払いましたし、社会保険も支払っていました。今は任意ですが、タイの社会保険に加入して支払っているので、指定の病院での診察や薬代は、基本無料です。70歳までは加入し続けられるそうです。

タイ人であれば年金制度もありますが、外国人がどうなのか、今調べてもらおうかと思っています。といっても、月額2000円ほどだそうですが。

タイの場合、外国人でも地下鉄などは、60歳以上の人ならパスポートを提示すると、半額のプリペイドカードが買えるそうです。

わたしは、タイの永住権をもらっているので、滞在ビザにかかる費用も要りません。以前は、ビザを取得したり更新したり、仕事をするには労働許可証も必要でした。

タイには、多くの日本人が住んでいるそうですが、最近の傾向としては、減りはじめているようです。

理想と現実というか、実際に暮らしてみると問題も多いとか、個人的な適応能力というか、やはり、歳をとってからの外国暮らしでは、言葉とか習慣とか食生活とか、いろいろと適応できな人もいるのではないかと思います。

あと、日本人でも日本人を騙す人もいますし、信用の出来る人がいないと、何かの時には、不安だと思います。

私の場合には、経済的には豊かではないですが、日々困るようなことはほとんどないです。不安は、先にも書いたように、これから病気をしたり、怪我をして、寝たきりになったり、障害を持ったりしたときのことだけです。

引きこもりの暮らしのどこが楽しいのかと思う方もいらっしゃるでしょうけど、若い頃にいろいろな体験をしていると、だんだんとやりたいことも少なくなるし、その時その時で、自転車に凝ったり、カメラに凝ったり、ポケモンにこったり、まあまあ楽しみも見つけられるものです。

今は、ブログですね。ココでやっとアドセンスもとれたし、これからは、なんとかアクセス数を増やせるようなブログにするため、努力です。

。。。。。

タイの高齢者特権について、役所に聞いてもらったところ、例え永住権を持っていても、外国人には、適応されないそうです。

タイは、外国人に対しては、いろいろと厳しいようです。

2017年9月27日水曜日

1991年ネパール旅行

7月のネパールは、雨季でした。大雨のために、飛行機が飛ばなかったりして、逆に陸路でポカラにいったり、いい思い出となりました。

 カトマンズ市内の有名な寺院



 カトマンズ旧市街




歴史的な建造物が、大地震でどのくらい被害を受けたのか心配です。
ホコリが木造建築にいっぱい積もっている感じでした。それが、骨董品店的な魅力を醸し出していました。




オベロイホテルの庭


ターバンを巻き新聞を読む老紳士と庭の仏像がいい感じでした。




ポカラのフィッシュテールホテル

 このホテルは、湖を筏で渡って、ホテルにチェックインです。





タイガートップスの象さん
このジャングルにあるロッジホテルは、象さんの背に乗ってのチェックインでした。









タイガートップスのロッジ

当時は、電気もなくランプが部屋の明かりでした。
とにかく、ものすごく蒸し暑かったことを思い出します。







2017年9月25日月曜日

新しい乾燥機

午後一番と言っていましたが、11時頃に、新しい衣類乾燥機が届きました。

古いものと大きさが全く同じなので、置き場所も問題ありません。ただ、コンセントを新しくつけてもらいました。

日本では、縦型でもドラム型でも、洗濯機に乾燥機能がついたタイプが多いそうですが、我が家は、縦型の自動洗濯機と、ドラム式の乾燥機と別々です。その方が、故障が少ないと思ったからです。


旧式の乾燥機で、左上にあるタンクに水がたまります。
LEDで残り時間とか設定とかが表示されるのが新しいし、繊維がたまるフィルターの場所が変わったけど、基本的な使い方は同じです。


ただ、うっかりしていましたが、古いのは、前面のフタが、左から右へと開いたのに対して、新しいのは、右から左に開くので、左側に置いている洗濯機から、洗濯が終わった洗濯物を乾燥機に入れるときに、フタが邪魔になります。

洗濯機との位置を入れ替えればいいのですが、乾燥機は、移動が簡単でも、洗濯機の方は、給排水をいじらなければならないから、このまま使います。

実際に使ってみましたが、やはり新しいためなのか、7キロから8キロと大きくなったためか、送風力が強くなっている感じです。

運転が自動的に止まってから、乾燥具合を確かめましたが、古いのと同じか、もう少し乾燥している感じで、全く問題ありませんでした。

古い方は、時々まわってくる廃品回収業者に売ろうかと思ったのですが、どうせ、100バーツとか200バーツだろうから、一度帰っていった運んできた人に電話で、欲しいですかと聞いたら、欲しいですと、引き返してきて持って行ってくれました。

