2017年10月31日火曜日

Konica auto S

50年前のフィルムカメラKonica auto Sなんですが、世界で初めてCdS受光素子に採用したシャッター速度優先式自動露光カメラなんだそうです。


正面左上の丸いのがCdSで電池を使って露出を測定します。

このカメラは、シャッターを切っても露出を変えても、羽根が全く動きません。



シャッター音だけはするので、たぶん、シャッター羽根としぼりバネが、油などで汚れて固まっているのではないかと見立てて、お掃除をしてみます。


カメラなどを分解するときには、必ず、外したネジなどをしまっておく容器が必要になります。
意外となくしやすくて、なくすと、もう組み立てられないことが多いです。

プラスマイナスの精密ドライバーは、もちろんですが、レンズなどを外すときにはカニ目レンチといわれる道具も必要になります。

頑丈なコンパスタイプもあります。
昔のカメラは、ものすごい力でないと回らないことが多いので、頑丈な方がいいです。




このカメラの場合には、前のレンズを外すためには、この写真のようなゴムが必要になりました。
いろいろなサイズが重なっています。




このようにしてゴムをレンズ部分に当てて、摩擦でレンズのネジを回して外します。






こちらが外したレンズ








レンズを外したところ

アップで見ると、中心部にシャッター羽根が見えます。







こちらは、フィルム室側から見たところ。
こちらにあるレンズは、カニ目レンチで外しています。
中央に見えているのは、しぼりバネです。



要するに、シャッター羽根と絞り羽根が、前後に重なっています。

カメラは、精密機械ですから、歯車などがたくさん使われていて、潤滑油も使われます。しかし、その油が、シャッター羽根や絞り羽根につくと、粘りで動きが悪くなって、うまく開かなくなります。

こうしたときには、本当は、レンズボードといって、シャッターの部分全部をカメラ本体から外して、分解掃除をするのが正解らしいのですが、そこまで素人が手を出すと、元に戻らなくなる可能性もあるので、今回は、手抜きお掃除作戦です。


オイルライター用のベンジンでお掃除です。
ベンジンを羽根にぶっかけては、耳かき用コットンで拭き取ります。
それを何度も繰り返しました。



するとシャッター速度をバルブにして、シャッターを押したままにするとシャッター羽根が開くようになりました。シャッターを離せば、羽根は閉じます。

中央部を見ると、羽根が開いているのがわかると思いますが、これは、シャッター羽根だけでなく、絞り羽根も開いているときです。
絞り羽根も、しぼりにあわせて、開いたり閉じたりするようになりました。


ただ、シャッタースピードが、全くダメで、バルブ以外にあわせると、シャッター音だけで、シャッターが動きません。

シャッター機構が壊れている可能性があり、こちらは、分解しないとダメかもしれませんので、今日は、これまでとして、組み立て直して休止です。

ネットで検索して、シャッターの故障の直し方を探します。


2017年10月30日月曜日

ジョーン・バエズ

洋楽を聴き始めたのは、小学校高学年の頃からでしたが、ラジオで、「9500万人のポピュラー・リクエスト」という番組を聴いて、いろいろな洋楽を聴きました。

米国では、プレスリーやダイナ・ロスとシュープリームスなど、それからフォークソングも多くて、イギリスでは、クリフ・リチャードとかビートルズ、フランスやイタリアの曲もありました。

最初に感動したのは、ジョーン・バエズの高くて澄んだ歌声と、その歌詞でした。

当時の米国は、ベトナム戦争反対運動や公民権運動が盛んで、抗議のプロテストソングが人気がありました。

YouTubeで検索すればいろいろと聞くことが出来ます。

「We shall overcome」我々は、いつの日にか、必ず勝ちますとか、かっこいいですね。

「Donna, Donna」子牛が売られていって、殺されるという悲しい歌で、世界中で歌われています。

「All My Trials 」わたしの試練ももう少しで終わりになるだろうと悲しげに歌います。鳥肌が立ちました。

彼女は、メキシコ系のアメリカ人で、クエーカー教徒の家庭に育ったのだそうです。

歌詞の中で、「もしも生きることがお金で買えるのだとしたら、お金持ちが生き、貧乏人は死ぬだろう」と歌っていますが、PPMとかポール・マッカートニーの同じ歌では、「生きること」の代わりに「宗教」となっているのが興味深いです。

