2017年11月29日水曜日

男の更年期

今朝のNHK「あさイチ」で男の更年期を特集していました。2週間前には、女の更年期でした。

女の更年期は、女性ホルモンの低下で、男の更年期は、男性ホルモンの低下が基本だそうで、出てくる症状には、共通点が多いそうです。

ほてり、発汗、イライラ、目まい,頭痛、不眠、パニック、気力の低下、不安とか、いろいろとあるようですが、時に、うつ病と間違えるようなこともあるのだそうです。

性ホルモンと聞くと、どうしても性欲とか下半身に目がいってしまいますが、実は、自律神経を調整する働きがあるのだそうで、性ホルモンが低下すると、自律神経失調症になる可能性もあるのだそうです。

男性ホルモンの働きは、骨格や筋肉を作り、やる気や判断力を高めるそうで、不足すると、やる気がなくなって、朝から眠くなったり、行動力が無くなることもあるそうです。

余談ですが、女性にも男性ホルモンの分泌はあるわけで、女性ホルモンが低下しはじめると、女性の性欲が増すこともあるそうで、ちょうど男性の性欲が減退する頃に女性の性欲が増すと、家庭内での不和も起きるそうです。

中年男性あるある病(メタボ、高血圧、動脈硬化、糖尿病)も原因は、男性ホルモンの低下と関係があるそうです。

男性ホルモンの低下は、加齢により、40歳を過ぎる頃から始まるそうですが、個人差も大きいそうです。

今回驚いたのは、加齢だけでなく、大きなストレスを抱えると、男性ホルモンが急激に低下することもあり、その時に、鬱状態に陥ることもあるそうです。

わたしの個人的な体験でも、鬱になった時には、全く性欲がなくなりました。そして、性欲が再び芽生えはじめたら、どんどん元気になったように思います。

「あさイチ」のホームページには、チェック項目があるので、自分でチェックしてみたらいいと思います。

男性ホルモンを増やす食べ物も幾つかあって、番組では、とろろやタマネギや牡蠣を薦めていました。

牡蠣は昔から、男性ホルモンを強化するといわれて来ていますよね。体験的にも、牡蠣は、朝立ちの効果がすぐにでます。牡蠣に含まれる亜鉛がいいそうで、亜鉛(ZINC)のサプリもいっぱい売られています。

それから、.ちょっと驚いちゃったのですが、NHKの朝の番組で、「朝立ち」という言葉がOKなんですね。

ちょっとおかしいなと思ったら、泌尿器科に行って、診察を受けてみるのもいいそうです。ホルモン注射や、漢方薬や、キンタマに塗る薬もあるそうです。

男性ホルモンが増えると、やる気が出て行動的になるようです。

番組の中で、最近元気がないという男性が出て、治療前治療後の違いもやっていましたが、わたしは、単身赴任というのが、意外と男性ホルモンにはよくないような気がしました。

男は、定期的に使わないと、ダメになっていくと聞いたことがあります。単身赴任でチャンスがないときには、せめて、定期的にオナニーでもいいのではないかと思います。

定期的なオナニーが、前立腺ガンを防止するという研究もあるそうです。といっても週5回とか、トンデモですけどね。


2017年11月28日火曜日

リモコン

パソコンやスマホの普及で、CDプレーヤーとかDVDプレーヤーとか徐々に見なくなってきています。

一時は、テレビにビデオにCDプレーヤーなどテーブルの上にリモコンがいっぱいでした。エアコンもありますね。

ひとつのリモコンでテレビとビデオをコントロールできるものもありました。

リモコンは、濡らしてもダメですし、電池の液漏れも多いですから、故障すると、もう大変。同じものを探すのも大変ですし、けっこう高い。

メーカーとか機種を選ばず、どんなものにも使えるリモコンも売られています。

水やほこり対策にリモコンにラップをかぶせている人も多いです。防塵・防水リモコンは、コスト的に必要ないのでしょうね。

電池の液漏れは、アルカリ電池ではなくマンガン電池を使うことで、多少は、防げるようです。

電池の液漏れは。いろいろなもので起きて、製品をダメにしますが、きれいに掃除して、金属部を紙やすりなどで磨いてやると生き返ることもけっこうあります。

リモコンケースを開けるのは、けっこうたいへんですが、なれると、簡単に開けることが出来、きれいにお掃除も出来ます。

さて、今のスマホは、アプリを入れたら、何にでも使える感じです。ですから、あらゆる電化製品のリモコンにも使えるはずで、クーラーでもテレビでもスマホでコントロールしたら便利ですよね。

家や車のドアロックもスマホで開閉できるでしょうし、エンジンスタートもスマホで出来ます。

家や車は、アプリを立ち上げるには、顔認証や指紋認証が必要とか、安全のことも考える必要はありそうですが。

家からリモコンがなくなったら、スッキリするでしょうね。


2017年11月27日月曜日

ラオスの民話から 猟師とその奥さん


 遠い昔、ある所に一組の若い夫婦が住んでいました。

 二人には、まだ子どもはありませんでした。ご主人は、猟師で、野鳥を捕まえるのが得意でした。彼の奥さんは、とても良く尽くす、頭のいい奥さんでした。奥さんは、家の中で、毎日毎日、一生懸命に家事をしました。彼女は、鶏を飼って、はたを織ることもしました。彼女は、やさしく、親切だったので、誰からも好かれました。

 ある日、猟師は、すばらしい雄鳥を捕まえて帰ってきました。猟師は、奥さんにこの雄鳥の面倒をよく見るように言いつけました。翌日、猟師は、いつものように狩りに出かけてゆきました。彼は、狩りが大好きで、狩りをすること以外には、何もしませんでした。

 丁度その日、この国の王様が、国の人々がどんな暮らしをしているのかと、お忍びでこの村にやってきました。王さまは、誰からも王さまであることがばれないようにと、僧侶に変装していました。王さまは、その村のパゴダにしばらく住むことにしました。

 パゴダに僧侶が来たことを知った村人たちは、それぞれ、特別の食事を作って、僧侶に食べてもらおうとしました。猟師の奥さんも、この僧侶のためにと、美しい雄鳥を殺して、美味しい料理を作り、僧侶に食べてもらうことにしました。

 夕方になって、猟師が帰ってきたときに、奥さんは、パゴダに来た僧侶の話をしました。そして、僧侶のために、美しい雄鳥を殺したことも話しました。これを聞いた猟師は、かんかんになって怒りました。「おまえはひどい奴だ。俺の大切な一匹しかいない雄鳥を殺したなんて。」と大声で叫びました。

 丁度その時、猟師の家の前を通りかかったこの村の村長が、猟師が奥さんを怒鳴っているのを聞いて、家の中に入ってきました。

 村長を見た奥さんは、猟師に向かって、「お願いですから、もう一匹雄鳥を捕まえてきてください。村には、この雄鳥一匹しかいないので、どうしてももう一匹必要なのです。」といいました。
 猟師は、何を言っているのか良く分からず、「とにかくもう俺とおまえとは、赤の他人だ。」と叫びました。

 当時の村の人たちは、揉め事があるたびに村長に相談したり、村長の裁断を受ける習わしでしたから、二人は村長の家に呼ばれました。

 村長は、まず猟師から話しはじめるようにいいました。しかし猟師は、人前で話すことがなかったので、思うように話をすることが出来ず、「俺の・・・・雄鳥・・・ええと・・・殺して・・・」と、何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。

 次に、奥さんが、話を始めました。「村長様、聞いてください。昨日、うちの主人が帰ってきて、私が、雄鳥を殺して村のパゴダに来た僧侶のための料理を作ったことに怒ったのは、私が、一匹の雄鳥しか出さなかったからなのです。彼は、もっとたくさんの料理を僧侶のために作れと怒ったのです。」といいました。

 僧侶に成りすました王さまは、村人と一緒にこの話を聞いていました。僧侶は、突然立ち上がって、「みなのものよく聞きなさい。わたしは、この国の国王である。この村のみんなが私に対して、とても親切にしてくれたことに感謝する。今の話を聞けば、この猟師は特に見あげた男だ。この猟師と奥さんが、わたしの料理のことで争うのを聞くのはつらいことだ。わたしは、この二人を王宮に連れていって、褒美を与えることにする。」といいました。

 二人は、この村をあとにして、王様と一緒に王宮に行き、猟師は、王宮内で、役人になって、この頭のいい奥さんと末永く幸せに暮らしましたとさ。


Copyright(c) 1997 北風剛
無断複製、無断頒布厳禁

電線の地中化

日本でも電線の地中化が話題になっているようですが、バンコクの電線も、世界的に有名で、ビルゲイツが、SNSでバンコクの電線を取り上げて話題になり、タイ人の自尊心を傷つけられたようで、このところ、電線の地中か工事が始まっています。

わたしは、このバンコクの電線の写真を撮るのが好きで、以前から、写真を撮っていますが、こちらなんか、かなり、バンコクの電線らしい写真です。





電線といっても電話線とかケーブルテレビのケーブルとか、いろいろですが、とにかく、すさまじい数です。

断線などのトラブルが起きたときに、よく修理出来るものだと感心します。

電柱が電線の重みに耐えきれず、倒れそうな所も時々見かけます。

電線が、垂れ下がって、感電事故もよく起きています。雨季には、冠水するところも多いので、電線に触れたら感電死です。電話ボックスに垂れ下がった電線が接触していて、電話しようとした人が感電死というニュースもありました。

それで、今、バンコクの至る所で、空中の電線を地下に埋めるための工事をしていますが、とにかく電線の量がすごいので、歩道など、歩きにくいです。



でも、数年もすれば、電線の見えないバンコクに生まれ変わり、電線写真を撮りたくても撮れなくなっていくでしょうね。

そんな感じで、昔のゴチャゴチャしていたバンコクが、どんどんきれいになっています。

歩道を占拠していた屋台も、徐々に減ってきていますし、アヤシげな地区も健全化されつつあります。

便利になって、きれいになったときに、昔はよかったと思うのかな?


2017年11月26日日曜日

タイ掲示板と懐かしい名前

わたしが、タイでインターネットを始めてからもう20年になりますが、その間、タイ関連の掲示板もいろいろと変わりました。

ネットの場合には、世界中どこでも表情報と裏情報とがあって、裏情報や風俗情報は、取り締まりの対象になることもあって、盛衰も激しいようです。

タイの場合、掲示板よりも先にブログでタイの情報を伝えていたサイトがありました。

有名なところでは、今のシルバー層の先駆け的な「 T-thai(定退)」や駐在員の「バンコクの陽炎」などがありました。

わたしが、タイを話題にする掲示板として最初に知ったのは、「OnThai」でした。ネットフォーラムのような、質問者がいて、その質問にわかる人が回答するような掲示板でした。

その次が、「ネッタイ」だったと思います。この掲示板は、かなりの人気でしたが、人気故に、いろいろな人が参加してきて、主催者が、風俗関係のサイトもしているとかで、そちらからも人が入ってきて、荒らされるようになってしまう、衰退していったと記憶します。

「ゴーアジア(Go for ASIA!)」や「行きタイ!.com」「ハロタイ」なんかも旅行者向けの情報掲示板として、人気がありました。

こうした情報掲示板が、タイ人気の一因であったと思います。

タイの場合には、どうしても風俗情報や荒らしが入ってくるので、管理者も大変だったと思います。

風俗路線では、「BNL」「蛟竜のアジア裏事情研究会」などが先駆けだったと思います。

こちら関係は、やはり、熱意が違うからか、数々のサイトが生まれては消えていきました。

日本での2チャンネル「危ない海外」が話題になったもののタイからは書き込みが制限されていたので、2チャンネル風の掲示板も生まれてきました。

「タイちゃんねる」は表から裏の情報まで、長い間幅広く人気を集めていましたが、爆サイに売られて廃れてしまいました。

「タイちゃんねる」が全盛だった頃は、ちょうど、タイが、タクシン派と反タクシン派に割れて、いろいろな騒ぎが起きていた頃だったので、情報収集にも便利でした。

Yahoo掲示板のタイカテも、一時は、すごい人気で、多くの有名人も生まれていました。こちらも、荒らされて、今では見る影もありません。

情報提供の掲示板から、掲示板でのバトルという感じに変化したような気がします。

タイの情報を知りたがっている人たちよりも、タイに滞在している人たちが増え、意見交換というか、お互いに自分たちの考えが正しいという主張が強くなってきました。

タイの場合には、政治の話題については、非常に危険で、政府によってアクセスをブロックされるようなこともあります。

ブログなどでも、王室を侮辱したりすれば、外国人であっても容赦なく逮捕されてしまいます。日本人でも逮捕されています。

ですから、管理者たちも大変だと思います。

過去に「タイの地元新聞を読む」というサイトがあって、政治経済から三面記事までを日本語で紹介し、非常に重宝していましたが、こちらも、理由はわかりませんが、長く続いていたのに、ある日突然、閉鎖されてしまいました。

タイの掲示板やブログなどから生まれた有名人には、青木さん、京極くん、良さん、蛟竜、アンナ、蛸八六、G_dash、クーロン黒沢、タイ専門家、たかし、外道、ないはん、サラパオ大王、ザク、琵琶法師、トニー鈴木、みどりのくつしたなどなどがいました。

みんなすごい才能とエネルギーでしたが、今も元気で活躍しているのかな?