日本ですと、捨てるにも、お金がかかるんでしょうね。

2017年9月24日日曜日

衣類乾燥機が壊れた

昨日、2回目に乾燥機を使おうと思ったのですが、スイッチを入れても、全く動きませんでした。

電気が流れていない症状は、たぶん、マイコン基盤の故障だと思われます。

はじめて買った衣類乾燥機は、スウェーデン生まれのエレクトロラックスの製品で、ポーランド製だそうですが、7年前に買ったときには、7kgと小型にもかかわらず3万バーツ以上しました。


左側のは、日立の洗濯機。右側が乾燥機です。






わたしは、韓国製品は買わない主義なので、エレクトロラックスか、ジーメンスかの2択でした。タイでは、日本製は売っていないようです。

保証期間は2年でしたが、運良くというか、保証が切れる寸前に、マイコン基板が壊れて、無料交換をしてもらっています。

そして、今年、ドラムを回すベルトが切れて交換しました。小型なのに、ダブルの羽布団を入れて無理して押し込んだときにプチンとベルトが切れました。

老朽化しているところに無理な力が加わったのでしょう。

もう7年ですから、基板の交換で、またしばらくは使えると思いますが、ちょうど、ネットを見ていたら、安く売っていたので、買うことにしました。

同じメーカーで、少しだけ新しいタイプで、今度のは8キロと少しだけ大きくなりました。型落ちですから、2万バーツ以下とかなり安かったです。

店員は、新しいタイプを勧めてくれましたが、今までのものでも問題なかったから、別に2倍近くするものを買う必要はないと思いました。

新しいのは、インバーターで、電気代がかなり安いのだそうです。ヘビーユーザーだと、違いもあるのでしょうけど、週2~3回だと、大きな差はないだろうと思いました。

タイのような常夏の国で衣類乾燥機なんかと、わたしも思っていましたが、いざ使い始めると、その便利さに驚きます。

タイには、雨季がありますし、突然雨が降り出すので、洗濯物を濡らしてしまうこともあります。

今回、故障して、再認識したのは、屋根があるところに干しても、雨が降ると、なかなか乾きません。乾かないばかりか、乾いたときに、ちょっと臭います。

乾燥機ですと、柔軟剤を入れて選択しているので、乾いたときにいい匂いがします。

以前は、わざわざ、乾燥機用の紙に染みこませた芳香剤を使ったこともあったけど、そんなもの使わなくても問題ないです。

洗濯が終わったら、すぐに乾燥機というルーティーンですから、朝洗えば、お昼には、もうタンスにしまうことが出来ます。

今回のお買い物、定価よりもかなり安かっただけでなく、クレジットカードを使えば、さらに8%の値引きかつ、金利ゼロで6ヶ月の分割払いが可能でした。

そして、昨日の夕方買ったにもかかわらず、明日のお昼には配達して、取り付けてくれるそうです。こういった所は、とても便利です。

タイで電化製品を使うと、故障の多さに驚きます。タイは、家庭でも220ボルトの電圧です。そして、電圧が、常に上下変動をして安定していないようですし、雷も多く、停電も多いので、時々、ものすごい高圧の電気が流れることもあるそうです。

それで、マイコンの基板がショートするらしいです。パソコンも雷で壊れますから、UPS(無停電電源装置)は、必需品です。


2017年9月22日金曜日

問題児ミミ

4匹すべての避妊手術も無事終わり、クロ、ネネ、チャチャーと抜糸も終わり、ほぼ以前と同じようになっています。


ちょっとわかりにくいですが、赤丸で囲んだネネのお臍のあたりに手術の傷あとがあります。





ところが、お転婆娘のミミは、手術あとに貼っているプラスターを歯でかじって、剥がしてしまいます。

そして、傷あとを舐めるし、飲ませた抗生物質も嘔吐してはき出すことがしばしばで、他のネコたちが抜糸できた1週間が過ぎても、傷あとが乾かず、ちょっと化膿している状態です。