原曲は、カリブ海のバハマの子守歌だそうで、「静かにしなさい、おかあさんは、何時か死ぬために生まれてきたんだよ。」バエズの歌声が、悲しすぎます。

彼女は、生粋の左翼のようで、一時付き合っていたあのボブ・ディランもついていけなかったようです。

Hush, little babyというのは、泣き止みなさいという子守歌の常套句のようです。

マザーグースにも子守唄「ハッシュ・リトル・ベイビー」があります。マザーグースのことをイギリスでは、ナーサリー・ライム (Nursery Rhymes)というそうで、童謡という意味も含まれているのでしょうね。

子供の頃に母親などから、おとぎ話を読んでもらったり、童謡を教えてもらうと、心が豊かになりますね。

今の日本には、プロテストソングがないような気がしますが、どうなんでしょうね。

若者には、保守よりも革新や反抗が似合うような気がします。


Dreamweaver

Dreamweaverといえば、ホームページを作るためのアプリケーションとして有名です。

日本では、ホームページビルダーが、有名でしたが、海外では、アドビのGoLiveやマイクロソフトのFrontPageよりもDreamweaverでした。

で、Dreamweaverという単語の意味ですが、Dreamとweaverで出来ています。Dreamはだれもが知っている「夢」ですが、weaverというのは、weaveという動詞から来ている「機を織る人」という意味です。

Dreamweaverとは、「夢を紡ぐ人」ということですね。かっこいい言葉だと思います。

この言葉を最初に知ったのは、ジョンレノンの「God」という曲ででした。

「神は、我々の痛みを測る概念なんだ」という歌詞で始まるビートルズからの卒業の歌なんだろうと思うのですが、過去から現在の偉人たちを実名を出して否定して、最終的には、自分とヨーコだけを信じると歌ったわけです。

この歌詞で、ボブ・ディランの本名が、ロバート・ツインマーマン(Robert Allen Zimmerman)であることを知りました。その後、本名をボブ・ディランに変えているようです。

Zimmermanといえば、ドイツ系のユダヤ人とわかります。ドイツ語では、Zimmerは部屋のことで、Zimmermannは大工さんですね。

話がそれましたが、ジョンは、曲の終わりの方で、こう歌いました。

I was the Dreamweaver 
But now I'm reborn

自分は、夢想家だったけれど、でも、今生まれ変わったんだ。そして、最後に「夢は終わってしまったんだ」と結びました。

といいながら、次のアルバムにある「イマジン」では、また夢を語っているわけです。

You may say I'm a dreamer

みんなは、わたしが夢想家だというかもしれなけど、わたしは、1人じゃないし、いつの日にか、みんなも私たちに加わってくれ、世界がひとつになれると望んでいます。

このあたりのジョンは、ヨーコの影響を強く受けていて、ヨーコが、60年代に出版した「グレープフルーツ」の中にある数々の詩の中から、ひらめいて書いたものだと思います。

ヨーコの名言としては、こちらも有名ですね。

A dream you dream alone is only a dream. A dream you dream together is reality.

あなたが1人で見る夢は、単なる夢だけど、あなたがみんなと見る夢は現実なんだ。

夢は、希望に通じていくことも多いし、人生においては、必要なことのひとつだと思います。

イギリスのビートルズの影響を受けて、作り出された米国のThe Monkeesも60年代後半には、日本でもテレビで毎週放映されて人気でしたが、彼らの代表曲のひとつが、Daydream Believerでした。

Daydreamの意味は、昼間見る夢で「白日夢」なので、Daydream Believerで「白日夢を信じる人」となりますが、もっと普通にいえば、「空想家」という感じでしょうね。

Monkeesといえば、当時米国にペンフレンドがいて、日本でもMonkeesが人気だと言うことを書いたときに、「Monkys」と書いて、母音+Yは、YをIに変えてesではなくて、単にsだけと自信を持って書いたのに、返信でmonkeysではなくてMonkeesだと訂正されて恥ずかしかったです。