そして、今は、どこが人気なのかな?


2017年11月25日土曜日

髪の毛の話

ネコを見ていて思ったんですが、猫は雌でもヒゲを生やしています。よく見ると、眉毛もあります。もっとよく見ると、睫毛もあります。


耳毛はありますが、あごひげはないです。ヤギなんかには、あごひげがあります。

人間の体毛には個人差があって、ヒゲなんか、濃い人と薄い人がいますし、胸毛とかすね毛とか、ない人もいます。人種によっても、体毛の濃い薄いがあります。

日本では、体毛が濃い人が嫌われる傾向があるそうですが、欧米などでは、体毛がある方が男らしいと考える人も多いです。

老人になると、眉毛が長くなって簾になる人もいますが、普通は、眉毛でも睫毛でも、年齢に関係なく、長さはほとんど変わりません。体毛も同じで、一定以上伸びることはないですが、ヒゲは、どんどん伸びます。

動物のヒゲは、一定の長さ以上には伸びませんよね。インドのヨガの達人などには、あごひげをかなり伸ばしている人がいるようですが、でも、髪の毛に比べると、成長も遅いですし、長さも髪の毛の勝ちでしょうね。

で、ふと思ったのですが、人間が、道具を持つ前後というか、ヒゲや髪の毛を切ることが出来なかった時代には、人間の髪の毛やヒゲは、どのくらいの長さだったのでしょうか?

それとも、そんな時代には、髪の毛やヒゲも、ある一定の長さで成長を止めたのでしょうか?

ネコを見ていると、爪をよく研いでいます。飼っているネコだと、時々爪を切ってやることもありますが、野良猫なんかは、外でいつも爪を研いだりしているから、爪は、家猫に比べると長くならないのでしょうね。

人間の爪も、よく伸びますから、爪を切ることが出来なかった時代には、木とか石に擦りつけて、削っていたのかな?

もしも、爪が長くなったら、走りにくかったでしょうし、モノを掴みにくかったのではないかと思います。

よく、ヒゲを剃るともっと濃くなるといわれますが、髪の毛でも爪でも、長い年月をかけて、定期的に切ってきたので、成長し続けているのかな?

猫などのヒゲは、センサーの働きをしているから、猫のヒゲを切ってはいけないといわれます。

髪の毛など、身体の大切なところを守るために生えているという人もいますが、一定以上長くなっても、邪魔になるだけで守る力は増えないと思います。

禿げている人は、頭を守る必要がなくなったのでしょうか?

日本のサムライは、古くから、さかやき(月代)といわれる、頭のてっぺんを剃る風習を続けてきたので、ハゲは、サムライの子孫の印という説があるのかどうかは知りませんが、手入れは、かなり大変だったことでしょうね。

刃物が普及するまでは、毛抜きで毛を抜いていたそうで、そんなことを続けたら、毛根がダメになってしまって、ホンモノのハゲになりそうです。

頭頂部を剃るのは、冠とか兜をかぶるときに蒸れることを防ぐためとの説もあります。だから、禿げている人がカツラをかぶっても、そんなに蒸れないのかな?


2017年11月24日金曜日

デヴィッド・キャシディさんの訃報

戦後の日本では、米国のテレビドラマが数多く放送されましたが、60年代になると、それまでの西部劇が減って、若い世代向けのコメディーやサスペンスドラマが増えてきました。

医療ドラマ「ベン・ケーシー」、映画にもなった「逃亡者」、戦場ドラマ「コンバット!」、007をまねした?「0011ナポレオン・ソロ」、映画化された「スパイ大作戦」、変わり者刑事の「刑事コロンボ」。宇宙モノ「宇宙家族ロビンソン」魔女ドラマでは、「奥さまは魔女」や「かわいい魔女ジニー」、ビートルズのマジカルミステリーツアーを真似た?「ザ・モンキーズ」などなど、本当におもしろい番組が多かったです。

そして70年代に入って放送されたのが、「人気家族パートリッジ(すてきなパートリッジ)」で、中心になったのが長男を演じたデヴィッド・キャシディ(David Cassidy)でした。

「「悲しき初恋(I Think I Love You)」を知っている人は少なくないと思います。

彼は、認知症を患っていたそうですが、今月21日に肺不全で亡くなったそうです。まだ67歳と若かったのに残念です。

戦後世代は、戦前世代に比べて、60代70代で亡くなる人が多いですね。

ちなみに、彼の父親が、再婚相手に選んだのが、「人気家族パートリッジ」で母親役を演じていたシャーリー・ジョーンズだとはじめて知りました。ドラマでも実生活でも、デヴィッド・キャシディの母親だったんですね。

米国のドラマや映画を見て、彼らの生活やファッションに憧れました。

今は、米国やヨーロッパとほとんど同じような暮らしが出来る時代で、日本は、本当に豊かになりました。日本以外でも同じですね。

タイも、本当に発展して豊かになってきています。


2017年11月23日木曜日

さようなら DUSIT THANI HOTEL

バンコクの中心、ルンピニー公園の正面に立つ23階建てのパゴダ様式のホテルとして有名だったデュシタニホテルが、47年の歴史の幕を閉じるそうです。

1970年に完成しデュシタニホテルは、1978年にスクンビット通りに建てられた29階建てのチョクチャイタワーが出来るまではタイで一番の高層ビルでした。

当時は、シーロム通りが、商業エリアで金融関係や商社も多く、日本からの出張者たちも利用する高級ホテルでした。

各種レストランも素晴らしく、ベトナムレストランは、走りだったと思います。

そんなホテルが、来年4月に営業を終え、ホテルやショッピングモールや公園などがある複合施設に生まれ変わるべく、7月には、工事が始まるそうです。

デュシタニグループとセントラルデパートで有名なセントラルパタナとのパートナーシップだそうです。

 Khaosodのニュースから


2017年11月22日水曜日

高橋照幸さん

はっぴいえんどのドラムで作詞家の松本隆さんは、和製ロックの日本語は、ジャックスの「からっぽの世界」から影響を受けたと話しているそうです。

ジャックスを知っている人は少ないかもしれませんが、新旧メンバーを見ても、なかなかのミュージシャンたちです。

早川義夫
谷野ひとし
木田高介
角田ひろ
松原絵里
高橋末広
水橋春夫

あとから加わった「つのだ☆ひろ」さんは、永遠の名曲「メリー・ジェーン」で有名ですね。

「サルビアの花」で有名な早川義夫さんは、岡林信康にも曲を提供しています。

ジャックスは和光高校の同級生たちが作ったバンドだそうですが、和光大学に進み、彼らの運転手的な形で、同じ大学にいた高橋照幸さんが、彼らと一緒にいました。

ジャックス解散のあとで、高橋さんが、ベースの谷野さんとはじめたのが、伝説とも言える「休みの国」です。

そんなことを調べていて、高橋照幸さんが、すでにお亡くなりになっていると知りました。驚きと同時に、ご冥福をお祈りします。

わたしは、1973年の4月、スウェーデンのストックホルムで高橋照幸さんの借りていた部屋に居候をさせてもらった時期がありました。

当時照幸さんと谷野さんは、2度目の北欧滞在だったそうで、わたしは、谷野さんが2度目の滞在に出発する前に、偶然知り合いました。

「少年たちは、北欧に行くしかないぞ」とか、酒に酔いながら、かっこいいことを言っていて、ジャックスのメンバーだった人ですし、ルックスもかっこよかったし、憧れました。

それだけでもないのですが、わたしがヨーロッパに行く理由のひとつではあったかもしれません。

実際に、登山用のリュックを背負って、ストックホルムで谷野さんにあったときには、「リュックなんか背負って山にでも登りに来たの?」と冷たくされましたけどね。

照幸さんは、優しい人ですから、とりあえず、部屋に居候をさせてくれました。

思い出してみると、照幸さんの風貌は、福山雅治の若い頃に似ているような気がします。

彼の部屋は、古いマンションの老いたスウェーデン人の家の1部屋を借りていました。6畳あるかどうかの暗くて狭い部屋でした。

照幸さんが、何を目的にストックホルムに滞在をしていたのはわかりませんが、イラン人たちのやっている熱帯魚用の水槽を作る仕事をしていました。

部屋では、その金魚用の水槽で、ハツカネズミを飼っていました。ですから、部屋は、ちょっと臭かったですが、でも、居候は、泊めていただけるだけで、感謝でした。

仕事のお手伝いも少しさせてもらい、いつも行動は一緒でした。照幸さんは、スウェーデンの名車サーブのかなり古い車に乗っていて、それで、水槽の配達などをしていました。

部屋では、ムーディーブルースの「Seventh Sojourn」とキャロルキングの「Tapestry」をよく聴いていました。

居候させていただいたのは1ヶ月くらいだったと記憶します。

記憶に残っている話としては、ジャーナリストの大森実さんが、取材でスウェーデンにいらしたときに、照幸さんが通訳兼コーディネーターのようなことをされ、その時の興味深い話を聞かせてくれました。

覚えていることとしては、

日本の人口は6000万人くらいがちょうどいい。
スウェーデンの道路には、戦闘機が着陸できるところが多い。
スウェーデンの農場にある農機具の中には、軍事用として使えるものがある。
スウェーデンの電話は、非常時には軍事電話となる。
スウェーデンの地下シェルターには、非常時に備えた食糧の貯蔵があり、一定期間貯蔵された後、スーパーに置かれる。

などです。

照幸さんは、部屋でギターを弾くこともあり、その時の曲があとになって、帰国中にテレビから流れてきて、驚きました。

どこかのメーカーのCMのバックで、「 おまえの頭の上」という曲でした。この曲をよく覚えているのは、歌詞を作るときに、わたしも、ちょっとアイディアを出したからです。

それで、懐かしくなって、いろいろと調べて、帰国時に照幸さんに電話することが出来ました。

当時は、町田に住んでいらっしたようで、自分でヨットを作っているという話でした。直接話しをしたのは、その時だけでしたが、その後、ネットで、休みの国のウェブサイトを見つけて、それを読んだことはありました。

それで、その時は、伊豆で暮らしているようでした。

たまにそのサイトを見ても、ほとんど更新もなく、いつの間にかサイトはなくなっていたようです。

高橋照幸さんは、まるでハツカネズミのように、よく動き回る繊細な天才でした。

わたしが、高橋照幸さんの曲の中で一番好きなのは、あのハツカネズミの部屋で時々歌っていた、「マリー・ジェーン」です。

「休みの国」でやすらかに!