他のネコたちにはつけなかったのですが、ついに最終手段で、エリザベスカラーといわれる、昔のヨーロッパ貴族女性の襟のようなものをつけることにしました。


安物のファイルカバーのようなプラスティック製で、かわいそうなんですが、手術あとが乾くまで、辛抱してもらいます。




これをつけると、もう、身体を舐めることが出来ません。

正しいのかどうかわからないけど、食事と水を飲むときには外します。

今朝起きたら、自分で外してしまっていました。食後、またつけ直しました。

明日、クリニックに連れて行って、問題が無ければ、抜糸してもらえるようですが、どうなることやら。

ちなみに、タイでは、エリザベスカラーとは言わないようで、ランポーンと呼んでいます。スピーカーという意味です。

ランポーンをつけられたミミは、想像と違って、暴れたりせず、かなり従順にしています。ただし、傷あとを見ようとして腹部に触れると、激怒して暴れます。まだ痛いのでしょう。

後方の視界がなくなっているだろうし、あの構造だと、前方からの音が拡大されるだろうから、かなり不安を感じているのかもしれません。

2017年9月21日木曜日

ネパールと大沢茂男さん

大きな地震で多くの人びとが死傷されたり、歴史的建造物が破壊されたり、王制が転覆されたり、21世紀に入ってからのネパールは、いろいろと混乱しているようですが、その前までは、ネパールといえば、ヒマラヤの国です。

首都のカトマンズは、標高1400メートルですから、盆地といえども、かなりの高度です。

インド大陸がアフリカから北上して、ユーラシア大陸とぶつかって出来た地球のシワがヒマラヤ山脈という見方もあるわけで、ネパールからは、海の生物の化石がゴロゴロ見付かります。

なんと言っても、海底が8000メートルも持ち上がっているところがヒマラヤですから、ものすごいエネルギーを感じます。


外国人に化石を売りに来るネパール人たち





ネパールといえば、お釈迦様が生まれたところでもありますが、お釈迦様の生まれたルンビニも有名ですが、場所は、インドの国境近くカトマンズからおよそ200キロほど南南西です。

ネパールの南部は、標高も200メートル以下の平地ですが、高温多湿のジャングルも多く、猛獣や風土病も多い地区です。

ネパールは、雨季に入ると、ものすごい雨量で、よく道路が遮断されます。


カトマンズから南回りの陸路でタイガー・トップス・ジャングル・ロッジを目指すも、道路が濁流に流された場所で道路が出来上がるのを待つ。(1991年7月)


標高の高いところにいる人たちを見ると、何となく、日本の昔に似た雰囲気もありました。

ネパール全体としては、インド系の人たちが多いし、ヒンズー教徒が多いのですが、チベット系の人たちや密教は、日本人に親近感を抱かせます。

ネパールに行く人の多くが、トレッキングや登山だそうですが、本格的に、富士山よりも高いところに行けば、高山病も心配ですし、危険も多いです。

気圧が下がり、酸素濃度も低くなるので、呼吸も困難になるし、動きも反射も悪くなります。

よく言われることですが、高度が100メートル高くなると気温は0.6度下がるそうです。1000メートルだと6度、5000メートルだと30度も温度は下がることになります。

そんな標高5000メートルまで上り、毎年1月1日に、氷を割り、フンドシひとつで寒中水泳をした人が、大沢茂雄さんです。


大沢さんが送ってくれた写真









大沢さんが、送ってくれた漢詩








1980年から80歳を超えるまで30年間続けたそうです。

大沢さんは、とにかく、声の大きな人で、山中で遭難したとしても、麓から助けを呼べるくらいの人です。話が大好きでした。

日本のテレビや新聞でも取り上げられたことのある有名人でしたが、日本から、毎年、リンゴの苗木を抱えてネパールに行っていました。リンゴだけでなく、桜の苗木も運んだようです。