若いときには、夢をいっぱい見て、失敗を恐れず、冒険が大切だと思います。

歳をとってからの苦労は、体力も気力も衰えているから、しない方がいいに決まっていますが、若いときには、苦労を買って出るくらいの元気さが、大切だと思います。


2017年10月26日木曜日

タイの民話から 死について

今日、10月26日は、昨年10月13日に亡くなられたラマ9世の火葬の儀式が行われました。王族の葬儀は、バラモン教と仏教との混ざった儀式のようです。

日本からは、秋篠宮ご夫妻がご列席になられました。

タイ中が喪服になって、死について考えた1日でした。

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死について

昔々ある村に、お百姓さん一家が住んでいました。年老いた両親とその息子とお嫁さん、そして息子の妹の五人家族でした。

その日は、とっても暑い夏の日でした。

父親と息子は、いつものように、畑に、野良仕事に出かけていきました。もう何年も続けてきたように汗びっしょりになりながら、二人は黙々と畑を耕しました。

いつもと同じように耕し、草を取り、種を撒き、いつもと変わらず水を飲み、粗末な朝食を取り、収穫の当てのない野良仕事を、一言の愚痴も言わずに繰り返していました。

突然、息子が、うめき声を上げながら倒れたのです。父親は、びっくりして、息子のいるとことに駆け寄りました。息子は、畑を耕していて、土の中で眠っていたコブラに噛みつかれてしまったようでした。

父親が、息子の胸に耳を当てて心臓の鼓動を確かめたときには、すでに息子は、死んでいました。あまりに突然なことで、父親としても、なす術がありません。

ついさっきまでは、生きていた息子なのに、ついさっきまでは、野良仕事に汗を流していた息子なのに、今は、もう、こうして畑に横たわり、息をしていません。

しばらく、呆然としていた父親は、もう、どうしようもないことを悟り、息子の亡がらを、近くの木陰に横たえました。そして、まるで何もなかったかのように、野良仕事を続けました。

お昼になって、近所の人たちが、畑のそばを通りかかり、これから昼飯を食べに家に帰るというので、父親は、自分の家族に「息子が死んだ」との伝言を頼みました。

「今日の弁当は、一人分だけでいいから、それを持って家族全員が、畑に集まるように」と伝えてもらいました。

しばらくすると、一人分のお弁当を持って、家族全員が、父親のいる畑に集まってきました。

父親は、みんなを自分のまわりに座らせて、静かに、息子の身に起こったことを話して聞かせました。

家族の一人が、思いもよらないことで死んだというのに、家族の誰も、泣きもせず、声も出しません。

父親の指示に従って、それぞれが、近くから枯れ木を持ってきて、畑に火葬の用意をしました。枯れ木を組んで、息子の遺体を載せる台を作り、そこに、息子の遺体を載せ、枯れ木に火をつけました。火の勢いが強くなって、息子の体が、だんだんと灰になっていく様子を家族全員で、静かに見守っていました。

そのとき、そこを通りかかった1人のバラモンの僧がいました。

家族が見守る中で執り行われている火葬の様子を見て、僧は、「どなたが亡くなられたのですか?」と尋ねました。

父親は、僧に向かって「私の1人息子です」と告げました。そして、家族を全員紹介しました。

僧は、家族の火葬だというのに、誰も涙を流していないことを不思議に思い、「本当の息子さんなのですか?」と聞きました。すると、父親は「間違いなく私の息子です」と話し、今日、野良仕事中にコブラに噛まれて、私の見ている前で死んだことを告げました。

僧は、ますます不思議に思い「大切な息子さんが亡くなったのに、涙ひとつこぼしていないのは、きっと、息子さんが、親不孝で怠け者だったからでしょう?」と尋ねました。

父親は、僧に、息子がいかに働き者で、親孝行だったかを説明しました。

「息子の死は、ちょうどコブラが、脱皮をするようなものですから、悲しいことはありません」と言いました。「コブラは、脱皮し終わった後の抜け殻をいくらクワで叩かれても痛みを感じないように、息子が死んだあとの亡がらは、もう、息子ではありません」

「たとえ、私が、息子を火葬にしても、息子は熱さも痛みも感じません。それと同じように、私にある感情は、息子は、もう死んで、この世にはいないという真実だけです。ですから、息子が死んだからといって、悲しくはありません」

僧は、次に、母親に質問しました。

「母親が、息子を愛していれば、息子が死んで悲しみに身を切られる思いでしょうに、どうして涙をこぼしていないんでしょうか?」と聞きました。

母親は「息子が生まれてから今日まで、息子を愛さない日はありませんでした」と言いました。母親は、息子に、よい人間になるようにと言って育てました。「息子は、その通りに育ちましたが、今日は、こうして、さようならも言わずに死んでしまいました」