2017年11月21日火曜日

サンペーンレーンなど

バンコクの中華街の中央を走る大通りのひとつが、ヤワラート通りですが、それと並行している小道があります。それがサンペーンレーンで、そのレーンというのは、英語の通りという意味です。

ビートルズの有名な曲Penny LaneのLaneですね。ですから、サンペーン通りです。別名Soi Wanit 1。



ここは、アクセサリー類や帽子やバッグや小物類などを売っている問屋がたくさん軒を並べています。

ネックレス・ブレスレット・イヤリング・ヘアーアクセなどなど、女性にはおもしろいと思いますし、日本よりも安いと思います。

漢方薬や乾物のニオイなどもして、異国情緒たっぷりです。









サンペーンレーンは長いのでラチャウォンを通り過ぎ、チャカワット通りまで続きます。1キロちょっとあるでしょうか。

チャカワット通り近くになると、生地屋さんやボタン屋さんやレース屋さんなど、衣類関係が多くなります。

チャカワット通りを過ぎると、パフラットというインド人街があります。

問屋が多いので、まとめ買いをしないと、ホールセール価格と小売価格は2倍違います。まとめ買いとは、だいたい1ダース以上で、うまく交渉すると半ダースでもOKになることもあります。

このあたりは、食べ物屋台も多いですし、カメラ片手に1日遊べます。

バンコク中央駅から歩ける距離ですが、暑いから、それなりの覚悟が必要です。

以前は、クロントムとかサパーンレックとか、おもしろいところもありましたが、中華街浄化でなくなってしまっています。

ヤワラート通りから北側にあるチャルンクルン通り近くにも、おもしろそうなエリアがあります。

骨董品とか雑貨の掘り出し物があるかも。

昼間でしたら男性なら1人で歩いても危険は無いですが、スリには注意が必要ですし、違法なモノには手を出さない方が無難です。

女性は、世界中一人歩きは昼間であっても危険でしょうね。


日本とタイの友好

日本人が最初にタイを知ったのはいつ頃なのかは知りませんが、江戸時代には、すでにタイのアユタヤという古都に、日本人町があったという記録があるそうです。


これは、昔の日本人町跡の写真で、現在は、りっぱな歴史博物館も出来ています。










そして、有名な山田長政という人物が、アユタヤ王朝の中枢まで登ったという話もあるのですが、事実なのかどうかについては、諸説あるそうです。

一般的には、タイと日本の友好の歴史は約400年といわれます。正式な外交関係は130年だそうです。

タイの王室と日本の皇室とは、古くから繋がりも深く、天皇陛下が皇太子時代にタイに送った淡水魚の話も有名です。

=1960年代、タイ王国の食糧事情が難しいと知った魚類学者でもある皇太子明仁親王(今上天皇)は、タイ国王にティラピアを50尾贈り、「ティラピアの養殖」を提案。タイ政府はそれを受け、現在、タイでは広くティラピアが食されている。このエピソードにちなみ、タイでは華僑により「仁魚」という漢字がつけられ、タイ語でもプラー・ニン(ปลานิล)と呼ばれている。=

第2次世界大戦の時には、日本の同盟国でもありました。その結果、タイも敗戦国として、賠償金を払いました。

日本の敗戦後にも、タイは、いろいろと素晴らしい話があります。

昨年なくなった「ゾウのはな子」ですが、元タイ国軍事顧問で実業家のソムアン・サラサス氏が、「戦争で傷ついた日本の子どもたちの心をいやそう」と私財を投じて発起人となり、日本に贈られることとなった話があります。

==ククリット・プラモードタイ元首相は、日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。

日本というお母さんは難産して母体をそこなったが生まれた子供はすくすくと育っている。

今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは一体誰のお陰であるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあった為である。==

タイやマレーシアやインドネシアには、こうした考えの人たちも少なくないようです。

現在、タイで暮らす日本人は、短期滞在を含めて10万人ほどいるようです。一時に比べる、多少減少傾向のようですが、シルバー層の老後を海外でブームもあって、北部タイに滞在する高齢者たちが多いそうです。

日本人会に入っている人は意外と少なく、5~6千人ほどのようです。日本人会は、バンコク以外にチェンマイやシーラチャにもあります。

手元に1977年の日本人会会員名簿がありますが、当時の会員数は2371人でした。












タイに進出している日本企業は大小併せると5000社ほどあるそうです。

タイの総人口は7000万人弱といわれています。

最近は、中国の進出も目立ってきていて、観光客でも中国人がダントツの1位ですし、どこに行っても、中国人を見ます。

もともと中華系のタイ人が多いのですが、中国本土から来ている観光客のマナーについては批判的です。

古くからの中華街は有名ですが、最近は、新しく来た中国人による第2の中華街が生まれています。

タイも高速鉄道の計画がありますが、日本の計画に中国が割り込んできて受注するケースも出ています。

家電では、韓国が日本を完全に抜き去っているし、車やオートバイも、最近は中国製が増えてきています。

テレビドラマも、昔は、「おしん」などが有名でしたし、アニメも強いですが、最近は、韓国のドラマや中国のドラマが多いです。

音楽では、韓国のグループが大人気です。

日本食は、タイ人も大好きで、どこに行っても日本食レストランがありますし、ラーメンとかうどんの専門店もあります。

日本の食材もかなり手軽に手に入るようになっています。

日本とタイとの友好が、これからもずっと続くことを祈ります。


2017年11月19日日曜日

糖尿病を自覚したとき

神経症の診断がまだ出る前のことですが、自分で勝手にあの病気ではないかとか、この病気ではないかとか考えては、まるで趣味のように検査を受けていました。

そのひとつが、糖尿病で、血糖値が高かったわけでもなかったのに、メチャ甘いグルコースを溶かした水を飲み、検尿と血液検査を30分ごとにするテストを受けました。

30分ごとに血液検査も痛かったですが、それよりも、排尿は、徐々に出なくなっていくので、2時間後は、大変時間がかかりました。

その結果、糖尿ではないということでした。

その後、不安神経症も治り、何年かした後に受けた血液検査で、血糖値が少し高いことを指摘されたときには、まだ自覚はありませんでした。確か、朝食前の血糖値が119だったと思います。

甘いものをひかえてとか、暴飲暴食はしないでとかいわれました。

糖尿病を自覚するときのことはいろいろと言われていて、異常なのどの渇き、水をよく飲む、尿量が多い、夜中何度もトイレに行く、疲れやすい、体がだるい、食べても食べてもやせるなどがあるそうですが、私の場合には、そういったことはありませんでした。

わたしが自覚したのは、おしっこをすると泡立つことが増えたこととか、傷の治りが遅くなったこととか、無理な姿勢をすると、筋肉がつることなどが気になりました。

車の運転席から後にあるものをとろうとするときに、ものすごい筋肉痛もありました。足がつる経験はありましたが、背中とか腹筋とかクビの筋肉までつることもあるんですよ。

私の場合には、毛細血管よりも神経が冒されはじめたのかもしれません。

足がしびれる、足が冷える、こむら返りがおこる、長時間歩くとふくらはぎが傷むが、休めば治るなどの症状も自覚しました。

汗をかきやすくなったし、たまに立ちくらみすることもあったし、下痢が多くなったなどもありました。

飛蚊症にもなりましたが、これは、糖尿病に関係するかどうかわからないと眼科医からは言われました。でも、ネットで見ると関係があるという医師も多いようです。

最初は、かなり気になりましたが、いつの間にか気にならなくなり、今は、消えています。

そして、血液検査でも完全に2型糖尿病と診察されました。ヘモグロビンA1cは7%を越えていました。

糖尿病の診察では、血液検査と共に、よく、足の裏を割り箸のようなモノでこすられます。

足の裏の感覚に問題が無いかとか、膝の反射神経も調べられました。

眼底検査も定期的にした方が安全だそうです。

血糖値を下げるには、いろいろな方法もあるそうで、運動をして、食事制限をするのが基本だそうです。

それでも効果がなかった場合には、薬で血糖値を下げるのだそうで、一番いけないことのようですが、一番楽そうな薬で血糖値を下げるようにお願いしました。

今は、いい薬もでてきているので助かっています。

薬を飲めば、ある程度は、血糖値のコントロールも可能ですし、たまには、好きなケーキとかアイスクリームも食べられます。

食事は、コントロールというほどではないですが、夕食の時間を早めにして、夜は、水やお茶以外はとらないようにしました。

食事は主食を減らし副食を増やす感じです。でも、そんなに厳格にはやっていません。いい加減なモノです。お医者さまからは、よく𠮟られますが、気をつけますと言うだけです。

この「気をつけます」という言葉は、小学生の頃から、𠮟られると自然に出てくる魔法の言葉です。

最初の頃は、まじめにやった時期もあったし、エアロバイクも3年間、ほぼ毎日40分間続け、エアロバイクを壊しました。それでも、思ったほどの効果はなかったです。

身体にいいサプリなどもいろいろと試しました。

どんなことでも、5年10年と続けるというのは、なかなか大変で、長続きしないので、いい加減でいいやと考え方を変えました。

でも、腎不全と失明は、怖いです。


尿路結石

一般的には、じっとしていられないほどの激痛とか、この痛みは女性の出産時の痛み以上かとか、いろいろと言われるわけですが、私の場合には、それほどの痛みはありませんでした。

背中の右側に違和感があり、排尿時に、何か熱いような痛いような感じがして、むず痒く、尿道炎なのかと思いました。

病院に行って診察を受けて、超音波検査を受けたら、尿路結石だと言われました。

数個あるけど、大きくないようだから、水を多めに飲んでいれば、そのうち自然に排出されるでしょうと言われました。

それで、なるべく水を飲むようにしていましたが、症状はどんどん悪化してきて、排尿時以外でも、下腹部から尿道にかけて、痛みがありました。嫌な痛みと熱っぽさで、本当に不快でした。

痛みが我慢できないときに服用してくださいと、もらった鎮痛剤も時々飲みました。

ある日、尿意を催しトイレに行って排尿していたら、急に、おしっこが止まりました。急ブレーキみたいに止まったので、あれ?と思って、下腹部を見たら、なんと、おちんちんの先っぽから、何か白いモノが出ていました。

白いモノといっても液体ではなくて固体でした。

イチモツの先っちょから、初めて見る先っちょの部分が出ていたので、その先っぽを指で掴んで、引っ張り出そうとしましたが、痛くてなかなか出てきません。

意を決して、思いっきり引っ張ったら、スポッと出てきました。直径1センチ弱で、長さが2センチ弱くらいの軽石状の薄い灰色の石でした。

軽石状ですから表面は細かな凸凹で、こんなのが粘膜をこすったら、そりゃあ痛いはずだと思いましたが、よくも、小さな尿道からでてきたものだと、その幸運に感謝でした。

腎臓あたりから、細い粘膜の管を通って、徐々に下がってきたわけで、最終的に膀胱までたどり着いて、そこから、また、尿道を通って、初めて見る下界にでてきたのですから、長旅、ご苦労様でしたという感じでした。

一度、尿路結石になった人は、再発する可能性が高いそうで、わたしも、よく、同じような痛みを背中や下腹部に感じることがあります。

そして、急におしっこが出なくなって、慌てて病院に行ったこともありましたが、やはり、尿路結石でした。

排尿時に、何か出たなと感じることもあります。

人によっては、超音波で石を砕いたり、手術で摘出することもあるそうで、そんな大事になっていないことに感謝です。

タイは常夏で、よく汗をかきますから、どうしても、尿が濃くなって、結石が出来やすいそうです。普段から水分をしっかりとって、おしっこを我慢することのないようにとのアドバイスでした。

食べ物や遺伝にも関係するようです。

ちなみに、記念品だから、ペンダントにでもしようかと保存していた結石ですが、気が付いたら、気化したのか、見事に跡形もなくなくなっていました。


2017年11月18日土曜日

はっぴいえんどと団塊の世代

「サワコの朝」に作詞家の松本隆さんが登場していました。

松本さんは、「木綿のハンカチーフ」とか「ルビーの指環」とか「白いパラソル」とか「風立ちぬ」とか、とにかく、数え切れないほどのヒット曲を書いています。

彼は、伝説のバンド「はっぴいえんど」のドラムで、細野晴臣 - ボーカル・ベース・ギター・キーボード、大瀧詠一・ ボーカル・ギター、鈴木茂 - ギター・ボーカルという構成でした。

団塊の世代の中には、「はっぴいえんど」時代から知っている人もいらっしゃるでしょうけど、当時のスーパースター「岡林信康」のバックバンドもやっていました。

わたしは、残念ながら、岡林信康さんを生で聴いたことがありませんが、「はっぴいえんど」は、1971年7月17日に浜名湖/パルパルで行われたコンサートで聴いたことがありました。

ドラムの松本さんが、最後にドラムのスティックを放り投げ、それが、ステージの電飾に当たって、電球が割れてかっこよかったです。

当時は、いろいろなところで、コンサートが行われていて、特に、岐阜県の中津川で行われた全日本フォークジャンボリーは、すごかったです。

わたしは、1971年8月7日から行われた第3回には行っています。3日間で3万人近くが集まったそうで、いろいろなトラブルもあったそうです。

大きくなりすぎて、ステージも多くて、なかなか聴きたい人のステージに行けませんでした。

フォークの流れとして、最初は、反体制の過激な歌が受けていましたが、徐々に、商業的な歌が受けるようになり、コンサートも、ヤマハのつま恋のポプコンのような方向に変わっていったようです。

