2017年8月30日水曜日

ヨーロッパから3年ぶりに帰国

1973年3月3日に横浜を出発してからおよそ3年ぶりに帰国することになりました。

当時からよく言われていたんですが、最初の3ヶ月を過ぎると、次は3年、それを過ぎると、もう帰国する可能性がどんどん少なくなるといわれていました。

このままでいいのかとか、いろいろと考えた時期で、結論は、帰国でした。

当時はデンマークのコペンハーゲンに滞在していたので、安い片道チケットを探し、ALIA ロイヤルヨルダン航空の事務所で羽田までの片道航空券を購入しました。












チケットには、料金が書かれているのですが、文字が消えかかっていて判読できません。

購入日は、1976年の1月5日で、コペンハーゲン発が、1月25日午前11:00になっています。

チケットにある経由地は、ヨルダンのアンマンとタイのバンコクになっていて、バンコクでは、チャバリットホテルに1泊のストップオーバーとなっています。

バンコクからは、今はもうないタイのAIR SIAM航空に乗り換えて羽田に1月27日に到着予定です。

横浜からの出発も1人でしたが、ナホトカまでの船内で、いろいろな日本人たちと知り合うことが出来、本当の意味では1人でもなかったのですが、日本に帰る時には、正真正銘、日本人はたった1人でした。

帰国するだけなので、淋しくもなかったのですが、ボーイング707の最初の経由地ドイツのフランクフルト空港では、ちょっと身震いすることが起きました。

飛行機が空港に着陸して、窓の外を見ると、外は雪でしたが、飛行機は、なかなか停止せず、空港ビルからどんどん離れていって、まわりに装甲車が止まっているところに停止しました。

すると、自動小銃を持った軍人のような一団が機内に乗り込んできて、機内をチェックしてまわりました。

1972年9月のミュンヘンオリンピック事件のようなことが起きるのかと、本当に怖かったです。

でも何事もなく、飛行機はヨルダンのアンマン空港に向け出発で、一安心でした。こういった時に外国人の中たった1人の日本人というのは、心細いモノでした。

コペンもフランクフルトも雪でしたが、アンマンは、夜中なのに猛暑。厚手のコートを着ていたので、暑かった。

待合室でかなり待たされましたが、そこはまさに中東で、わたしにとっては、アリババと40人の盗賊の世界で、中東の人たちの服装や空港の待合室なのにヒツジを連れた人がいて驚きました。

バンコクも、暑かったですが、空港から用意されたマイクロバスに乗せられて、バンコク市内のホテルへ向かう車内で、ガイドのような西洋人が、バンコクには、ジプシーのような女性が近寄ってきてスリをするから気をつけろとか、興味深い話をしてくれました。

案内されたホテルは、当時のわたしにとっては、超高級ホテルで、ツインルームに1人。冷房完備にバストイレ付きですし、航空会社の食事クーポンまでついていました。

そして、翌日の朝食後、再びバンコクの空港まで送ってもらい、今度は、VG902便ボーイング747ジャンボジェットで、香港・台北を経由して羽田までの快適な空の旅でした。











生まれて初めて乗ったジェット機が、ハバロフスクからモスクワまで乗ったソ連のイリューシン。機体全体が、ブリキのようなイメージの飛行機でした。フライトアテンダントも中年の通路いっぱい体型のおばさんでした。

次が、ロイヤルヨルダンのボーイング707でかなり狭かったです。それで、エアーサイアムのジャンボですから、まあ、大きさと豪華さに驚きました。タイ人のフライトアテンダントは、若くてスタイルもいいですし、眺めているだけで疲れも癒やされました。

当時は、バンコクから日本までは、香港か台北、または両方に寄港していました。

日本の羽田も生まれて初めてでしたが、そこはすでに日本で、やっと帰ってきたと一安心でした。長くて短かったヨーロッパの約3年、楽しい思い出がほとんどでした。

しかし、今になって思うのは、ヨーロッパに行ってきますと親に告げてでていって、3年間に金の無心以外に手紙もほとんど書かず、電話したのは1度だけでしたから、なんと親不孝をしたことかと、親がいなくなった今でも、大いに反省です。