「でも、それが、彼の運命で、私が、泣いても、涙を流しても、何も変わりません。彼が、死んだということは、事実なんですから」と言いました。

次に、僧は、亡くなった息子のお嫁さんに聞きました。

「自分の愛する旦那さんが亡くなっても、涙一つこぼさないのは、きっと、あなたに対して冷たかったからでしょうね?」と言いました。

お嫁さんは、首を横に振りながら「亡くなった主人は、とても誠実で、よく私のことを大切にしてくれました。私も、主人を愛して尽くして来ました。でも、亡くなった主人に対して泣くのは、月を見上げて、あの月が欲しいと泣く子供のようなことに思われます。

私が、目から血の涙が出るまで泣けば、主人が生き返ってくれるのであれば、どれだけでも泣きますが、そんなことはありえません。主人は死んだのは、間違いのないことですから」と言いました。

最後に、僧は、妹に聞きました。

「涙を流さないのは、お兄さんからいじめられてきたからですか?」と言いました。

妹は、答えました。「兄は、とても優しい人で、叱られたこともけんかをしたこともありませんでした。でも、兄がコブラに噛まれて死んだことは、もうどうすることもできません」

「小さな針を海に落としてしまえば、もう拾い上げることはできませんし、割ってしまった水がめは、もう、元には戻りません。泣いたところで、もう兄の命は、生き返らないのですから、私は、泣きません」と言いました。

家族全員の話を聞いて、バラモンの僧は、この家族を尊敬し、そして、人が生まれたときから、いつか必ず、人は死ぬときを迎えることを、静かに悟ったのです。


Copyright(c) 1997 北風剛
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2017年10月25日水曜日

マーシャル・マクルーハン

1970年頃、マーシャル・マクルーハンの「グーテンベルクの銀河系」や「機械の花嫁」が、メディアで紹介され、購入して読みました。

グーテンベルクの印刷術の誕生から、書き言葉と話し言葉、そして、クールメディアとホットメディアについても、いろいろと書かれていました。

当時は、若者たちにとり、「書を捨てよ、町へ出よう」の時代で、「書き言葉から話し言葉へ」の時代でした。

彼は、ホットなメディアの例として「写真・ラジオ・映画」、クールなメディアの例として「漫画・電話・テレビ・会話(話し言葉)」とらえていました。

ホットなメディアは、受け取る側をして理性的になる時間を与えず、短時間に感動を与え、クールなメディアは、時間をかけて感動させるといったとらえ方だったと理解します。

ホットなメディアとして、ラジオが取り上げられた例として、1938年10月30日にハロウィン特別番組として、アメリカのラジオ番組で放送されたオーソン・ウェルズの「宇宙戦争」がありました。

火星人が地球に攻めてくるといった内容なんですが、あまりにも、リアルで、聞いていた人びとを恐怖のどん底に突き落とし、放送の最後には、フィクションであることを伝えたのに、もう、時すでに遅しで、人びとはパニックを起こしていたということです。

要するに、使い方によっては、人びとを扇動させ誤解させる力を持っているということです。

日本でも太平洋戦争当時のラジオ放送は、日本人を騙し、洗脳していました。当時の新聞も、同じようなものでしたけどね。

映画なんかでも、迫力ある画面と音響、CGなどを駆使した作りですと、かなりものが物語に引き込まれ、恐怖したり、感動します。

現代に当てはめてみると、ラジオを聞く人は減ってしまい、ホットなメディアとしては、インターネットでしょうね。特に、SNSでしょう。写真や短かな言葉が拡散していって、あっという間に、多くの人たちを動かすことも可能です。

嘘であっても、広がる怖さがあります。

クールなメディアとしては、テレビや新聞、そしてコミックを含む書物かな。本来は、冷静であるべきクールなメディアにも、嘘が多いところが、問題です。

テレビにはテレビも強みがあって、池上さんの番組のような丁寧でわかりやすい解説とか、いろいろな見方・考え方の紹介などは、テレビにあっていると思います。

自分たちの意見の押しつけや洗脳ともとれるようなやり方は、どんどん支持されなくなっていくのではないでしょうか。

新聞や書物は、もっと時間をかけて専門家の説明をすべきで、同じ活字メディアでもホットなスポーツ新聞や写真週刊誌のような見出しで売ろうというやり方は、ズレているように思います。

