2018年12月27日木曜日

遠州三河地方の自然災害に関してのメモ

江戸時代の1686年10月3日(貞享3年8月6日)に遠江と三河の沖合いでマグニチュード6.5〜7の地震が発生し、遠江三河地震と呼ばれた。

1703年 - 浜松町奉行が浜松宿勢を調査する。総戸数1,386戸、人口4,336人。

江戸時代の1707年10月28日(宝永4年10月4日)、東海道沖から南海道沖(北緯33.2度、東経135.9度を震源域として発生した巨大地震は、宝永地震と呼ばれた。

宝永地震のマグニチュードの推定値には8.4から9.3まで

浜松の推定震度は、5-6

この地震により、浜名湖が太平洋とつながる今切は津波によって1里(約3.9 km)もの大口を開け、遠州灘と湖とを隔てる半島は切り離され島となり、半島にあった新居関・新居宿と共に流失し不通となる。


浜松藩では1848年に大規模な一揆が起きており、これは水野忠邦が藩主時代老中になるための運動資金を領民から収奪した上に、借入金を返済せずに浜松から立ち去ろうとした行動に対する不満から発生したものであり、民衆が不安定な生活の中からも幕府や各藩が深刻な財政危機に陥り幕藩体制が綻びていくなか新しい時代を求めていた時代に発生した東海地震であった。

1854年12月23日(嘉永7年11月4日)に東海地震が起き、その約32時間後に安政南海地震が発生した。マグニチュードは8.4と推定されている

浜松の推定震度5-6

遠江気賀 : 高潮で田畑およそ2800石が沈下して汐下となり湖の一部となった。

浜名湖入口の舞坂では今切の渡船場で「浪高さ三丈(9m)ばかり相見え」の記録が残るが、津波に襲われ、津波で人家が流失した舞阪町で死者が無かったのは、1707年に当地で甚大な被害のあった宝永津波の教訓が生かされた。

1855年3月15日には遠江・駿河で液状化が起こる程度の地震があり、続いて1855年11月7日(安政2年9月28日)に遠州灘で地震。これは、東海地震の最大余震(M 7 - 7.5)といわれる。安政江戸地震の4日前のことである。

遠江新居で観測された津波が3メートル、舞阪で観測された津波が、4,9メートル。

1855年11月11日(安政2年10月2日)に安政江戸地震(M 7.0 - 7.1)が起きる。


1858年10月11日-(安政5年9月5日-)- 安政の大獄

1867年11月9日(慶応3年10月14日)- 大政奉還。

江戸末期に、多くの地震や災害が日本を襲い、日本は、開国へと進んだ。

1889年4月1日 - 町制施行。敷知郡浜松町が成立した(当時の人口13,630人

1911年7月1日 - 市制施行により浜松市となる(当時の人口36,782人)

1944年(昭和19年)12月7日に、紀伊半島南東沖を震源として発生した東南海地震 M7.9 が発生。

1945年 - 6月の浜松空襲や、その前後の艦砲射撃により、市街地の大半を焼失する。

1945年(昭和20年)10月5日に天竜川が決壊

1948年 - 浜松事件が勃発。小野組と在日朝鮮人の戦闘で、死者数人・負傷者300人を出した。

この件は、もう少し詳しく調べてから、改めて書くつもり。

健康が一番、二番は平和ですね。自然災害は、来ないでくれと祈るだけです。

「生きてさえいれば、なんとかなる」と、「まんぷく」にでていた三田村さんが、死ぬ間際に福ちゃんに残してくれた言葉です。