「サワコの朝」に出た松本隆さんの話で、興味深い話がありました。

それは、人口構成の話で、昔は、ピラミッド型で、若者の人口が多く、若者向けの音楽やファッションが受けたわけですが、今の人口構成は逆ピラミッド型で、老人人口が多く、若者が少なくなっているのに、相も変わらず、若者向けの音楽を作っても売れるわけがないとのことで、これからは、老人向けの音楽を作るべきだと言っていました。

確かにそうで、ドラマでも、倉本さんが同じ考えて、「やすらぎの郷」を書いて、ヒットさせています。

老人に受ける音楽や映画、そしてファッションや本などを作れば、お金に余裕のある人たちも多い世代ですから、商売としてもおもしろいと思います。

今は、音楽はダウンロードの時代ですが、老人たちを取り込めば、まだDVDも売れるかもしれません。でも、やっぱり、野外コンサートでしょうね。

老人用の野外コンサートのビジネスモデルを考えて実行したら、おもしろいと思います。

各種ホテルやキャンプ場などがあって、老いらくの恋なども生まれるでしょうし、冥土の土産話に、毎年の生きがいにもなると思います。

当然、介護班や医療班も必要でしょうし、体力と気力でのランク分けも必要になるかも。

出演できる、かってのスターたちもお年寄りで、最近は、有名な人たちの不幸も多くなってきているので最後のチャンスかも。けっこう難しい爺さん婆さんたちもいるでしょうから、ステージは、分けた方がいいでしょうね。

5万人から10万人くらいなら、集まるのではないでしょうか。

どっかのテレビ局が、大晦日に中継をしたら、紅白を超える視聴率もとれるかも。


血糖値と血圧

最近発表された米国における血圧のガイドラインは、現在の140(最高血圧)/90(最低血圧)よりも低い130/80 が改善必要な「黄信号」 なんだそうです。

昔からよく言われてきたのは、最高血圧は、年齢+90ですよね。かなりいい加減だとは思いますが、年齢など個人差が大きいような気がしますので、一概に、「黄信号」とも言えないのではないかと思います。

呼吸数でも心拍数でも、とにかく、個人差があるし、1人の人でも、計る時間や状況で、かなり数値も違いますよね。年齢にもよります。

スポーツ選手なんか、心拍数が、驚くくらい少ないそうです。

個人差がある上に、自分にとって、体調がよく感じる血圧もあるのではないかと思います。血圧が低いと、調子がでないとか、頭が働かないとかもあると思います。

わたしは、父からもらった糖尿病があり、血糖値が高いのですが、血糖値を下げる薬を飲んで、血糖値が下がりすぎると、もう大変です。

手足が冷たくなってきて、震えますし、息苦しく感じる時もあります。慌ててグルコースを舐めると、10分もしないで、身体が温かくなってきて、正常に戻ります。

要するに、血糖値も、基準値はありますが、低血糖の方が、高血糖よりも恐ろしい場合もあるわけです。最悪、死んでしまうリスクさえあるそうで、特に、車などの運転中は、非常に危険です。

血糖値の基準値も、最近は、空腹時血糖値が110以下だった以前よりも下がっていて、空腹時の血糖値が100以下でないと正常ではないそうです。126以上は、もう糖尿病だといわれてしまうようです。

一般的にいわれている血糖値よりも、ヘモグロビンA1cという血糖値の平均値が重要とされていて、ヘモグロビンA1cが6.2%未満が正常値だそうです。

血糖は、エネルギー源でもあるから、血糖値コントロールのために、糖分や炭水化物を全くとらないなど極端なことをすると、元気がでなかったり、頭の回転が鈍ったりすることもあるそうです。

高血圧や糖尿病で悩む人も多いですから、サプリメントとか、いろいろな民間療法とかも多いですし、中には詐欺まがいもあるようです。

血圧と同じで、自分が調子のいい血糖値もあるような気がします。

血糖値が高い状態を長く続けると、いろいろなところに問題が出てくるそうで、特に危険なのが、毛細血管だそうです。毛細血管の多い腎臓や目や手足などに大変なことが起きるリスクがあります。

糖尿病の人は、糖尿病でない人に比べて、よりしっかりと血圧のコントロールが必要だそうです。私の場合には、130以上はほとんどないのですが、でも、120-80以下に保つよう努力してくださいと医師から言われ、腎臓にいいという血圧を下げる薬も飲んでいます。

厳しい数値を出す裏には、製薬会社や病院の商売があるのではないかといったネットの話もあります。数値を厳しく設定するだけで、薬を飲む人が増えて、彼らの収益が大きく伸びるそうです。

わたしも、毎日かなりの薬を飲んでいるので、製薬会社に貢献しています。

まあ、ネットの噂話が正しくても正しくなくても、重要なことは、自分の問題で、自分なりに、自分が考える理想値を見つけて、それを保つことですよね。

とにかく、死ぬまでのコントロールが必要な血圧や血糖値ですから、極端なことをするよりも、長続きできる方法を探した方がいいと思います。完ぺきを求めすぎると燃え尽きてしまいます。

タイで暮らしていて思うのは、人生、いい加減さも時には大切かもと思います。

低血糖も高血糖も高血圧も低血圧も、身体にも、脳の働きにもよくないようです。

血圧は、血圧計で簡単に計れますし、血糖値も、今は、自分で簡単に計れます。最初は、指先に針を刺したら痛いんじゃないかと思いましたが、今は、いろいろと改善されているようで、ほとんど痛くないです。




わたしは、血糖値を計る器具を2種類持っていますが、出てくる数値に差があります。病院で測る数値との差で、だいたいどちらが正しいのかはわかります。

自分で計っても、やはり定期的に病院に行った方が確実ですね。血液検査をして、今の調子でがんばりましょうねとか、もう少しがんばりましょうねといわれて、お薬をもらうだけですが。。。

人間、同じような生活環境で、同じような食生活をしていても、血圧も血糖値も正常な人もいれば、異常になってしまう人もいます。

運動能力や知能や性格などと同じように、遺伝的な要素が大きいようで、いくら努力してもダメなモノはダメと非情な真実もあるわけです。

残酷な「遺伝の真実」あなたの努力はなぜ報われないのか

努力は必要ですが、現実を受け入れて、高望みしないことも幸せに暮らすための知恵ではないかと思います。


2017年11月17日金曜日

水が怖い

5~6歳の頃、いとこたちの家族と我が家の家族で、海水浴に行きました。その時、わたしより、少し年上のいとこたちがふざけて、わたしを海に投げ込みました。

記憶にあるのは、灰色に濁った海水の中で藻掻く自分で、今から思えば、ちょうど波打ち際のあたりで、身体が直立していれば、上半身は海水の上に出ているくらいの深さだったんでしょうけど、海中で藻掻き足が浮いている状態で、頭が沈んでいたのでしょう。

その後のことは、全く記憶にありません。たぶん、いとこたちが、驚いて、助け上げてくれたのでしょう。

このときの恐怖心が、ずっとわたしの記憶の中に潜み、海に入ると、息苦しくなるのです。

洗面器に顔をつけることも出来ません。お風呂には入れましたが、お風呂で潜ったりも怖くて出来ませんでした。

身体は大丈夫でも顔がダメのようです。今でも、シャワーを浴びていて、頭を洗うときなど、時々、呼吸が苦しくなって、口で大きく呼吸しています。

一番つらかったのは、やはり、夏の体育の時間で、水泳の授業がある度に、お腹が痛いとか嘘を吐いてずる休みをする自分が情けなかったです。

夏は、非情にも毎年来ます。そして、夏になると、プールの時間があります。お腹が痛いだけでなく、おできが出来たとか、風邪をひきましたとか、先生は、当然わかっているはずですが、本人は必死で嘘を考えていました。

普段は活発で、ガキ大将的な自分が、水泳の時間になると、もう、情けないかぎりでした。中学に入っても同じで、やはり、水泳の時間は仮病。

中学3年生の夏休み前に、担任で体育の教師が、夏休みが終わったあと、水泳のテストをして、300メートル泳げないヤツには、内申書を書いてやらないと宣言しました。

中学3年ですから、高校受験がひかえていて、希望する高校に入るには、内申書も重要で、変なこと書かれたら、いくらテストでいい成績を取っても、入学できないかもしれないと悩みました。

運がよかったのは、成績も同じくらいの幼なじみが、やはり泳げなかったことで、彼と誘い合って、夏休みの期間中、毎日のように市営プールに通って、泳ぎを練習しました。

指導者がいたわけではないですから、とにかく、プールに入って、最初は、身体を水面下まで沈める練習をしました。最初は、すぐに息苦しくなって、飛び上がるのですが、何度も何度もやっているうちに、徐々になれていきました。

その次にやったのは、プールの縁を掴んでの平泳ぎの足の練習でした。これは、顔が水面の上ですから、苦しくはありませんでした。

次は、潜水というか、身体を沈めた状態での平泳ぎの練習でした。息が続くまでがんばるのですが、最初は、手足のバランスも悪く、ほとんど進みませんでした。

でも、これも、毎日やっていると、そのうち前に進めるようになり、手で水をかくと、顔も水面の上に出せるようになり、そうなれば、もう、どこまでも泳げるという感じになりました。

そして、夏休みが終わる頃には、すでに300メートル以上泳げるようになり、水泳のテストの時には、先生からよく頑張ったと褒められて、とても嬉しかったです。

もし、あの先生がいなかったら、いまだに泳げないままだったかもしれません。

でも、まだ水は怖いので、平泳ぎ以外は、ほとんど泳げません。クロールは息継ぎが出来ないですし、背泳は、顔が水面下に沈むともう苦しくなるし、バタフライなど、どうしたらいいのかわかりません。

一番楽なのは、古式泳法の横泳ぎです。

子供の頃、溺れた経験を持つ人は、意外といるそうです。ほんのちょっとしたことから、一生背負っていく心の傷が出来てしまいますから、子供を溺れさせないようにして欲しいです。

チャンスがあれば、小さい頃から、水に慣れさせて、泳ぎを教えるのがいいですね。

わたしの神経症とかも、原因のひとつは、子供の頃溺れそうになった恐怖心や、嘘を吐いてまでもプールに入りたくないという現実逃避などがあるのではないかと思います。

恐怖心ということでは、予防注射も怖かったです。今の注射針は、よくできていて、ほとんど痛くはありませんが、昔の注射針は、太くて痛かったです。

それに、針が刺さりにくくなるまでひとつの針で何人にも注射していましたから、危険極まりなかったです。

いろいろな意味で、子供に恐怖心をなるべく与えないような社会が理想です。


2017年11月16日木曜日

ベトナムの民話から  中国からの使者


 ある日、中国の皇帝が、ヴェトナムの都に使者を送ってきました。この使者は、とても高慢な男でした。使者が到着する日、ヴェトナムの王様はじめ、大臣や役人が、そろって都の入り口まで、お出迎えに出ました。都の入り口の門には、大きくヴェトナム王国の門と書かれていました。

 中国の使者が、門までたどり着いたときに、彼は、門を見あげて、「偉大なる中国の皇帝の使者が、このような門をくぐることは出来ない。」といいだしました。

 使者は、そこから先に進むことを拒否しました。彼は、ヴェトナムの王様に向かって、「この門の上に橋をかけたなら、その橋を渡って、都に入ろう。」といいました。彼は、橋が完成するまで、門の前で野営して待つつもりだといいました。

 王様は、どうしたらいいのかわかりませんでした。王様は、中国の皇帝の使者である、この男のご機嫌を損ねたくありませんでしたが、この使者のための橋を門の上にかけたなら、国家としての屈辱になってしまいます。どうしたらいいものか? どのくらいこの高慢な使者の時間を稼げるか? 王様は、悩みました。

 王様は、知恵の働くことで有名なクインという男を呼びました。王様は、クインに事情を話したところ、彼は、しばらく考えてから、「王様、いい知恵が浮かびました。このわたしが、その傲慢な使者にこの国の門をくぐらせてごらんにいれます。」といいました。