日本には、大沢さんのようにたった1人で信念を持って行動をする偉人が大勢いますね。

2017年9月20日水曜日

手紙と掲示板

今の世の中、スマホがあれば、何でも出来るという感じです。メールに掲示板、ブログやSNSなど、使い方によっては、便利なものです。

1970年代の通信手段としては、電話はありましたが、固定電話と公衆電話。海外では、友人との連絡は、手紙と掲示板でした。

ユースホステルには、掲示板と郵便箱があり、その掲示板に連絡事項を書いておいたり、友人が立ち寄りそうな都市のユースホステル宛てに手紙を書いたりしました。

ロンドンのような大都市ですと、当時から日本人の数も多かったですから、日本人会などもあって、そこの掲示板は、とても便利でした。

例えば、部屋探しや紹介、仕事の紹介、格安航空券などの情報などなど。今のインターネット掲示板と同じですよね。

例えば、往復航空券で来たんだけど、滞在が長くなるので、帰りの半券を売りたいとか。当時は、他人のチケットでも、チェックがほとんどなく、使えたんだそうです。

お金はなくても時間はあるから、いついつどこで会いましょうと手紙などで約束して、会えればラッキー、会えなければ、また次にという感じです。

ユースホステルのロビーや食堂は、情報の宝庫です。世界中の人たちがいますし、ほとんどの人たちが、フレンドリーでした。

例えば、ミュンヘンのユースホステルでは、ビール工場に見学に行けば、ただでビールとソーセージをゲットとか、教えてもらい、実際に行ってみました。

デンマークにも有名なビール工場があり、やはり、見学ツアーをやっていました。

体力と英会話は、まあまあでしたが、若いときには、楽器とか、何か特技があった方がいいです。世界中、どこでも人気者になれますからね。

体力も貧乏旅行には重要です。

今の時代は、英会話が出来ない人の方が少ないのかもしれませんが、片言であっても、発音が悪くても、会話が出来ると、本当に便利です。

ロンドンで知り合った、シューさんの英語は、関西弁丸出しのおかしな日本語英語でしたが、驚くほどイギリス人に通じていました。

語学学校の授業料を日本から送金してもらったことがありましたが、国際郵便為替というのがあって、指定の郵便局に行くとお金を受け取れることが出来ました。

約3年間のヨーロッパ滞在で、1度だけ、実家にコレクトコール(受信者払い)で電話をかけたことがありました。

別に用事があったわけではなかったのですが、元気でいることを知らせようと電話をしてみたところ、父は、すぐに母と代わり、母は、電話代が高いから、早く切ってと、電話をすぐ切るようにと催促ばかりでした。

ちょっと悲しかったです。

2017年9月19日火曜日

ニュネスハムン

スウェーデンの首都は、ストックホルムですが、ストックホルムからドイツに渡るには、飛行機以外ですとフェリーを利用します。

ところが、ストックホルムから直接フェリーに乗ることは出来ません。ストックホルム郊外にあるニュネスハムンまで電車とバスで行く必要があります。

若さというのは、素晴らしいもので、怖いもの知らずというか、無鉄砲なことも平気でやってしまいます。

ドイツに行くにはどうやっていったらいいのですかと案内所で聞いて、メモをして、郊外に向かう電車に乗るだけです。目的地のJordbroまでは、1時間弱だったと記憶しますが、そこからバスに乗り換えてニュネスハムンに行きました。ニュネスハムンは、港以外にはなんにもないド田舎でした。

バスから降りて、フェリーの桟橋に行ってみると、その日のフェリーがないことがわかりました。

またストックホルムに戻るのは面倒なので、港近くで野宿できるところを探しました。

ちょうど港を見下ろす岩場に、人目につかないところを見つけ、そこで野宿。

もう6月で、北欧は、白夜とまではいかないまでも、夜の10時くらいまで明るく、午前3時前には明るくなるので夜は短かったです。でも、何も食べるものを用意していなかったので、お腹が空きました。

港ですから、早朝からカモメが、近くを飛んで、鳴き声がうるさかったです。


この写真は、その時のものではなくて、知り合いのテリーの写真です。






ニュネスハムンから11:00発のフェリーに乗って、目的地は、ドイツ北部のリューベック。有名な港町だそうですが、全く知らない地名でした。

フェリーの中で、サプライズがあり、フィンランドで一緒だった長五郎さんと再会して、大感激。同じ頃、ドイツのリューベックで落ち合おうと手紙を書いてはいましたが、まさか同じフェリーに乗ることになるとは。

長五郎さんは、ヘルシンキからフェリーに乗り、わたしは、スウェーデンからフェリーに乗ったわけで、手紙では、日時とかフェリーの名前とか、全く連絡していませんでした。

なぜリューベックで落ち合うことになったかというと、リューベックのユースホステルで、日本を同じ日に出発したアカネさんとSさんが、アルバイトをしていると知ったからです。

当時の長期旅行者によくあったのは、どこかに仕事があれば、そこで、少しお金を貯め、また旅行するというパターンでした。

ヘルシンキで、みんな別行動をしたのですが、その時に、もしも、半年後に、まだヨーロッパにいたなら、10月6日のパリ、凱旋門レースを見にロンシャン競馬場で落ち合おうと約束していました。

