2019年1月19日土曜日

ストックホルムでの話

横浜からソ連を通って、フィンランドに入り、友人の所に居候するなどしてから、スウェーデンのストックホルムに行きました。

当時のメモを見ると、3月27日の午前6時到着となっています。

フィンランドからスウェーデンに渡るフェリーは、当時の日本人旅行者の間ではナンパ船と言われていて、スウェーデンに出稼ぎに行く若いフィンランド人の女性と友達になれるといわれていました。

実際、フェリーのベンチで横になっていると、何度か、若い女の子に起こされました。でも、話も通じないし、眠いし、これからが不安だしで、ただそれだけでした。

日本からナホトカまでの船では、日本人もたくさん乗っていたし、そこで知り合ったフィンランドに住む友人も出来たし、フィンランドでも、1人になることはなかったけど、いざ、1人になったら、それはそれは、心細かった。

日本を出る前に、ストックホルムに住んでいた高橋照幸さんに手紙を出して、ストックに行ったら、よろしくと伝えてありましたが、どうやって、照幸さんと会うことが出来たのかは、覚えていません。

たぶん、下宿先の電話番号を聞いていたのでしょう。

今と違って、スマホのない時代、連絡は、手紙か公衆電話でした。

高橋照幸さんは、「休みの国」というバンドをやっていて、メジャーではなかったけど、知る人ぞ知るというミュージシャンでした。


照幸さんについては、以前にも書いています

照幸さんの下宿先に居候させてもらったんですが、照幸さんは、アルバイトをしていたので、朝は、仕事に出かけるときに、一緒に部屋を出て、アルバイト先まで付いていったりしていました。

1人で行動をするときには、予備のカギがなかったので、照幸さんが帰宅しただろう時間に電話して、下のドアを開けてもらっていました。

当時のストックホルムの一般的な建物は、住人が下のドアを開けるスイッチを押してくれないと中には入れませんでした。

古い建物で、大きなドアでした。ビルにエレベーターがあったかどうかも、もう記憶にないですが、ワンフロアーに年老いた大家さんが住んでいて、6畳に満たないくらいの一部屋を照幸さんは借りていました。

地下鉄の乗り方を教えてもらい、下宿先の大家さんフレディリクソンさんに、「照幸さんと話がしたいです」という照幸さんに教えてもらったスウェーデン語をメモ帳にカタカナで、「モ・ヤ・ターラ・メ・テル?」と書いていたので、それを伝え、通じるか心配でしたが、けっこう通じました。

ところが、居候させてもらって5日ほどたった日に、そろそろ照幸さんが戻っている頃だと、電話しても、まだ戻っておらず、何度電話をしても、留守で、もう夜も遅くなり、大家さんも電話に出てもらえなくなりました。

万事休すで、もうパニックでした。日中は、暖かかったので、Tシャツに上着というかっこうで、パスポートも持たず、手持ちのお金は、ほんのわずかで、参りました。

日本を出て、まだ1ヶ月ほど、海外にもなれていませんし、ストックホルムに来て1週間くらいでしたし、英語も片言でしたから、まあ、一晩中歩いて、夜明けを待てばいいと思ったわけです。

照幸さんからは、スウェーデンは、いろいろと法律が厳しいから、気をつけるように言われていましたし、照幸さんに迷惑もかけられないからと、不審者と思われないように、大通りをひたすら歩きました。

ところが、北欧の冬は、夜が長いんですよね。歩いても歩いても、明るくなりません。それに、4月のはじめといえども、日没後は、寒さが、すごいんです。

歩くのをやめたら、凍死すると、マジ、心配になるほどの寒さでした。お腹も減ったけど、若かったから、我慢できました。

今はどうなのかわからないですが、当時は、お店の閉まるのも早かったですし、地下鉄も夜遅くまでは運行していませんでした。

だから、座って朝を待つ場所が見付かりませんでした。土地勘もありませんでしたし、街の詳しいこともわかっていませんでした。

あとになって考えれば、出来ることはあったと思うけど、知らない街に1人で、パニックで知恵も回りませんでした。

翌朝、無事に照幸さんに電話が出来て、部屋で休ませてもらいましたし、バッカじゃないのと、大笑いされましたが、今になれば、いい思い出です。