 あくる日、クインは、中国人の召し使いのかっこうをしました。彼は、鳥の羽で出来た扇を持って、中国からの使者にあいに行きました。

 まず、使者のいるテントの側まで行って、使者にあえるチャンスを待ちました。

 一人の役人が、使者のテントに入ってゆくときに、クインは、役人の後ろについて、テントの中に入ってゆきました。使者の座っている椅子の傍らにいって、鳥の羽で出来た扇を取り出して、一生懸命に使者に風を送りました。

 しばらくすると、彼は突然扇で、使者の頭を強く殴って、大声で、使者を罵倒し、できる限りの駆け足で、テントから逃げ去りました。

 はじめは、何事が起こったのかわけがわからなかった使者でしたが、我にかえって、椅子から飛び上がって、クインに向かって知っている限りの罵倒の言葉を叫びながら後を追いかけました。

 使者は、侮辱され、頭を叩かれたことにひどく怒っていたので、中国の使者としての冷静さと礼儀を忘れ、ただひたすらクインを捕まえようと後を追い続けました。

 クインは、追ってくる使者から捕まらない程度に一直線に都の入り口の門に向かい走りました。使者の後からは、使者の護衛と付き人達が、後について走ってきました。

 使者の一行が、すべて門をくぐって、中に入ったときに、ヴェトナムの王様以下、大臣や役人たちが、うやうやしく使者を出迎えました。

 使者が、追っていた男は、いつのまにか、どこかに姿を消していました。使者は、自分がはめられたことに気づいていましたが、すでに門をくぐった後でしたし、王様以下に出迎えられてしまった以上、いまさら門から出ていくことも出来ず、どうすることも出来ませんでした。ですから、王様に対して、礼儀正しくあいさつをし、温かく迎えられました。


Copyright(c) 1997 北風剛
無断複製、無断頒布厳禁

チャイナタウン

バンコクのチャイナタウンの写真



バンコクチャイナタウンの入り口にある門
ラマ9世の在位72周年記念に建てられたようです。





布屋さんの表で各種草履が売られていました。
1足2~300円です。


ソフトドリンク売りのおじさん。

このおじさんは、クジャクの羽売りです。

孫の手を売っていました。

タイの雑誌各種。

タイのすり鉢売りのおじさん。

山盛りの干しエビ。

こちらは、山盛りの銀杏。
毎日食べると物忘れの改善になるとか。

漬け物各種。どれも甘口です。

屋台の魚屋さん。

干し椎茸各種。
手前は、干しエビ。







中華街をブラブラするのが大好きです。


2017年11月14日火曜日

タイの民話から 貝王子サントーン


 ずいぶんと昔のことですが、あるところで王様とお后が幸せに暮らしていました。しかし、二人に子どもがありませんでした。

 お后は、機会ある毎に、いろいろな儀式を執り行い、一心に子どもが授かるようにお祈りをしました。そのおかげなのか、ついに、お后に子どもが授かりました。

 お后の喜びは、たとえようのないものでした。そして、お后は、お産をしましたが、生まれてきたのは、なんと美しい貝でした。

 王様には、数人の妾がいました。妾たちは、王様に、貝を生むなんて、お后は、王様を滅ぼそうとしている魔女に違いないから、宮殿から追い出した方がいいといいました。

 王様は、お后と生まれてきた貝を、小船に乗せて、王国から追放しました。数日後、小船は、巨大なジャングルの入り口に辿り着きました。

 お后は、そこで暮らしはじめました。

 お后の前では、貝は閉じたままでしたが、お后が見ていないときには、中からかわいらしい男の赤ちゃんが出てきて、外でしばらく遊んで、また貝の中に入ってゆきました。貝の王子は、家の中の片づけもしました。赤ちゃんが少し大きくなると、お后のために食事も作りました。

 お后は、誰かが、家の片付けをしたり、食事を作ったりしてくれるので、この貝が、何か特別だと感じていました。

 ある日、お后はついに、貝の中から美しい少年が現れたのを見つけました。すべてを悟ったお后は、少年が再び貝殻に入らないようにすぐに貝殻を壊しました。そして、少年に普通の生活をするようにいいつけました。お后は、この少年に貝を意味するサン王子と名付けました。

 このサン王子のうわさを耳にした、宮殿の中の妾たちは、この王子をさらって、殺してしまうようにはかって、殺し屋を向かわせました。しかし、地下に住むヘビ族の王様が、この王子を守ってくれました。

 ヘビ族の王様は、この王子を守るために、美しい女性に変身した鬼婆を遣わせました。

 鬼婆は、王子のために、15年間使えました。

 鬼婆は、黄金の池で、王子を水浴びさせ、王子の顔色は、眩しいばかりの魅惑的な金色に輝くようになりました。

 彼女は、王子にこれを唱えれば、森の中からすべての鹿を、そして河の中からはすべての魚を集めることが出来るマントラの呪文を教えて、これを暗唱させました。

 そして、黄金の杖を与えました。彼女は、王子の命をねらっている者がいるから気を付けるようにいいました。王子の身分が分からないようにと、ボロの服を着させました。

 王子は、彼女に別れを告げて、サモントの国に向かって飛び立ちました。

 サモントの国の王には、七人の美しい王女がいました。王は、王女たちが相応しい若者を見つけて結婚することを望んでいました。そこで、王は、王女の夫に相応しい独身の若者は、王宮に集まるようにおふれを出しました。この噂は、国内ばかりでなく、遠く離れた外国まで届きました。

 そして、その日が決められました。この七人の王女たちの話を聞いた、遠くの外国からも、中国やラオス、カンボジア、マレーシア、ビルマ、インドなどから王子たちが集まってきました。もちろん国中の独身の若者たちも集まってきました。

 その日は、すばらしい天気でした。宮殿は、色とりどりの旗や花で飾られ、輝いていました。たくさんの外国からの王子や、国中の若者たちが、思い思いの服を着て、席についたときに、七人の王女たちが美しい衣を着て輝く宝石を身につけあらわれました。

 歳の順に上から六人の王女たちは、自分に相応しいと思われる若者を見つけることが出来ました。しかし、最後の一番年下の王女は、自分に相応しい人を見つけることが出来ませんでした。

 王は、この事に苛立ち、大臣を呼んで、まだ席についていない者がいるだろうから、彼らを席につかせるように命じました。

 大臣は、王宮の外にいる若者たちに中に入って席につくようにいいました。

 その中には、ボロをまとった若者もいました。若者たちが席につくと、一番年下のロチャナ王女があらわれました。王は、王女に自分に相応しい若者をしっかり探すようにいいました。ロチャナ王女が選らんだのは、なんと醜いボロを着た若者でした。王は、驚いただけでなく、腹が立ち、この二人を町外れに住まわせました。

 しかし、ロチャナ王女は、自分の選択が間違っていなかったことを知っていました。今でも自分の夫になったこの若者が、ボロを着ていることに変わりはないけれど、そのボロの下には、美しいからだと心がある事を知っていたからです。

 王は、このロチャナ王女の相手の若者が好きになれませんでした。何とかして追い出せないものかと考えていました。

 ある日、王は、七人の義理の息子たちを集めて、森に行って、一人六匹ずつの鹿を狩ってくるように命じました。若者たちの狩りの腕前を試すためでした。

 ロチャナ王女の夫は、黄金の靴をはいて森に向かいました。森に入ると、ボロを脱いで、元の姿に戻ると、覚えたマントラを唱えました。

 すると、森中の鹿が彼のもとに集まってきました。

 夕方になって、他の若者たちが帰ってくる頃、彼は、またボロを着ました。

 他の男たちは、彼のまわりにいる鹿を見て、自分たちは、一匹の鹿も捕まえることができなかったので、彼に六匹ずつ分けてくれるように頼みました。

 しかし、彼は、一人一匹ずつなら分けてあげるが、鹿の耳は切り落としておきますといいました。男たちは、それでもいいといいました。

 王宮に帰ってきた若者たちを見て、王は驚きました。ロチャナ王女の夫だけが六匹の鹿を捕らえてきたことに、心の中で面白くありませんでした。他の若者たちは、一匹ずつしか持ち帰らなかったばかりか、鹿の耳が切り落とされていました。

 王は、今度は、それぞれが、種類の違う百匹の魚を持ち帰ってくるように命じました。

 今度も、ロチャナ王女の夫にとっては他愛もないことでした。彼は、河に行って、ボロを脱いで、静かにマントラを唱えはじめました。

 すると、たくさんの魚が、彼のところに集まってきました。午後になると、他の若者たちが、やはり、一匹の魚も捕まえられなかったので、彼のところにやってきて、魚を譲ってくれと頼みました。彼は、一人二匹ずつで、魚の鼻を切り落としておくなら、構わないといいました。ロチャナ王女の夫は、もうボロを身につけませんでした。

 夜になって、みんなが王宮に戻ってきました。六人の若者の相手の王女たちは、今度は鼻のない二匹の魚を持って帰ってきた夫たちに失望しました。このあいだは、耳のない一匹の鹿でした。

 それに比べて、ロチャナ王女の夫は、百匹の大きな魚を持ち帰ってきました。今度は、王も王妃も、彼は、ロチャナ王女に相応しい若者だと認めました。ロチャナ王女は、とても幸せでした。

 しかし、幸せも長くは続きませんでした。インドラの神が、戦いの戦士に姿を変えて、地上に現れました。

 そして、インドラの神は、サモントの国とサモントの国を賭けてポロの試合をするといってきました。もしも、このポロの試合を放棄するなら、サモントの国を焼き払うといってきました。

 王としては、この挑戦を受ける以外に方法がありませんでした。

 すべての王族が、王宮に集められました。王は、まず六人の義理の息子たちに、戦うように命じましたが、六人とも簡単に負けてしまいました。インドラの神は、もう一人いたではないかといいました。

 王と王妃は、急いで、町外れにある、ロチャナ王女の小屋に行きました。わけを話して、国を救ってくれと頼みました。ロチャナ王女も一緒にお願いしました。

 翌日、国中が見守る中で、インドラの神とロチャナ王女の夫との試合が始まろうとしていました。

 インドラの神は、すでに馬に乗って、いつでも戦いが出きる状態でしたが、ロチャナ王女の夫の方は、まだ姿が見えません。王は、王妃の手を震えながら握っていました。

 その時突然、馬に乗った若者があらわれました。手綱を握っている金色に輝く顔色の若者は、ロチャナ王女の夫でした。彼は、生まれつきの選手のようにマレット(ボールを打つためのスティック)を使いこなしていました。そして、インドラの神に対して挑みかかりました。

 そして、戦いは始まりました。インドラは、何とかして、相手を負かそうとしましたが、ポロの腕は、相手が上でした。そこで、インドラの神は、馬を大空に舞わせました。

 すると、ロチャナ王女の夫も、黄金の靴を使って後を追いかけました。大空での戦いの末、インドラの神はとうとう負けてしまいました。そして、サモントの国は救われました。

 ロチャナは、急いで、夫のもとに駆け寄り、夫と馬を抱きしめました。インドラの神は、戦士の姿から、神本来の姿に戻り、王に話し掛けました。

 インドラの神は、ロチャナ王女の夫の本当の素性を明かしました。彼は、サントーン王子といって、次のサモントの国の王になるものだと告げ、姿を消しました。

 インドラの神は、サントーン王子の父親に、王子のことと、消息のわからないサントーン王子の母親の消息について話して聞かせました。

 年老いた王は、急いで、インドラから聞かされた農家にいって、彼が追放した王妃を見つけました。王妃の世話をしてくれていた老夫婦には、土地とお金と衣類が与えられました。

 サントーン王子は、その後、サモントの国の王となり、彼の年老いた両親とロチャナ王妃と一緒に末永く幸せに暮らしました。


Copyright(c) 1997 北風剛
無断複製、無断頒布厳禁

2017年11月13日月曜日

不安神経症 その3 不定愁訴

人間、生きている間には、時々、調子が悪いときもあるわけで、お腹が痛いとか風邪をひいたとか、だいたいは、何かの病気であることが多いです。

でも、何となく調子が悪いとか、もしかしたら病気かもしれないと思うこともあると思います。

「不定愁訴」という言葉があって、頭が重い」、「イライラする」、「疲労感が取れない」、「よく眠れない」などの、何となく体調が悪いという自覚症状を訴えるが、検査をしても原因となる病気が見つからない状態を指すとのこと。