テレビも、ホットなメディアになろうという野心は、例え生放送を増やしたとしても、インタラクティブを追求しようとしても、失敗だと思います。

クールなメディアを受け入れている層が革新で、ホットなメディアを支持する層が保守という日本は、ねじれているような気がします。

そのねじれの原因が、テレビや新聞の考え方の間違いにあるような気がします。

クールなメディアは、クールなメディアらしく、報道番組から嘘や作為を排除し、冷静な分析、謙虚で公平な意見で、本来の立ち位置を取り戻していって欲しいと思います。


2017年10月24日火曜日

ディスコ

70年代の社交場といえば、ディスコティックでした。

世界中の自由な国では、若者たちはディスコでナンパが、一般的でした。

フィンランドのヘルシンキでは、モンディに行きました。スウェーデンのストックホルムでは、キャットバルーやNew Cat。





















デンマークのコペンハーゲンでは、Hard Rock cafe。今のと関係あるのかな?そこは、体育館のようにかなり広くて、生バンドの演奏でした。
他にも、もっと小さな所かあって、そちらの方に彼女とよく行っていましたが、名前は忘れてしまいました。











これは、たぶんドイツのブレーメン。











ココでの思い出は、夜10時になると、突然、店の明かりが全開で、たぶん私服警察官が店にいる全員の身分証明書をチェックして、未成年を補導していった光景で、1人の女の子の父親と思われる人が、娘と思われる子のほっぺたにビンタしていたことで、やっぱりドイツでもビンタするんだと感心してしまいました。

当時のヨーロッパでは、大人は、個人の責任で自由に行動できますが、子供や未成年に対しては、日本人が考える以上に厳しいようでした。

ロンドンでも、ディスコに行きましたが、入場券と名前は、見付かりませんでした。

激しいロックから、スローに曲が変わるときがチャンスで、スローを踊ってもらえると、かなりチャンスがあるという感じでした。といっても、一緒に踊ってもらえる可能性は、ほとんどありませんでしたけどね。

若いときは、何をしても楽しいですね。


Herning

デンマークという国は、童話作家のアンデルセンや酪農で有名な国ですが、首都コペンハーゲンは、シェラン島といわれる、スウェーデンに近い島にあります。

童話作家のアンデルセンは、シェラン島とユトランド半島の間にあるフュン島にあるオーデンセで生まれています。

ココに一枚の切符があります。











この切符は、コペンハーゲンからユトランド半島にあるヘアニングという、人口数万人の都市への切符です。

切符を見ると1974年8月27日となっています。この日、コペンハーゲン駅から朝一番の列車に乗って、ヘアニングに出かけて行きました。

3時間ちょっとかけてヘアニングに行って、ヘアニングの駅のコーヒーショップでコーヒーを飲みながら、好きだったデンマーク人の女性と数時間話をして、夕方の列車で、またコペンハーゲンに戻りました。

若いときのエネルギーは、一直線でした。

でも、携帯電話もないのに、どうやって、待ちあわせをしたのか、そのへんを思い出せません。

失恋のショックが、半年くらい続いたときに、すべてをないものとし、記憶から消し去ったのかな?

デンマークも、コペンハーゲン以外を知らないですし、ドイツからデンマークに2度行っているのですが、どうやって行ったのかよく思い出せません。

2度目にハンブルグから列車で北上し、その列車ごとフェリーに乗ってデンマークに入った記憶がありますし、パスポートにもスタンプがあります。











当時のヨーロッパでは、国境を越えるときに、パスポートチェックをされないことが多く、入国スタンプや出国スタンプをパスポートに押されませんでした。

今は、テロリストや不法滞在の人たちも多いから、きっと昔とは違っているでしょうね。

コペンハーゲンから、ドイツのゲーテ協会に行ったときも、どうやって行ったのかを思い出せません。

不思議なことに、日本に帰国したときのデンマーク出国スタンプも見付かりません。カストラップ空港からだったからスタンプは押されていると思うけど、見付からないのが不思議です。


2017年10月21日土曜日

誕生日について

タイの占い師に見てもらうと、最初に聞かれるのは、だいたい、生年月日です。タイでは、仏歴(仏滅紀元)といって、お釈迦様が入滅されたとされる日からの暦を使っています。

西暦に543年を足した年が仏歴で、今年は、仏歴2560年です。タイとラオスとカンボジアで、この仏歴を使っていますが、同じ仏歴を使っているスリランカやミャンマーは、仏歴2561年と一年多いようです。

その違いは、お釈迦様が入滅された年を仏歴1年とするか、その翌年を仏歴1年(タイの場合にはこちら)とするかの違いで、日本でも使われる、満何歳とか、数え何歳と同じですね。