その提案者が、アカネさんでした。


左から、長五郎さん、わたし、Sさん、アカネさん






ユースがドイツの修学旅行というか、キャンプでいっぱいだったので、長五郎さんとわたしは、ユースの近くで野宿しました。

アカネさんとSさんとの3ヶ月ぶりの再会のあと、わたしと長五郎さんは、ドイツを旅行しながらスイスを目指そうとハンブルグに向かいました。

。。。。。。。。

今日(10月1日)、昔のパスポートを見ていて、スウェーデン出港時のスタンプを発見。

スウェーデンのニュネスハムンを出港したのは、1973年の7月1日でした。



2017年9月18日月曜日

愛の街 ラハティ

インツーリストの旅行は、横浜港から、ヘルシンキ駅までの旅程でした。

モスクワを出発した列車は、当時のレーニングラードを経由して、フィンランドに向かいましたが、国境手前では、パスポートチェックがありました。

いろいろな人たちの旅行記を読むと、どうやらお約束ごとだったようですが、列車が国境を越えて、フィンランド領に入ると、車内からは、拍手と大歓声が起きました。

空の色も家々の屋根の色も、そう空気のニオイさえも変わりました。

当時のソビエト連邦は、社会主義の国、自由のない、旅行者は、常に監視されている国という印象でした。

横浜港から出港したソ連の客船ジェルジンスキー号の船内で運良く知り合った、フィンランド人の彼女と娘さんと一緒だったマノさんと彼の幼なじみの長五郎さんと一緒に、ヘルシンキの手前のラハティという駅で下車しました。

そこは、マノさんの彼女の実家のある街で、スーパーマーケットを経営する彼女の実家に泊めていただきました。

マノさんの彼女の弟エンガがとてもフレンドリーのいい人で、彼が、車でいろいろなところに案内をしてくれました。

一番印象に残っているのは、白樺に囲まれた湖が、まだ3月で、全面氷結していて、車でその氷の上を走ることが出来、エンガが、急ハンドルや急ブレーキをかけて、氷の上でスピンさせるのが、メチャ楽しかったです。

そして、氷に穴を開けての魚釣りも経験させてもらいました。

夜は、街の酒場に出かけて、若者たちが、酔っ払って踊ったりするのを眺め、家にある、本場のサウナに入ることも経験できました。

あとで知ったのですが、あの酒場では、当時ラハティを訪れた日本人にいろいろな出会いもあって、当時は、愛の街ラハティと呼ばれていたようです。

当時は、日本の男性がもてる世界でも珍しい国が、フィンランドだといわれていたんだそうです。

ラハティといえば、毎秋シベリウス音楽祭が開催されることでも有名だそうですし、ノルディックスキーの国際大会が開かれることでも有名だそうです。

あの3日間があったので、ヨーロッパって、素敵な所じゃんとヨーロッパに長く滞在したのかもしれません。

フィンランドは、トルコやタイと並び世界3大親日国だそうで、本当に、素晴らしい国でした。

フィンランドには20日足らずの滞在でしたが、今でも、フィンランド語をいくつも思い出します。

ヘルシンキ駅、その近くにあったカフェテリアのカイボグリル、ユースホステルのスタディオン・マヤ、ディスコ・モンディ、海が凍っていたヘルシンキ港などなど、懐かしいなあ。

3月26日には、当時ナンパ船と言われていたバイキングフェリーで、スウェーデンのストックホルムに向かいました。

ナンパ船と言われていたのは、よく沈没するからではなくて、夜中に、女性から声をかけられる船だったからです。

当時は、フィンランド人は、スウェーデンに出稼ぎに行く人たちも多く、若い女性も船にはたくさん乗っていました。

北欧といえば、スウェーデンとノルウェーとデンマークの3国で、フィンランドは、ちょっと仲間はずれです。人種的にも言語的にも違います。

スウェーデン語もデンマーク語もノルウェー語もほぼ同じというか似ていますが、フィンランド語は全く違います。フィンランド人の多くは、スウェーデン語も話します。










ナンパ船の中では、数人の女性たちから声をかけられましたが、1人のおばさんが話してくれた話が、とても印象的でした。

ひとつの川の上流にひとつの村がありました。人びとは、自給自足で、平和に暮らしていましたが、ある時、下流に住むという人たちが、村を襲って、村人全員を殺してしまいました。

下流に住む村人たちの言い分は、上流に住む人たちが、いろいろなものを川に流し、腐った食べ物であったり、汚物であったり、死んだ動物であったり、とても我慢できないので、滅ぼすことに決めたのだそうです。

その話が、フィンランドに伝わっている民話なのか、そのおばさんの作った話なのかはわからなかったけど、何となく、フィンランドとロシアとかフィンランドとスウェーデンとか、弱い立場のフィンランドのお話のような気がしました。