患者からの訴えは強いが主観的で多岐にわたり、客観的所見に乏しいのが特徴。症状が安定しないため治療も難しく、周囲の理解も得られにくいそうです。ここが、けっこう重要らしい。

身体表現性障害、心身症、軽症うつ病、気分変調症、パニック障害、全般性不安障害、心的外傷後ストレス障害、急性ストレス反応、適応障害などの可能性が含まれ、自律神経失調症と診断されることも多いそうです。

こうした不定愁訴が、なかなかやっかいで、検査しても、ストレスが関係しているくらいしか原因がわからず、そこから暗闇の迷路に入り込むこともあるわけです。

わたしは、時々目まいがすることがあります。目が覚めたときに、まわりが回り始めて、非常に不安になります。

私の場合には、目を閉じれば、なんともないのですが、目を開けると、部屋がまわり、立ち上がると、ふらついて転びそうになります。

タイの病院に行くと、こういった症状で、原因がよくわからないときには、直訳すれば「内耳の水が左右同じではない」病ということをいわれます。

この病気は、タイでは、かなり多いそうで、この間、国外に逃亡したといわれているインラック前首相も、裁判を欠席した理由が、この「内耳の水が左右同じではない」病だったそうです。

メニエール病という病気があって、以前は、メニエール氏病といわれていたと記憶しますが、やはり、耳が原因の目まいや頭痛の病気です。

専門家ではないので、間違っていたら申し訳ないけど、個人的には、内耳の内リンパ水腫が原因のメニエール病が、「内耳の水が左右同じではない」病であると思っています。

今日のニュースで、「マツコ・デラックスさんが、体調不良で入院 三半規管にウイルス入り…めまい」がありました。

たぶん、メニエール病ではないかと思いますが、原因が、ウィルスとは、興味深いです。

わたしの目まいも、風邪の前兆と思われることが多いです。

今では、こうして、いろいろなことを素人でも調べられますが、昔は、調子が悪いことが続くと、それはそれは心配で、いろいろな病気を疑ってしまいました。

まして、ひとり暮らしの海外生活ではね。

性格的に、考えすぎだし、心配性だし、完ぺき症で、はっきりしないことが嫌いで、結論や答えを求めがちです。

医学の世界もコロコロ変わることもあるし、本当の原因は、なかなかわからないものです。でも、納得できるまで調べないと、クヨクヨ悩むことにもなるし、人生は、なかなか難しいです。

こういった心の中の悩みは、他人に話しづらいものですが、思い切って話すことで、気持ちが楽になることは多いです。

精神科の医師なんか、聞き上手で、とにかく、いっぱい話をさせます。回りくどい話を聞いていることは、大変だと思いますが、それも治療法のようです。

人間、毎日が完ぺきな健康状態だなんて、ほぼあり得ないと思います。調子が悪いときはあるものだし、原因がわからないことだってあります。

どっち道、いつかは死んでしまう日が来るわけですし、時には、病気や怪我も生きている証拠と思って、仲良くやっていくことも大切かもね。

いろいろな悩みもついてまわりますが、命にかかわるようなことって、意外と少ないです。

人間が死ぬのは不慮の事故とか、思いもしなかった病気のことが多くて、悩んでいる人とか病気を心配している人は、意外と死なないようです。「死ぬ死ぬ」といつも言っている人ほど長寿だという話もあります。

いつも健康に心配をして注意をしているからかも。

死にたくないからと悩んで、その悩みの苦しみから逃げるために死を選ぶとか、人間らしい矛盾ですよね。


2017年11月12日日曜日

不安神経症 その2 RBBB

時々目まいがしたり、吐き気がしたりする原因がわからないので、いろいろな検査を受けましたが、神経症の特徴のひとつとして、異常なしという結果が出ると、藪医者だとか、検査がおかしかったとか、自分で勝手に病気であるはずだと決めつけます。

検査結果で異常がないのは、病院のせいかもしれないと、病院を変えて、また検査を受けます。

そうして、何カ所かの病院で検査を受けたときに、「あなたの心臓には先天的な欠陥がある。」と告げられました。

女医さんとの会話は、英語でしたが、専門的な医学用語がわかるはずもなく、図を書いて説明をしてくれました。

「EKG検査の結果、あなたの心臓には、RBBB(right bundle branch block)という欠陥があります。心臓にいっている神経は3本ありますが、そのうちの1本がブロックされています。でも、右側は2本の神経が通っているので、そのうちの1本がブロックされていても、問題は無いでしょう。」

今なら、スマホでもパソコンでも検索一発で、ある程度のことはわかる時代ですが、当時は、自分で調べたくても調べる方法がありませんでした。

これは、ショックでした。子供の頃から活発で、元気いっぱい、運動も好きでしたし、長距離走なんかも問題なく出来たのに、心臓に先天的な欠陥とは。

いくら問題は無いと思うと女医さんがいってくれても、場所が場所で、心臓に欠陥といわれて平常心でいられる人は多くはないと思います。

まして、神経が弱っているときでした。

それから、どんどん、症状が悪化していって、夜中に息苦しくなって自分で救急車を呼んで病院に行くことも2回ありました。

もう死ぬかと思うくらい苦しくても、病院に着くと、急に楽になり、症状が消えました。これも、典型的な神経症の特徴とあとから知りました。

バスや電車に乗れば、閉所恐怖症のように、息苦しくなって、途中下車しないと耐えられませんでしたし、不眠症になったし、何を食べても味がしないようになっていきました。

高いビルの窓際に行くと、飛び降りたくなるのではないかと怖くて、窓に近寄れなくなったり、包丁が怖かった時期もありました。

一度、迷路に迷い込むと、症状はどんどん悪化していって、本当に鬱状態になってしまいました。

病院で出された薬の中には、余計に頭が重くなるような薬もあって、すぐに捨てましたが、正しい診察に行き着くまでは、本当に真っ暗闇でした。

特に午前中は、もう何をする気にもなれず、横になっているだけでした。

そうしたときに、たぶん、神経の病気だろうから、日本に帰って専門医に診てもらった方がいいとタイの医師にアドバイスしてもらい、日本に帰ったわけですが、精神科医からは、もしも心臓に不安があるのなら、一度専門医に精密検査をしてもらいなさいといわれました。

それで総合病院で検査を受けましたが、精密検査といっても、今から思えば、たいした検査ではなくて、心電図をとったり、トレッドミルというベルトコンベアーの上を歩きながら心電図などを調べる検査で、結果は、やはりRBBBでした。

その時に、医大の研修医たちが、ゾロゾロと検査の所に来て、医師から、この心電図を見て、何が問題かわかるかとか質問しているのを聞きながら検査を受けるのは、あまりいい経験ではありませんでした。

でも、検査の結果の説明で、やはり日本語での説明はわかりやすいですし、その先生のおかげで、ちょっと意識が変わりました。

というのは、RBBBで死ぬ人はほとんどいないし、よく考えて欲しいけど、誰でも、明日死ぬかもしれないし、長生きをするかもしれない。RBBBでも、100まで生きる人もいるんだから、余計な心配は要らないと思うとのことでした。

その話を聞いて、確かに、誰だって、心臓に欠陥があろうななかろうが、いつ死ぬかはわからないし、もうクヨクヨするのはやめようと思いました。

不安神経症だから、不安がなくなれば、症状はよくなります。

生きていく中で、不安のない人なんかいないわけですが、心配はOKでも心配しすぎはダメだってことなんですよね。

でも、生まれつきの性格はなかなか変わりません。

父の葬儀のあとに、脈が飛ぶことがありました。自分でもはっきりわかるくらい、脈は、一拍休み状態で、血圧計でも、ピッピッという音が、途中で止まり、このまま音がしないのではないかと不安になるくらいでした。

日本でも心電図をとってもらいましたが、やはりRBBBで、疲労から来る不整脈で心配は無いでしょうとのことでした。

この不整脈も数ヶ月続きましたが、バンコクお世話になっている医師が、トレッドミル検査などのあとに処方してくれたお薬で、症状は消えました。

心配性なので、日本から、携帯用の心電図計を送ってもらいました。






これを送ってもらってから、何度計っても異常なしです。

私の場合ですが、納得いくまで検査を受け不安を軽減させ、精神科の専門医から、お薬も処方してもらい、よく眠られるようになり、実家で、両親と生活したことで、徐々に鬱状態は消えていきました。

あと、自分では、よかったと思っていることは、開き直りで、なるようにしかならないから、まあ、いつ死ぬかわからないけど、適当に生きていこうと思ったことです。

人生、意外となんとかなるものですから、心配しすぎない方がいいですよと自分にも時々言い聞かせています。


2017年11月11日土曜日

不安神経症 その1 森田療法

海外での暮らしは、快適な部分もありますが、意識するしないにかかわらず、常にストレスもあります。

やはり、言葉が違うし、食事も違う、いろいろな習慣も違いますから、ストレス発散をしないとストレスはどんどんたまります。

一時、自分が神経症で苦しんだ経験から、お世話になった知り合いの精神科医にお願いをしてバンコクに来てもらい、邦人の相談会を企画したことがありました。

その時、日本人会に話を持っていって、協力をお願いしたときに、対応してくれた人が、こう言いました。

「タイにはストレス解消の場がいろいろとあるから、ストレスを抱えて病になる人はいないと思うよ。」と。

確かに、ゴルフにしてもきれいなおねえさんのいるクラブにしてもカラオケにしてもタイ式マッサージにしても、ストレス解消にはいいと思うし、タイは、安くて気楽に楽しめます。

しかし、その担当者も、日本人会内でのトラブルで、仕事を失い、髪の毛が真っ白になるくらい落ち込んだと聞きました。

精神的なストレスは、日々ストレス解消をしているから大丈夫だというほど甘くもないわけです。

わたしの不安神経症については、また、あらためて書くつもりですが、神経を病むと、本当に大変です。

まして、昔は、神経症とか、普通の人は知らないわけで、もうひとまとめに精神病、すなわち、キチガイ扱いでした。

ちょうど、日航の片桐機長の逆噴射事故があり、「心身症」という言葉がやっと登場した時代で、まあ、日本の心の病の夜明け的な時代でした。

私の場合には、迷路の中を彷徨いながら、この身体の不調の原因は何なんだろうと、検査を受けまくっていた時期と、やっと、原因は、身体ではなく、心にあるらしいと指摘してもらい、日本で、精神科に通った時期、そして、バンコクに戻って、今日まで、再発もなく暮らすことができている時期となります。

そんな中、勇気を振り絞って、帰国し、父に頼んで精神科に連れて行ってもらったとき、親不孝ばかりな息子でも、心配そうに見ていた親の愛を感じました。

心が落ち着ける環境に自分を置くことも、心の病には大切なことだと思います。

精神科の先生は、とりあえず、「森田療法」という本を読んでみなさいとアドバイスをしてくれました。医大内にある書店で売っているからと教えられ、その足で、父の運転する車で医大に行って本を購入しました。

「森田療法」の本の最初には、いろいろなタイプの神経症で苦しんだ人の経験談が書かれていて、苦しんでいるのは自分だけではなかったんだとか、同じような人もいるんだなとか、それまで、重くどんよりしていた気分が、ちょっと軽くなったような気がしました。

森田療法というのは、1919年に森田正馬先生により創始された神経質に対する精神療法のことです。

神経質が発症するのは

1.ヒポコンドリー性基調:いたずらに病苦を気にする精神的基調のこと。

2.神経質性格:弱力性(内向性・心配性・過敏症・心気症・受動的 )と強力性(完全欲・優越欲求・自尊欲求・健康欲求・支配欲求)を合わせ持つ性格。

3.精神交互作用:ある「感覚」に対する「注意」が強くなるとその「感覚」が強くなり、「感覚」が強くなるとさらにまた「注意」が強くなること。注意と感覚の悪循環。

4.思想の矛盾:かくあるべしと思う「思想」とそうではない「事実」が反対になり矛盾すること。理想の自分と現実の自分のギャップ。

5.生の欲望:向上・発展しようとする欲望。

といっています。

自分を振り返ってみても、自分の性格は、完ぺき主義だし、心配性だし、すぐ病気ではないかと思うし、死ぬことが怖いし、まあ、なるべくしてなった神経症だったかもしれません。