ところが、一般的にタイ人は、自分の年齢を数え年でいうことが多かったですが、最近では、満年齢が多くなりつつあるようです。

西暦も使われています。タイにも干支はあります。

生年月日は、日本人で知らない人はいませんが、誕生日は、何曜日ですかと聞かれて、すぐにこたえられる人は少ないのではないかと思います。

タイ人は、ほとんどすべての人が、自分が何曜日に生まれたのかを知っています。

今では、インターネットで検索すれば、すぐにわかりますが、インターネットのなかった時代は、調べる方法もありませんでした。占い師は持っている分厚い暦で調べてくれました。

あと、タイ人は、自分が生まれた時間も知っているようで、占い師から生まれた時間も聞かれました。

私の場合には、自分のへその緒が保管されていて、そこに午前1時に生まれたと書かれています。

でも、占ってもらうのがタイだと、日本時間の午前1時は、タイ時間の前日午後11時ではないかと思ったりもします。でも、占いは、深く考えないところがいいわけです。

タイには、曜日には、色があります。ラッキーカラーだとか。

日曜日: 赤
月曜日: 黄色
火曜日: ピンク
水曜日: 緑
木曜日: オレンジ
金曜日: ブルー
土曜日: 紫色

そして曜日の仏像があります。上から日・月・火・水・木・金・土


お寺に行くと、ご本尊以外にこうした各曜日の仏像が並んでいて、その前に容器があるので、自分の生まれた曜日の所にお賽銭を入れます。

そんなこともあって、タイ人は、ほとんどの人が自分の誕生日の曜日と生まれた時間を知っています。


2017年10月18日水曜日

タイの食べ物 その3

タイ料理も、今では多くの人たちに知られて、好きな人たちも多いです。外国人が、たくさんタイに来て、タイ料理の味付けも、多少変わってきています。

以前は、甘さも辛さも塩っぱさも、今よりずっと強烈でした。今は、健康志向で、甘さ控え目や低カロリーも増えてきています。

タイ料理といえば、屋台でもレストランでも、基本の調味料がテーブルの上に備え付けられています。


爪楊枝から時計回りに、砂糖、魚醤、胡椒、酢漬けの唐辛子、一味唐辛子。

こちらは、中華海鮮のお店によくある、上から時計回りに、唐辛子とニンニクをすりつぶしライムと魚醤を加えたもの、ニンニクスライスと唐辛子を入れた魚醤、甘いタレ、チリソース、魚醤。



タイ料理いろいろ


カニのニンニクと黒胡椒揚げ。

豚足の煮込みぶっかけご飯。

フカヒレスープ。

スープなし細い米麺の紅腐乳(イエンターフー)。

スープなし細い米麺とフィッシュボール。




カニのカレーと卵とじ。有名なプーパッポンカリー。

エビの醤油蒸し。

カニ肉のすり身を湯葉で巻いたものを揚げたもの。

焼きエビ。

カニ肉入りチャーハン。タイ米だからのおいしさです。

日本人大好きな空心菜の炒め物。

ビーフンスープ・ビーフボール入り。

麺なし紅腐乳(イエンターフー)スープ。

スープなし翡翠麺のチャーシューのせ。

カキのオースワン。








ヤムウンセン(辛くて甘酸っぱい春雨サラダ)

燕の巣のデザート。








おいしいものは、もっともっといっぱいあるので、機会があれば、追加します。


2017年10月17日火曜日

タイの食べ物 その2

東南アジアの楽しみのひとつは、街を歩いているときに見かけるいろいろな食べ物ですね。


道路脇でスルメを売っているところです。
これだけ見事に並べているところは、あんまり見る事がないです。





好きなスルメを選ぶと、七輪で焼いて、それからこの器具で伸してくれます。
タレは、甘いタレに唐辛子とピーナッツの砕いたものを混ぜたのが一般的。



焼き卵。








中華街にあった有名なオースワン(カキのもんじゃ焼きのような感じ)の専門店

海鮮料理店の前によく並んでいる生きて縛られているノコギリガザミ。


独特のタレに漬けられている小さなカニ。

茹でたノコギリガザミの爪だけを売っている。

タイの焼き菓子。

この強烈な火加減がおいしさの秘密です。

日の近くでクルクル回りながら焼かれるチキンたち。

一度は試したい、お総菜屋さん。
お皿に盛ったご飯に、好みの総菜を2~3種類ぶっかけてもらいます。
お腹の弱い人にはお奨めしません。