この話を、あの頃、姉に頼んで、どこかの雑誌に投稿してもらったのですが、読者からのお便り欄に小さく載っただけでした。

2017年9月17日日曜日

泣きっ面に蜂

このところ、運が下降気味です。

今朝は、1階のトイレでゴキブリを発見、急いで殺虫スプレーをとってきて噴射、ところが、なんと、噴射口を自分に向けていましたので、自分の顔めがけて殺虫剤をかけてしまいました。

とっさに目をつむりましたし、すぐに洗面して、目薬を何度も点眼して洗いましたが、また不安がひとつ増えてしまいました。

人間慌てると、事故が起きやすいですね。

ゴキブリは、そんなに苦手でもないのですが、でも、逆襲というか、こちらに向かって飛んでくるときには、ちょっとひるみます。

タイに来て初めて住んでいたアパートは、ものすごかったです。台所の戸棚を開けたら、真っ黒で巨大なゴキブリが、それこそ100匹くらい飛び出してきたので、身体が固まりました。

殺虫剤を毎日のように散布して、徐々にゴキブリのサイズが小さくなり、最終的には、ほとんど見かけなくなりました。

ゴキブリは、蝉のように飛びますが、わたしは、ゴキブリの復讐にあったことがあり、ベッドで寝ていたら、顔めがけてゴキブリが飛んできて、耳を囓られました。

ネコを飼い始めてから、家にヤモリが近付かなくなったような気がします。ヤモリは、害虫などを食べてくれるそうです。

人間には、無害ですが、でも、あの姿は苦手です。爬虫類と両生類は、大嫌いです。子供の頃は、そんなに怖くなかったはずなのに、大きくなってからは、ダメです。

タイには、毒蛇が多いから、嫌いな方が安全でしょう。ニュースで時々、ニワトリや猫が大蛇に呑み込まれたとやっています。トイレの便器からニシキヘビなどがでてきたニュースも時々ありますが、どこから入り込んだのか。

お尻を噛まれた人もいるそうです。

ゴキブリは、猫を恐れないようです。

復讐といえば、アリの復讐も怖いです。刺されると痛いタイプのアリもいるし、痛みだけでなく痒みもつらいです。

南国には、いろいろな生き物がいますし、病原菌も元気です。

2017年9月16日土曜日

破傷風など

4匹すべての手術が終わっていますが、手術後に、鎮痛剤と抗生物質を飲ませる必要があるのだそうで、それで、苦労しました。

一度でうまく飲ませることが出来るときもあれば、薬の落としどころが悪くて、猫も苦しむし、押さえる方も必死でした。

嫌がるところを無理に押さえるから、暴れるし、引っ掻きます。

引っ掻かれても、押さえつけているので、爪がかなり深く刺さります。それに、猫の口からよだれが溢れてくるので、それをティッシュで拭くときに、指にも唾液がつきます。

すぐに洗って、薬を塗ってはいますが、とにかく、傷あとが多くて、冷静に考えると、何らかの感染症は大丈夫かなあという不安はあります。

とにかく、小心者で、心配性、不安神経症の経験者ですから、インターネットで感染症について検索しては、不安を募らせています。

神経が冒され、口を大きく開けられないとか、筋肉のこわばりを感じるとか、いろいろな症状がでてきたら、そこから治療を受けても、死亡率はかなり高いそうです。

タイでは、犬に噛まれて病院に行くと、必ず、狂犬病と破傷風の予防注射を勧められます。医者が、わたしがあなたの立場なら、まあ予防注射を打っておきますが、どうします?とか聞かれたら、もう、嫌いな注射でも、打ってもらうしかないです。

狂犬病と破傷風の予防注射は、どちらも、複数回、日にちをおいて打ってもらいますから、面倒です。

屋内で飼っているネコたちですし、狂犬病など、予防注射は、忘れず打ってきているのですが、、今回は、クリニックに1泊しているし、疑ってかかるなら、クリニックなど、病原菌がいっぱいでしょう。