「森田療法」の基本は、「あるがまま」なんだそうで、あるがままに自分も自分を取り巻く環境も受け入れなさいということらしいですが、わたしは、本を読んで、なんか、まじめすぎるような気がして、実践はしていません。

実践の基本としては、早寝早起きの規則正しい生活で、感謝の心と奉仕の実践で、心の満足を得るといった感じのようでした。

早寝早起きや規則正しい生活は、健康生活の基本です。しかし、現代社会では、そんなに健康生活ばかりでは、生きていけないし、おもしろくないです。

だいたい、健康によくない食べ物はおいしいですし、健康的でない生活は楽しいことが多いです。

病気になったら、まあ、とりあえず、規則正しい生活を実践し、調子がよくなったら、いつまでも修行僧のように生きることもないと思いますね。

感謝の気持ちとか奉仕活動は、必要ですが、出来る範囲で十分だと思います。何事も無理を続けることは身体によくないです。

いずれにしても、「森田療法」は、長いこと、いろいろな人たちから支持されているようなので、一度本を読んでみることはお薦めします。

私の場合には、いろいろな人が同じような悩みで苦しんでいることを知ったことが最大の収穫でしたし、迷路から抜け出るためのヒントも見付かりました。

心の病は、複雑だし、個人差もあるから、まずは、専門医に相談するのが一番です。ネットなどには、いろいろなことが書かれているけど、それがいくら正しくても、とにかく専門医に診てもらうことが大切だと思います。

その専門医にしても、自分に合う合わないもあると思うので、ちょっと違うとか違和感を感じたら、別の所で相談するのもいいと思います。

とにかく、あの様な苦しみから、1人でも多くの人が、抜けだされることを祈り続けています。


2017年11月10日金曜日

SURLY DISC TRUCKER

自転車も、スピードに憧れる時期を過ぎると、やはり、街中で乗るには、安定感が重要だと気が付きます。

悪路に強いのはマウンテンバイクだけど、マウンテンバイクでは、重すぎるし、ちょうどいい感じの自転車はないかと、3年ほど前にいつも買っている自転車屋で相談してみたところ、薦められたのが、SURLYのフレームでした。

ディスクブレーキ仕様で、シマノのXTのセットで組み立ててもらいました。








この自転車は、フレームがクロモリで、アルミよりは重いですが、柔軟性に富んでいるので振動を吸収してくれます。

サドルも、Selle an atomicaをつけています。

写真のスタンドが安物で、すぐに緩むので、新しく付け替えています。前後に泥よけも付けているので濡れた道路でも泥の心配は無いです。

XTは、マウンテンバイク用のセットなので、坂道にも強いです。

この自転車は、ツーリング用に適しているのですが、もう体力も無いので長距離を乗ることもないです。

宝の持ち腐れで、たまに近場で乗るだけですが、お気に入りです。

ロードバイクもBromptonも、今では全く乗っていませんが、売れば二束三文だろうから、売りません。


神秘の世界

タイといえば、タイ式ボクシングとか、タイ料理とかニューハーフとかが有名ですが、忘れてはいけないのが、タイ式マッサージです。

涅槃仏で有名なワットポー寺院にあるタイ式マッサージの総本山で修行した人たちが、いろいろな店でマッサージをしてくれます。

ワットポーには、ルーシーダットンというヨーガのポーズをした仙人の石像もありますし、薬草などから作られたタイの丸薬なども売られています。

寺院にあることからも想像できますが、こうしたインドのアーユルベーダの教えは、仏教の伝来と共に、スリランカを経由してタイに伝わったといわれています。

日本人には漢方が有名ですが、インドには印方といわれる医術もありますし、漢方は、印方から発展してきているという説もあります。

ヨーガのポーズは、タイのルーシーダットンや中国の太極拳のように、身体を動かし、身体のひずみや間違った呼吸法を矯正するという方向もあります。

そして、アーユルベーダは、体内の正しい気の流れを回復させるために、いろいろな方法で施術します。そのひとつが、タイ式マッサージで、身体にある気の流れをセンというツボの連続した線を刺激しながら、健康状態を取り戻します。

日本だとリンパの流れをよくするということがよくいわれますね。ヨーガでは、チャクラというのが重要なポイントになり、日本では、丹田というのが有名です。

武術などの上達には、肛門を締め、丹田に力を込めるということを習得しなければなりません。

柔道や相撲などでは、足の指で土を掴むようにすることで、下半身が安定します。

タイ式マッサージには、スジを伸ばすというやり方も重要ですが、これを下手くそなマッサージ師が無理して行うと、取り返しのつかない事故が起きます。

人間が生きていることは、呼吸をしていることで、正しい呼吸法が、正しい姿勢と共に大切ですが、正しい呼吸法とは、プラーナーヤーマといわれる、ゆっくり深く息を吸い、その息を体中に充満させたあと、またゆっくりとすべての息を吐き出す呼吸法です。

中国では、気功というのが有名で、気を自由に操る気功師という人もいます。

「病は気から」といわれるように、気の持ちようで、健康になったり、病気になったりもします。

「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉もあるように、精神統一をすれば、驚くような荒技も出来るし、「火事場のばか力」といわれるような、まさかの怪力を出すことも出来るわけです。

気功師の中には、合気道の達人のように、相手の身体に触れることなく、相手を吹っ飛ばすことも出来るそうです。

催眠術というのは、医学ですが、この催眠術で人に暗示をかけて、動きを操ることも可能で、テレビなどでも、時々やっていますが、暗示にかかりやすい人とかかりにくい人とがいて、かかりにくい人にとっては、嘘ばっかりとか疑うわけですが、自分が、実際にかかってしまった経験があると、信じますし、ますます暗示にかかりやすくなるようです。

催眠術も、かける側とかけられる側との呼吸の調和から出来ているわけで、最初から、嘘に決まっていると決めつけて、呼吸が乱れているとかかりにくいようです。

わたしは、以前、有名な気功師に会った経験があり、私の場合には、半信半疑でしたが、親指と人差し指で円を作って、その円を気功師が、開こうとするのですが、暗示ひとつで、簡単に開いたり、なかなか開かなかったりしました。

要するに、わたしが、いくら力を入れても、力が入らなくなることがあったわけです。

あと、後ろに倒れないように身体に力を入れて立っているところに、おでこに気功師が指を触れると、それだけで、身体が後ろに倒れそうになりました。うしろには、身体を支えてくれる人がいましたが、もしも誰もいなかったら、ひっくり返っていたと思います。

こうしたことを悪用すれば、人を簡単に洗脳するとか、マインドコントロールも可能なわけで、本当に怖い世界です。暗示にかかりやすい人は、注意した方がいいです。

わたしが、不安神経症鬱状態になって苦しんだときに、お世話になった精神科の先生は、催眠術の本を出しているほどの専門家でしたが、彼のように、心の病気の治療法として催眠術でも気功でも使うのでしたら、大歓迎です。

疲れているとかだるいとかいうときだけでなく、ちょっと落ち込み気味の時でも、時にはマッサージで元気になることもありますし、家で、自分でプラーナーヤーマをするだけで、元気がでることもあります。

ネット時代は、検索一発で、プラーナーヤーマも自分で出来ます。


2017年11月8日水曜日

ベルリンの壁崩壊

明日は11月9日ですが、1989年の11月9日に、東西ベルリンの間にあった壁が、意味を失った記念すべき日です。

第二次大戦後に東西に分割されたドイツの首都ベルリンでしたが、東ドイツの中にある島のように、周囲は東ドイツでした。

東ベルリンと西ベルリンとの行き来は、自由に出来ていましたが、あまりに東ドイツから西ドイツへと逃げる人びとが多かったことから、1961年8月13日に突然東ドイツが東西ベルリン間の通行を全て遮断し、西ベルリンの周囲を全て有刺鉄線で隔離してしまいました。そして、後にコンクリートの壁を作ったのが、ベルリンの壁でした。

西ドイツから西ベルリンに行くには、空路か、陸路でしたが、陸路の場合には、必ず東ドイツを通り過ぎなければ西ベルリンには入れませんでした。


当時の日本のパスポートには、はっきりと、北朝鮮と東ドイツと北ベトナムを除くすべての国で有効と書かれていました。





そして、それからは、東西ベルリンを自由に行き来することは許されず、東ベルリンから西ベルリンへ逃げてくる人たちは、東ベルリン側にいる警備兵からの銃撃で多くの犠牲者が出てきました。


この写真は、西ベルリン側にあった、犠牲者の慰霊碑です。
1961年8月13日から1971年8月13日と書かれています。







この写真は、壁の上から東ベルリンを見ているところで、NATO軍の兵士が監視していました。






わたしは、1975年にドイツ人の友人たちとブレーメンから車で西ベルリンまで行ったことがありましたが、途中、国境に検問所はあったものの、ほぼノーチェックでした。


わたしのみ、パスポートに東ドイツの入国スタンプを押されました。
東ドイツでは使えないはずのパスポートなのに不思議でした。




西ベルリンの地下鉄は、途中、東ベルリンにも入っていくわけですが、当然、東ベルリンの駅には止まりませんでした。あの時写真を撮っておけばよかったのにと、とても残念です。

そして、1980年代になると、東西の雪解けがはじまり、ついに、ベルリンの壁も、壊される日が来たわけです。

ブレーメン時代に知り合った友人たちの中には、子供の頃、母親に連れられて、東ドイツから西ドイツに逃げてきた人もいました。彼の場合には、東ドイツからチェコスロバキアに行って、そこからオーストリア経由でドイツに亡命したそうです。

命をかけた逃亡です。

ドイツもベトナムも統一され、残るは朝鮮半島です。

わたしの友人が、ベルリンの壁崩壊後にベルリンに行って、ベルリンの壁の破片を持ち帰りました。












やっぱり平和がいいですね。


2017年11月6日月曜日

ベトナムの民話から 「蚊が生まれたワケ」


 昔々、国中で一番美しい奥さんを持った男がいました。

 男は、美しい奥さんを喜ばせる為でしたら、何でも喜んでしました。しかし、彼の奥さんは、なかなか喜ばない性格の女性でした。

 彼女が興味を持っているのは、自分をより美しく見せる為の、高価な宝石であり、着るものでした。

 男は、けして貧乏ではなく、小作人をもち、快適な家を持っていましたが、この女性は、満足というものを知らない女性でした。

 ある日、彼女は、よくない風邪をひいて寝込んでしまいました。

 男が、一生懸命に看病したかいもなく、この美しい女性は、死んでしまいました。

 男は、嘆き悲しんで、亡骸を荼毘にふすことを拒みました。男は、夜も寝ないで、亡骸を抱いて、泣き続けました。男が、考えることは、どうしたら、彼女を生き返らせる事が出来るかということだけでした。

 朝が来た時、男は、一つの決心をしました。彼女を生き返らせる万能薬を持っている神様を探しに行くことでした。

 彼は、大急ぎで、彼の土地と家を処分して、小さな船を手に入れ、積めるだけの食糧を買い込みました。そして、彼女の亡骸を、大事にゴザで包んで、船に乗せ、直ちに神様を求めて、船を出しました。

 川を何日も掛かって下り、やっと海に出ました。彼は、海岸にいる人々に、どこに行ったら、死人を生き返らせる万能薬を持っている神様に会えるのか教えてくれと頼みましたが、みんな知りませんというばかりでした。

 彼は、あてもなく船を進めました。

 あるひどい霧の夜、彼の船は、座礁してしまい、進むことが出来なくなってしまいました。

 彼は、霧が晴れるのをじっと待ちました。霧が晴れると、そこは、どこか知らない、まったく人気のない海岸でした。遠くには、頂上が、雲に包まれて見えなくなっているほどの高い山が見えました。

