2019年4月12日金曜日

仲地義雄さんの思い出

戦前の日本には、想像を絶する貧しい暮らしをしていた人たちがいました。

北海道から東北・北陸にかけては、自然も厳しいですし、九州や沖縄にも貧しいところがたくさんあったそうです。

五木の子守歌」を聴くと、当時の口減らしで、幼くして奉公に出されていった子供たちの悲しみを想像することが出来ます。

男の子も女の子も奉公に出されたわけですが、10歳に満たないような子供たちが、生きるため、家族のために必死で働いていた時代で、考えるだけで胸が痛みます。

行き着く果ては、男はやくざ、女は淫売とも言われたそうです。

こんな記事を見つけました。

オランダ人と結婚し、オランダで暮らすシンガポール出身の女性が、自分の父親のルーツを探して沖縄にいったという記事です。

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1916年1月4日生まれの仲地義雄さんは、学校に通ったことがなく、8歳で糸満市の遊郭へ奉公に出され、そこで14歳まで働いたという。

それ以降は那覇市で船の掃除をしたり、ダイビングで真珠やタカセガイを採ったりする仕事をしていたが、1938年ごろ職場での暴力から逃れるため、タイ行きの船に潜り込んだ。

その後シンガポールに渡り、「ヨセフ・リン・チュイー・グアン」と名乗り、シンガポール人として生活した。

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この仲地さんからシンガポールでお話を伺ったことがありました。

私が伺った話では、生まれは、宮古島だったと思います。南洋の孤島でも宮古島(都島)とはこれいかにと冗談をいっていました。

親に売られた話、漁船で働かされて、荒縄を腰巻き、素潜りで、真珠や貝を獲った話を聞きました。

沖縄の人たちに多い、ずんぐりむっくりの体型でしたが、潜水で鍛えたためか、胸板は、ものすごく厚かったです。

潜水時の水圧のためなのか、それとも戦争の時なのかわからないですが、耳が少し聞こえないようでした。

タイからマレーシアに流れて、自由の身となり、中国人として暮らしていたのですが、日本軍に現地召集され、通訳などをして終戦を迎えたと聞きました。

確か、広東系の奥さんと結婚をして、独立したシンガポールで暮らしていました。

ものすごい苦労をされてきていらっしゃったでしょうに、にこやかな笑顔で、とても素敵でした。

シンガポールにある(今もあるのかわかりませんが)日本人墓地に案内して頂き、二葉亭四迷や軍人さんのりっぱな墓や、名も無い「唐行きさん」たちの朽ち果てた墓石を見ました。

貧しい頃の日本から、東南アジアの港町に売られていって、そこの娼館で働いた女性たちがいたわけです。

バブル以降は、「じゃぱゆきさん」といわれる東南アジアから日本に出稼ぎに行く女性たちが話題になりましたが、やはり、貧しさは、悲惨ですね。国は平和だけでなく、豊かでないと、国民は悲惨です。

仲地義雄さんは、96年3月4日に79歳でお亡くなりになったそうです。

娘さんは、その後、親戚の人たちに会うことが出来たようです。

戦争時代の話など、もっといっぱいお話を伺っておけばよかったと後悔しています。

天国で安らかにお休みください