入れられていたケージに病原菌がついていたとしたら・・・・

まあ、不安のタネは尽きませんね。

破傷風以外にも、パスツレラ症、ネコ引っかき病なんかもあるそうです。

このブログに書き込みが長期間停止したら、ネコからの感染症で入院か、死亡ということかも。

ペットは、可愛いけど、いろいろと大変ですし、どちらが先に死んでも不幸でしょうね。

2017年9月14日木曜日

クロ、ネネ、チャチャー、そしてミミ

クロは、火曜日に抜糸して、もうほぼ完治です。薬も飲んでいません。

ネネは、とにかく薬が苦手で、飲ませるのに苦労の連続ですが、今日の夕方抜糸の予定です。

チャチャーは、手術後、意識が戻るのを待って、帰宅しましたが、とにかく麻酔のため、ぐったりして、ほとんど動きませんでした。

普段から、わたしの座っているソファーの下が、嫌なことがあったときのネコたちの退避場所で、暗くて狭くて落ち着くようなので、そこで寝かしておきました。

夜になって、少し麻酔がきれてきたのか、ないたり、ふらつきながら匍ってドアのところまで行くようになりました。

よく考えて、トイレに行きたいのかもと、トイレの中に入れたところ、そこでおしっこをしました。

そして、夜中に、また匍ってドアのところに行ったので、またトイレの中に入れたのですが、すぐに外に出て、自分で入り直して、またおしっこをしました。

クロもネネも、手術後にすぐトイレに行くことはなかったのに、チャチャーは、水を飲んだり食事をする前に、まずトイレでした。

ネネは、以前と同じように、きちんとドアをガリガリやって、ドアを開けてくださいとサインを出し、トイレで用をたしますが、クロは、相変わらず、ドアを開けてのサインをする前に部屋の中でおしっこをしてしまいます。

チャチャーは、麻酔でふらつきながらも、しっかり自分でトイレに行こうとしていて、実にけなげでした。











ネコは、自分の居場所にいるのが一番のようで、帰宅後、チャチャーは、とても落ち着いていますし、麻酔が覚めたら、食事もするし、水も飲むし、階段を自分で下りて1階にも行きましたが、戻るときに、階段を上がれないようで、階段の下でないていました。

昨日一日で、見違えるように元気になり、もう、高いところにもジャンプしています。

チャチャーは、今のところ、薬も問題なく飲んでくれているので、助かっています。

今日は、これからミミの手術です。また暴れるだろうし、麻酔が覚めるまでは、また、かわいそうな姿を見る事になりそうです。

意識を取り戻そうと、麻酔と必死で戦おうとする姿が、哀れです。ミミは、自己主張が強く行動的ですから、他の3匹のように、素直に麻酔で眠っていることが出来ないのかもしれません。

暴れると、獣医さんも助手も大変なので、一応、爪を短くしておきました。

来週中には、ミミの抜糸も終わるでしょうし、やっと、4匹の避妊手術が終わりそうです。

2017年9月12日火曜日

チャチャーの秘めたる凶暴性

ネコの武器は、猫パンチ。パンチといっても拳ではなくて、怖いのは爪です。

猫が不快に思っているときには、尻尾を大きく左右に振ったり、フゥーと威嚇したりしますが、最高に怒ったときには、頭を左右に振ったり、猫パンチを連続して繰り出したり、手足(?)をバタバタさせて暴れます。

うちの4匹に関しては、甘噛み以外に噛むことはないのですが、爪をたてたり、引っ掻いたりは、時々します。

目のまわりのお掃除は、さほど嫌いではないようですが、耳のお掃除は、大嫌いです。お掃除グッズを用意すると、逃げ出します。

一番恐がりは、ネネです。

手術後、痛み止めと抗生物質を飲ませなければならないのですが、これがまた大変です。

インターネットで検索して、飲ませ方をマスターしたつもりでしたが、薬を喉に上手に落とせないと、頬や上あごに薬がへばりついて、ネコにとっては、苦しいようで、大暴れをします。

クロとネネに薬を飲ませ続けてきた結果、もう手足に引っ掻かれた傷がいっぱいです。爪が、皮膚に刺さって、引っ張られるのが痛いです。

クロは、ほとんど暴れないのですが、今日の最後の一錠で、やられました。

ネネは、毎回、もう真剣勝負です。ネネの身体をバスタオルで巻いて、わたしの足にもタオルで防御をしてでも、暴れはじめると、もう、制御できません。

失敗した唾液まみれの薬は、捨てるので、また新たに薬を処方してもらいます。

でも、なんと言っても、大嫌いなのが、爪を切られることです。爪は、ネコにとっては、最強の武器で、それを切られては、生命の危機なんでしょう。

普段は、温和なチャチャーでも、爪を切ろうとすると、フゥーと威嚇してきます。











そんなチャチャーが、今日手術を受けたのですが、大暴れだったそうです。

今までは、手術を受けて、クリニックに1泊して、落ち着いてから帰宅だったのですが、医師から電話が入り、意識が戻る前に引き取りに来て欲しいとのことでした。

意識が戻ったら、もう手がつけられないだろうというのです。

連れ帰ると、この間のミミと同じで、麻酔が完全に消えるまでは、フラフラして、転んでばかりで、かわいそうで見ていられないだろうな。

今連絡が来て、チャチャーが意識回復だそうで、至急引き取りに来てとのことです。

クロの抜糸があるので、クロを連れて行ってチャチャーを連れ帰り、またクロを迎えに行きます。

2017年9月11日月曜日

ひょうたんの中の老人(ミャンマーの民話から)