 男は、昔から、神様は、人気のない高い山の頂にある、洞穴の中にいるといわれているのを思い出して、何とか、船を岸までつけることにしました。

 やっとの思いで、船を岸につけ、近くの木に船をロープで結んだ男は、急いで、高い山の頂を目指して、走りはじめました。

 山道は、鋭く尖った岩が、ころがっており、急な坂道を登ることは、大変なことで、男の足には、マメができ、やがてそれが破れて、血だらけになりました。

 しかし男は、頂上を目指して、休む時間を惜しんで、走り続けました。

 頂に近づいてくると、道も広くなって、傾斜も緩やかになって来ました。

 そして、ついに男は、頂にある洞窟を見つけたのです。

 彼は、最後の力を振り絞って、洞窟の狭い入り口に頭から、這って入っていきましたが、入った瞬間気を失ってしまいました。

 男が、気がついた時に、男の前には、一人の白髪で、真っ白なあごひげをはやした老人が、座っていました。

 男は、ぼんやりした頭でも、この老人が、普通の老人ではないことがわかりました。おそらく、この老人こそ、捜し求めている、神様に違いないと思いました。

 男は、老人の膝元に這い寄って、妻のこと、今までのことを話しはじめました。

 自分が、いかに彼女を愛していたか、そして、彼女が、死んでしまってから、いかに彼が悲しみ、彼女を生き返らせてくれるだろう神様を求めて、探し回ったかを説明しました。

 老人は、彼を優しい目で見つめながら、首を横に振りながら静かに話しはじめました。

 「お前が、いかに彼女を愛していたか、また、大変な苦労をしてここまで来たことから、お前が勇敢な男であることはよく分かるが、お前の死んだ女房は、自分勝手で、わがままな女だ。いいかい、お前の女房は、もう死んでしまって、この世にはいないのだよ。この現実を素直に受け入れて、過ぎ去ったことは、忘れて、お前自身の新しい人生を生きることだ。」

 しかし、男は、泣きながら、何度も何度も、神様に彼女を生き返らせてくださいとお願いしました。「彼女のいない人生なんて、自分には、何の意味もありません。どうかわたしの願いをかなえてください。」

 老人は、もう一度男に話し掛けました。「よく考えてみることだ。お前の女房が生き返った後、お前が、もっともっと、苦しむことになるのだよ。」

 男は、「たとえ、彼女が生き返って、わたしに対する気持ちを変えたにしても、もう二度と神様にお願いすることはありませんから、どうぞ、彼女を生き返らせてください。」と頭を下げました。

 老人は、ため息をつきながら、「本当にお前は、かわいそうな男だ。仕方がないからお前の望みをかなえてやることにしよう。船に戻って、お前の右手の人差し指を、針で刺して、お前の血を三滴、彼女の口に含ませなさい。そうすれば、お前の女房は、生き返るはずだ。ただし、これだけは覚えておきなさい。もしも、お前の女房が、お前に対して不誠実で、お前を苦しめる時が来たら、同じように彼女の右手の人差し指に針を刺して、血を三滴返してもらいなさい。」といって、姿を消してしまいました。

 男は、大急ぎで、洞窟から抜け出して、ふもとを目指して、全力で走り出しました。もう、疲れも足の痛みも感じません。足から血を流しながら、走り続けました。

 船に辿り着いて、男は、老人にいわれたように、右手の人差し指を針で刺して、自分の血を三滴、彼女の口に含ませました。

 するとどうでしょう、老人のいったように、愛しい彼女が生き返ったではありませんか。生き返っただけではなく、前よりも一層美しくなっていました。

 彼の喜びは、たとえようもありませんでした。男は、彼女に、今までのことを説明しました。しかし、彼女は、何の反応も示しませんでした。そればかりか、男が、土地も家も売り払ってしまったことを知った彼女は、大変怒りました。

 確かに、今では、たった一艘の小船があるだけですが、彼女は、生き返ったことに対する喜びよりも、何の財産もない貧しい夫とこれから一緒に暮らさなければならないことを嘆きました。

 住む家もなく、船での生活をすることになった二人は、生きる為に、村人から頼まれたものを、目的の場所まで運ぶ仕事をはじめました。

 その日も、男は、頼まれた荷物を届ける為に、港に碇を下ろして、荷物を届けに船を出て行きました。残された女房は、することもなく、ぼんやりとまわりの景色を眺めていました。丁度その時、かなりのお金持ちの商人の持ち物と思われる、たいそう立派なジャンク船が入って来て、隣に碇を下ろしました。

 女性は、美しいジャンク船を眺めて、「わたしも、こんな船で生活が出来たとしたら、どんなに素晴らしいことかしら。」と心の中で考えました。

 ジャンク船の持ち主の商人は、偶然に窓からその女性を見ていました。

 女性のあまりの美しさに、商人は一目ぼれをしました。

 女性が一人でいることを確かめた商人は、急いでデッキにあがって、女性に呼びかけました。

 呼びかけられた女性は、呼びかけて来た男の服装から、美しいジャンク船の持ち主に違いないと見抜いて、恥じらいも礼儀も忘れて、優しい声で呼び掛けに応えました。

 しばらく話しているうちに、商人が、自分の船を案内したいので、こちらに来ませんかと誘いました。

 彼女は、何のためらいもなく誘いを受けました。船は、外側だけでなく、細かな所まで、お金の掛かった素晴らしい船でした。

 商人に案内されて、商人の船室を見た女性は、豪華な家具や美しいカーテンを見て、ため息をつきました。「今の惨めな生活から、このような豪華な船の生活に変わることが出来たとしたら、どんなに素晴らしいことでしょう。」と、心の中で考えました。

 そこで、彼女は、自分のことを、夫に先立たれた、誰の世話にもなっていない、一人ぼっちの哀れな女性だと商人に自己紹介をしました。

 それを聞いて、商人は、その場で結婚を申し込みました。女性は、神様が予言したように自分の夫のことなど忘れて、もちろん喜んでと答えました。お金持ちの商人は、女性が心変わりをしないうちにと、急いで碇を上げて、港を出て行きました。

 そんな事を知らない男は、船に帰って来て、誰もいないことに驚いて、まわりの船の人に、自分の女房が、どこに行ったのかを尋ねてまわりました。

 まわりの船の人から、大きなジャンク船に乗ったお金持ちの商人について行ったことを知った男は、自分の運命を嘆きました。

 その時になって、あの時、神様が何のことをいっていたのかを理解しました。

 男は、神様の言葉にしたがって、この女性を探し出して、自分の血を返してもらおうと決心しました。

 男は、彼女を探して、いろいろな港に立ち寄りながら生活をしましたが、彼女の乗っていったジャンク船を見つけ出すことは出来ませんでした。でも男は、諦めずに、彼女を探し続けました。

 一年後、男が、彼女が彼から去っていった港に入ってゆくと、そこに大きなジャンク船がとまっているのを見つけ、その横に船をとめました。

 下から、上を眺めると、丁度彼から去っていった懐かしい彼の女房の声がして来ました。

 デッキで美しい絹の着物を着て、たくさんの宝石を身につけた彼女が、ちょうど出かけてゆく、やはり高価そうな着物を着た商人にお別れをしている所が見えました。

 商人が出かけていったのを見届けた男は、誰にも見付からないように、ジャンク船に乗り移りました。

 そして、男の女房がいる部屋を探して歩きました。

 自分の船室の鏡台の前に座っている彼女を見つけた男は、彼女の部屋に入っていって、どうして自分を裏切って出ていったのかと冷静に話し掛けました。

 男を裏切った女性は、男のみすぼらしい服装と貧相な顔を軽蔑した目で眺めながら、ただ笑っているだけでした。

 「わたしは、惨めな小船での生活を捨てて、この豪華な船の生活の乗り移ったことを、少しも後悔していないわ。出ていってちょうだい。さもないと大声を出して、助けを呼ぶわよ。」

 「お前の考え方は、よく分かった。お前の希望通りに出てゆくから、その前に一つだけ話を聞いてくれ。お前が一度死んだ時に、俺は、自分の血を三滴、お前にやった話をしたことを覚えているだろう。その三滴の血を今すぐ返してくれたら、お前の前から、永遠に消えてやる。」

 「あんたの希望が、たったそれだけのことだったら、簡単なことだわ。」と、彼女は、自分のヘアーピンで、右手の人差し指を刺して、流れて来た血を彼差し出した手の平に返しました。

 彼女の手から滴り落ちた血が、男の手の平に届くと同時に、彼女の顔色が青白くなり、彼女は気を失って、倒れてしまい、そのまま死んでしまいました。

 しかし、彼女の魂は、行き先もないまま、何とか再び生き返ろうとして人間の血を求めて、うろつきまわることになりました。

 その姿を見た、神様が、彼女の魂に、蚊の体を与えたので、それから、現在のように、蚊は、人間の血を求めて飛び回り、何とか生き返ることが出来ないものかと、今日も人間の血を吸っているのです。


Copyright(c) 1997 北風剛
無断複製、無断頒布厳禁

2017年11月4日土曜日

ゲーテ・インスティトゥート(Goethe-Institut)

デンマーク滞在中に、ドイツ語の勉強がしたくなって、いろいろと調べて、ゲーテ・インスティトゥートというドイツ語の学校があることがわかり、そこに行こうと思いました。

ドイツをヒッチハイクしたときに、アウトバーンで車から降ろされ、どうしたらいいのかわからず、歩いていたら、上空に警察のヘリコプターが現れて、早くアウトバーンから下りろといわれているような気がして、下に降りられるところを探して、そこから近くの町を目指してトボトボと歩きました。

歩いても歩いても、町があらわれず、重いリュックを背負っているので、もう疲れ切って参りましたが、まわりが暗くなり始めた頃、やっと民家が見えてきて、道路脇に座り込んでいたら、通りかかったおばあさんが、こちらに来なさいと呼んでくれて、おばあさんの家に招待されました。

おばあさんに紅茶とクッキーをご馳走になり、おばあさんの亡くなった旦那さんの写真などを見せてもらい、疲れも吹っ飛んだことがありました。

それ以来、ドイツが大好きになっていました。コペンハーゲンで知り合ったドイツ人たちも、みんなフレンドリーで、そうしたことがあったので、ドイツ語を勉強しようと思ったのかもしれません。

詳しいことは忘れてしまいましたが、ミューヘンにある学校本部に手紙を書いて、入学のための手続きを調べて、学費を前払いして、入学の書類が届いてから、ドイツに向かいました。

ドイツ語の勉強をしようと思って、日本からドイツ語入門の本を送ってもらって、独学しました。


1966年初版でわたしの手元にあるのは1974年改訂32版です。






それまでドイツ語の勉強はしたことがなかったのですが、実にわかりやすい本で、入学までの短期間で、本の半分近くまで勉強できました。

わたしが、通うことになった学校は、リューネブルグという、ドイツ北部にある古い町にある学校でした。ハンブルグの近くでした。中世に岩塩で栄えた町だそうです。

学校では、簡単なクラス分けの試験があって、わたしのにわか勉強でも中級に編入されました。

ロンドンの英語学校よりは、一クラスの人数も多く、当時のソ連とか当時のチェコスロバキアとかイランやポルトガルとかアフリカとか、いろいろな国の生徒がいました。

学校で下宿も紹介してくれ、食事も3食付きでの費用でした。

1970年代でも、その学校に、日本人はわたしを含めて6人いました。大学生2名と大学の教授1名、謎の男性1名とやはり謎の女性1名でした。一番あやしかったのは、わたしだったかも。


学生証。








下宿は、ドイツ人のおばあさんが1人で暮らしている家でした。学校までは、市バスで通ったような記憶があります。

朝食は、コーヒーと黒パンにジャム程度だったですし、夜は、毎日のようにソーセージ入りの豆スープとパン。お昼だけが、洋食らしい洋食で、金曜日は、肉を食べない日で、お魚でした。

シャワーは,夕方学校で浴びたような記憶があります。

私のクラスの先生は、40代のハンス先生で、いつもワインを飲みながらの授業で、ワインはアルコールではないというのが口癖でした。

年が近かったこともあったので、大学生の山◯くんと矢◯くんとはすぐに仲良しになりました。

ドイツ語は、スペルの通りの発音がほとんどですから、文字を見て発音するのは簡単でしたが、やはり、最初は、先生の言っているドイツ語が全く聞き取れず、苦労をしました。

英語も、やはり最初は聞き取りに苦労しましたが、ドイツ語の方が耳が慣れるのが早かったように思います。

外国語は、だいたいの基本がわかれば、あとは語彙数を増やしていくことと、実際に耳で聞いて、自分で話してみることだと思います。

だから、ゲーテ・インスティトゥートのあとは、デンマークで知り合ったドイツ人の所に居候をさせてもらって、ドイツ語会話の実践をしようと思って、ブレーメンに向かいました。