 昔々ある所に貧しい一人の老人がいました。ある日、畑仕事をしているときに、傷ついたすずめを見つけました。すずめは、羽を傷つけていて、飛ぶことが出来ませんでした。

 「可哀相に。いったいどうしたんだ。」と、心のやさしい老人は、すずめに語り掛けて、家に連れ帰りました。毎日、餌と水を与えて、けがの介抱をしてあげました。

 しばらくして、けがが治ると、すずめが飛べるようになったので、老人は、すずめを連れて畑に行って、「気を付けて暮らすのだよ。」といって、空に放してあげました。すずめは、幸せそうに空高く舞い上がってどこかに行ってしまいました。

 いばらくしてから、助けたすずめが、老人のところに帰ってきました。すずめは、老人のおかげで命拾いをした恩返しに、一粒のひょうたんの種を持ってきました。

 老人は、その種を植えて水をやると、あっという間に芽が出て、すぐに大きなひょうたんの実がなりました。老人は、ひょうたんのあまりの大きさにびっくりしました。老人は、大きなひょうたんを家に持ち帰って、割ってみましたところ、中から、金銀宝石がたくさん出てきました。おかげで、この老人は、金持ちになることが出来ました。

 このひょうたんと老人の噂は、町中に広がりました。それを聞いた一人の猟師が、金持ちになった老人をうらやんで、自分も金持ちになりたいので、急いで弓矢を持って森にすずめを探しに行きました。

 飛んできたすずめに弓矢を放ち、落ちてきたすずめを家に持ち帰って、同じように餌と水を与えて、介抱しました。しばらくして、すずめが元気になると、同じように空に放してあげました。すずめは、幸せそうに飛び去りました。

 しばらくして、すずめが、戻ってきたときに、猟師は、自分もお金持ちになれると、大喜びをしました。すずめは、猟師に、やはり一粒のひょうたんの種を持ってきました。

 猟師は、種をまいて、毎日水を与えて、まだかまだかとひょうたんの実がなるのを待ちました。

 やがて、やっとのことで、ひょうたんの実がなりました。

 猟師は、すぐにひょうたんを割ってみました。ところが、中から出てきたのは、金銀財宝ではなく、やせ細った一人の老人でした。











 猟師は、驚いて、「おまえはいったい誰だ。ここで何をしているのか?」と大声で、たずねました。

 すると、ひょうたんの中の老人は、「大声を出さないでくれ。借金取りに居場所がばれてしまうではないか。」と小声でいいました。

 猟師は、その老人が貧乏神だとわかり、とてもがっかりしましたとさ。



Copyright(c) 1997 北風剛
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2017年9月10日日曜日

ミミ血液検査

ミミは4匹の中で一番行動的ですし、攻撃的で、爪切りや耳のお掃除、目ヤニのお掃除など、けっこうたいへんです。

今日は、そんなミミの血液検査の日で、クリニックで大暴れしたそうです。獣医師も下手くそだったようで、麻酔を打たれてしまい、帰宅時には、フラフラでした。

ネコは、興奮したりすると、瞳孔が開いて黒目がちになるのですが、今日のミミがまさにそれ。

麻酔が効いているから、起き上がれません。立ち上がってもすぐに転んでしまうし、触れようとすると怖がって、逃げるのですが、逃げられないから、転げ回り、かわいそうです。




麻酔を打たれてからもう4時間になるのに、まだまだ麻酔が切れていません。ただ、少しは、歩けるようにはなってきました。

ふらつく様子を動画で撮影しようかと、ふと思ったのですが、悪趣味だと思うのでやめました。

麻酔があるから手術も出来るわけですが、麻酔の効いた姿は、かわいそうで見たくはないです。

世の中には、見ない方がいいものはたくさんあると思います。

手術を受けてから、クリニックで1泊すると、翌日帰宅させた時に、ほとんど麻酔は切れていて、見たくない姿を見ることはありません。

そして、日ごとに回復していき、ネコの快復力に驚きます。